裏表ラバーズ
忘れていたわけではないけれど、気がついたらもう3月14日になっていた。
バレンタインにはチョコを渡し、同時に渡されてもいたヒカルとしてはホワイトデーを忘れるわけには
いかなかったのだが、細々と出張や出かける仕事が多く入って、日にちの感覚がズレていたのだろ
うと思う。
あ、そういえば今日は何日だっけと考えて、14日だと気がついたのは当日の昼過ぎ。
打ち掛けも終わった手合い中のことだった。
ぱちりと相手が白い石を置いたのを見て、次の一手を考えている合間にふと思い出したのだった。
(うわ、ヤバイ)
今から用意するとしたら棋院近くのコンビニに走るしか無く、でもそんなことをしたら忘れていた感が
満々だ。
(でも、あいつはきっと用意していると思うし)
それなのに、あ、ごめん。おれすっかり忘れちゃってとどうして言い訳出来るだろう。
チョコを渡し、渡されて、おそらく今日も念の入った贈り物を用意しているであろう相手。塔矢アキラ
はしかし、最もマズイことには今現在ヒカルの目の前にいて、対局している相手だった。
(そもそも、こうして打ってるのにどこで、いつ買いにいけばいいんだ)
終われば終わったでじっくりと検討することをアキラは望むであろうし、それを断って飴なりクッキー
なりを買ってきては怒りを買うばかりで絶対喜んでは貰えない。
(和谷に足止めしてもらって。…いや、いっそ急な腹痛だって嘘ついてトイレに行くふりをして買いに
行くか)
少し遠くまで足を伸ばせばそれなりの洋菓子屋はこの辺にだってある。だがしかし、和谷がそれを手
伝ってくれるかと言えば大変心許なかった。
はあ? ホワイトデー? そんなのおれが知るかアホとほぼ百%間違い無く言われる自信がある。
(だったらいっそ、勝ちを譲って碁盤の上を白石で一杯にしてホワイトデーとか)
考えて一秒でそれを打ち消す。
(殺されるわ、おれ)
アキラは碁に命をかけている。それもヒカルとの一局はいつでもとても大切に思っているので、それ
をないがしろにすることはヒカルとって死を意味した。
(じゃあ…じゃあ、どうしたら)
一応考えながらも盤面での戦いは進んでおり、ヒカルも頭脳のほとんどをアキラとの戦いに向けてい
る。
打ち筋も乱れさせてはいないし、考え込んだ時もいかにも次の手を考えてました風に良い場所に置
いているので内面の葛藤は気付かれてはいないはずだった。
それなのに、うーんうーんとヒカルがホワイトデーの贈り物の捻出方法を考えていると、ふいにアキラ
が笑ったのだった。
くすっと微かな空気の揺れに弾かれたようにヒカルが顔を上げる。
「…なに?」
「いや」
アキラは飼い犬を叱ろうかどうしようか迷っている主人のような顔をしている。
「おれ、笑われる程ぬるい手を打ったかよ」
「そうじゃなくて、キミ、相変わらず全部出ちゃうんだなって」
ぎくりとしてヒカルはアキラを見つめた。少なくとも表情には絶対に出してはいないはずなのだが。
(だったら打ち筋。どこで乱れた?)
必死で盤を見つめるのに、またくすくすと静かに笑う。
「違うよ。本当にキミは仕方無い人だよね。別に打ち筋の乱れは無いよ。あんなに集中して頭の片
側で別のことを考えていたとは思えない程完璧に打ってる」
ヒカルは益々ぎくりとしてアキラの顔色を窺った。
「えーと、もしかしなくても怒って…」
「いいよ別に、怒ってはいない。でもここからはぼくとの戦いだけに集中して欲しいんだ」
「でもおれ」
まだ未練がましくヒカルが言うのにアキラは笑った。
「だからいいって言っているだろう。ホワイトデーのお返しは今日のこの一戦の棋譜で充分だ」
決して打ち筋は乱れていない。力を抜いて打っていたわけでも無い。ヒカルの努力は完璧だった。
けれど置いた石の音や、ほんの僅かなタイミングの違い、呼吸や空気の感触からアキラには面白
い程ヒカルの考えていることがわかってしまったのだ。
「碁打ちは石で会話するって言うじゃないか。今日は正にそうだった。ぼくはずっとここまでキミに愛
を囁かれているような気分だったよ」
自分への贈り物を忘れたことに気づき、それをどうやって用意するか考えて狼狽えているヒカルの
思考はアキラにとって非常にこそばゆく居たたまれないものであったと言われてヒカルは赤くなった。
「ごめ―」
「だからもういい。これ以上止めているとお互い持ち時間が無くなってしまうしね」
精々ここからはぼくを苦しめ、同時に楽しませるような碁を打ってくれと言われてヒカルは苦笑いを
した。
「それも…プレゼントの内?」
「もちろん」
検討も含め、一生大切にさせて貰うつもりだと言われて、ヒカルはうへえと思ったけれど、逆らえる立
場では無いので文句はひとことも言わなかった。
(敵わないな、こいつには)
嬉々として待ち受ける様子のアキラに、ヒカルはため息を一つつくと座り直した。
そして改めてホワイトデーの贈り物として容赦無い一手をアキラに送れるよう、厳しい瞳で盤の上を
探すと、場所を定めぱちりと石を置いたのだった。
※なんでせめて打ち掛けの時に思い出さなかったんだおれ(進藤ヒカル七段談)
誰の思考でも読めるわけでは無くヒカルの思考だったからアキラには読めてしまったのだと思いますよ。2013.3.14 しょうこ