雛語り
実家には母が嫁入り道具として持って来た立派な七段飾りの雛人形があって、我が家には男のぼくしか子どもが
いないのにも関わらず、母は毎年桃の節句にはいそいそと桐の箱から取り出しては奥の和室に飾っていた。
『このお雛様はね、お母さんのお母さんの、そのまたお母さんがお嫁入り道具として持って来たものなんですって』
それを祖母が譲り受け、父の元に嫁いで来る時に母が貰った。母は雛人形をとても大切にしていて、いつかぼく
が結婚して女の子が生まれたらその子に譲るのだと言っていた。
『そうしてずっと受け継がれて行ったら素敵よね』
けれど母はある年からぴたりと雛人形を飾らなくなった。
父に着いて海外を飛び回っている時でも3月には必ず一度は帰って来て飾っていたのにそれをしなくなったのは、
ぼくが進藤との関係を明かして生涯を共にすると宣言してからだった。
一生女性と結婚することは無く、だから女の孫が生まれることも永遠に無い。そう解ってからは母は雛人形を飾ら
なくなってしまったのだった。
罵られたわけでも無く、最終的には渋々とではあるもののぼく達の仲を認めてくれた母の、それは無言の抵抗にも
見えてぼくはそれを切なく思った。
いつもなら華やかに飾られる奥の和室が、がらんと虚ろな様を見るのも辛かったし、罪悪感にも苛まれた。けれど、
それでも気持ちに嘘をつけるわけも無く、ただひたすらに心の中で「ごめんなさい」と繰り返すのみだった。
それが―。
たまたま取りに行く物があって久しぶりに実家を訪れると、奥の和室に昔のように雛人形が飾ってあったのでぼくは
非道く驚いた。
「綺麗でしょう?」
呆然と佇んで眺めていると、母がやって来てそっとぼくの隣に立った。
「…どうしたんですか? これ」
「もう二度と飾らないつもりでいたのだけれどね」
苦笑しながら話すには、少し前に進藤がやって来たのだと言う。
「あちらのご実家で草餅と桜餅を沢山頂いたからってお裾分けに持って来て下さったのよ」
そう言えばいつだったか進藤が実家に帰った時があった。その帰りにきっと持たされたのだろう。
ぼくは甘い物があまり得意では無く、でも和菓子なら食べられる。進藤のお母さんはそれを知っていて、たまにそう
やって誰にとは言わず進藤に託すことがあったからだ。
「それで折角だからお茶をお出しして、少しお話をしていたのだけれど、急に進藤さんがね、おっしゃるのよ。『雛人
形、飾ってありますか』って」
『いいえ? 進藤さんのお家は飾ってらっしゃるの?』
『いや、うちはほらおれが男で、ハハオヤも三人姉妹の末っ子だったから結婚する時も雛人形は持たせて貰えなか
ったみたいで』
ずっと縁のない暮らしをしていたのだと言う。
『でもここ、すっごく綺麗な雛人形があるでしょう。おれ初めて見た時感動したな。五月人形なんてただの鎧甲で面白
味も何も無いけど、雛人形って牛が引いてる車とか、色々道具が凝ってるから』
実際、母の雛人形は昨今の値段ばかり高くて造作が今ひとつな人形と違い、人形自体も着ている着物も金糸銀糸
をあしらった立派な物で、人形の道具も漆や螺鈿をあしらった贅を尽くした物だった。
『春にここに来て眺めるのを楽しみにしてたんです。だから今日は久しぶりに見られるかなってそういう下心もあって
草餅持って来たんですけど、でも、そうかあ、今年は飾っていないんだ』
非道く残念そうに言われて母は困ってしまったらしい。
『ごめんなさいね。今年はお父さんが留守で居なくて、一人では飾るのはちょっと大変だったものだから』
今年どころかここ数年飾っていなかったのだけれど、さすがに母もぼくが女性と結婚する見込みが無くなったので飾
らなくなったとは進藤に言えなかったらしい。
『そうなんですか。先生確かに忙しそうだからなあ』
進藤は考え込み、やがてぱっと明るい表情になると母に言ったのだと言う。
『だったらおれが手伝いますから今から飾りませんか? 一年に一回のことなのに出して貰えないんじゃ人形も可哀
想だし、それにやっぱりおれ、この家の雛人形が見たいから』
そしてそれを断る上手い言い訳を見つけられなかった母は、結局進藤と二人で雛人形を飾ることになってしまったの
だそうだ。
「進藤さんて、あれで結構強引でしょう? 遠回しに断っても全然気がついてくれないし、服が汚れるからって言っても
安物だから大丈夫ですなんて言うのよ」
言いながら思い出したのだろう、母は苦笑していた。
そうで無くても段飾りは飾るのに時間がかかる。午後から始めた飾り付けは終わる頃にはすっかり夜になっていた。
けれどぼんぼりに明かりを灯しながら進藤は上機嫌だったと言う。
『ほら、お義母さん、やっぱりすごくこれ綺麗ですよ。特に女雛、昔から思ってたんだけど、ちょっとあいつに顔が似て
ると思いませんか?』
『そうかしら…そうねえ。言われてみれば似ているかも』
『似てますよ。おれ最初に見た時すぐにそう思いましたもん。あ、でもそれだと別の男と夫婦ってのが癪だなあ』
本気で嫌そうに口を尖らせるのを見て、母は思わず笑ってしまったと言った。
「もう…進藤さんには参ってしまったわ。あんなに手放しで惚気られてはね」
「惚気、ですか?」
「惚気よ。だって進藤さん、あなたに似ているからうちのお雛様が好きで、しかもそのお雛様を『すっごく綺麗』って褒
めているのよ?」
挙げ句の果てには男雛に焼き餅まで妬いてと、母は本当に可笑しそうに言った。
「進藤さん、本当にあなたのことが大好きなのねえ」
しみじみと言われて、ぼくは恥ずかしくなってしまった。
「あんなに好いて貰えるなら、男でも女でも関係なんか無いのかもしれない」
「…お母さん」
「私ね、本当にはあなた達のこと許していなかったのかもしれない。あなたに人並みな結婚をして欲しくて、あなたに
似た可愛い孫を抱かせて欲しいってそう思っていたのかもしれない。でも、進藤さんを見ていたら別にいいんじゃない
かって思えて来てしまって」
複雑な表情を浮かべる母に進藤は脳天気に言ったらしい。
『来年も再来年も、もし先生がお留守で飾るのが大変だったら呼んでくれればおれいつでも手伝いに来ますから』
だから毎年飾りましょうと微笑まれて母は完敗した。
『そう…ね、ありがとう。よろしくお願いします』
深々と頭を下げたその母の心中を進藤が察していたかどうかは知らない。でもその後、母と進藤は二人して進藤が
持って来た草餅と桜餅を食べながらのんびりと雛人形を眺めたのだと言う。
「アキラさん、ごめんなさいね。つまらないことでずっと意地を張ってしまって」
「…いえ」
親不孝なのはぼくの方なのに。
「これからはちゃんと毎年飾るから、進藤さんと二人で見に来て頂戴」
優しく微笑まれてぼくは目尻が熱くなった。何の含みもない母の笑みを見るのは本当にとても久しぶりだったから。
「あ、それとも飾る時から二人して来て貰った方がいいかしら」
進藤さんはどちらの方が嬉しいと思う? と尋ねられてぼくは声を詰まらせた。
「飾る…時から、その方がきっと喜ぶと思います」
何とか泣かずにそう言ったのに、「そう、解ったわ」と言った母の方が泣いてしまったので、ぼくも我慢出来なくなっ
て、母に向かってこうべを垂れながら涙を落としてしまったのだった。
※明子ママはどちらかと言えば行洋パパよりずっと二人の理解者であると思います。でもこういう気持ちもあるんじゃないかなって。
2014.3.5 しょうこ