Escape&birthday
「はい、すみません。次に取れた指定で乗って行きます。え? ああ、大丈夫です。駅からは タクシーで向かいますから」 電話を切るのと同時にアキラは無意識にふーっと息を吐き出した。 東京駅の新幹線ホーム改札。 一緒に行くはずだった人々をアキラは寝過ごしたと言ってすっぽかし、わざと先に行かせた のだ。 『えー? 大丈夫なの? ぼく待っていようか?』 『いいですよ、子どもじゃないんですから。芦原さんだって向こうで打ち合わせとか色々あるで しょう? ぼくは行けばいいだけですから』 それでも人の良い兄弟子はアキラを心配し続けるので、置いて行って貰うのに随分苦労して しまった。 「いい加減過保護だよな、おまえんとこ」 アキラが電話を終えるのを待っていたかのように、ヒカルがアキラの肩に背後からひょいと 顎を乗せる。 「そもそも対局に付き添いってどうなんだよ。ちょっと甘やかし過ぎなんじゃねーの?」 「芦原さんは今回記録係をするから一緒に行こうって話になっただけで、別にぼくの付き添い じゃないよ」 からかい口調のヒカルをアキラは鬱陶しそうに手で払いのけた。 「それだけじゃないだろ。見学とか取材とか、いつもぞろぞろ大人数連れて歩いてるじゃん。 まったくおぼっちゃまってヤツは大変だよな」 「そういうキミだって古瀬村さんに声をかけられていたじゃないか。密着取材だっけ? 期待 されていて何よりだよ」 「別に速攻断ったし。『塔矢との対局は特別だから集中したい』って言えば大抵みんな遠慮し てくれるんだ。ほんと便利だよ、おまえ」 軽口の応酬は段々と辛辣さを増し、もはや一触即発という空気になった。 暗雲立ちこめ掴み合いかというその刹那、唐突にヒカルがくくっと喉の奥で笑って表情を緩 めた。 「あー、止め止め。なんでこんな険悪になってんだよ。おれら別に喧嘩するために待ち合わ せたわけじゃないじゃん」 同時にアキラも我に返ったかのように肩の力を抜き、小さく口元で笑った。 「…キミが先に喧嘩を売って来たくせに」 「仕方ないだろ、ここ最近、おまえのこと世界中で一番憎ったらしいと思うようにしてるんだか ら」 「奇遇だね。ぼくもだ」 二人はこれから東北に向かい、そこで2日に渡る棋聖戦決勝を行うのである。 しかも勝負は三勝、三敗、七番勝負の七局目。雰囲気がピリピリするのも無理は無かった。 普段なら全てが終わるまで二ヶ月ほどは対局以外で顔を合わせることは無いのだが、今回 はどうにも仕方が無い。 何故なら12月14日、今日はアキラの誕生日だったから。 「何もこんな日に生まれなくてもいいのになあ」 クサったように言うヒカルにアキラは可笑しそうに笑った。 「別に誕生日を決勝に合わせたわけじゃない。たまたま決勝が誕生日と重なっただけだ」 「んなのわかってるって」 ヒカルは口を尖らせながら胸元から切符を取り出した。 「ほい、次の次のやつにしたから。そのくらいならあの過保護な芦原さんが気を揉まなくて済 むだろ」 「ありがとう。ああ、グリーン車にしてくれたんだ。キミにしては気が利いているね」 「別に、おまえ煙草の煙ダメだろ。それにその方がゆっくり出来るし」 精算しようと財布を出すアキラの手をヒカルはいかにもムッとしたように止めた。 「いいって、お誕生日様なんだから大人しく奢られとけよ。それにそもそもおれが言い出した ことなんだからさ―」 そう。対局前、新幹線を遅らせて二人だけで行こうと誘ったのはヒカルの方だった。 『誕生日だろ? それらしいことなんにも出来ないんだからせめて行きくらい一緒に行こうぜ』 最初アキラは拒んだが、ヒカルがあまりにしつこ…熱心に誘うので仕方無く折れたのだった。 「それで? 一緒に行くのはいいけれど、着くまで何をするんだ? 祝ってくれるということは 携帯用の碁盤で一局打って貰えるのかな」 改札に向かって歩き出しながらアキラがヒカルを振り仰ぐ。 「物好きだなあ、どうせ明日から嫌って程打つんじゃんか」 呆れたように言いながらヒカルは片方の手に提げていた小さなビニール袋を持ち上げて見 せた。 「誕生日ったらこれだろ。ケーキ。こんな時間だからコンビニのだけど、祝ってやるから二人 で食おうぜ。なんだったらハッピーバースデーも歌ってやるし」 「なんだ、つまらない。結構普通なんだな、キミ」 でも嬉しいよと言ってアキラはヒカルの空いた方の手にそっと右手を滑らせた。 「ケーキは何ケーキ?」 「知らねえ。でもそれっぽく苺の乗ってるヤツにした」 改札を徹る時だけは離して、けれど通り抜けた後は再び二人で手を繋ぐ。 慌ただしく行き交う人々の中、ヒカルとアキラはゆっくりと味わうように二人して歩いた。 「ああ、でもそうだな」 再び手を離したのはホームに着き、新幹線に乗り込む間際だった。 先に入ろうとしたヒカルが、いきなりアキラを振り返って言った。 「ケーキ食ってもまだ時間余るよな。新幹線の中じゃ、ちゅーもえっちいことも何も出来ないし だからもしかしたらカバンの中に携帯用の碁盤が入ってるかもしんないや」 そしてにいっと笑った。 「まあ、おまえが望むなら…だけど」 アキラは一瞬びっくりしたように目を見開いて、それから可笑しそうに顔中で笑った。 「キミ…訂正するよ。やっぱりちっとも普通じゃない」 望むよ、ありがとう、最高だと、嬉しそうに続けるアキラの言葉にヒカルもまた嬉しそうに笑 い返した。 碁バカが祝う、同じくらい碁バカの誕生日。 二人は限られた数時間を思い切り満喫するために、幸せそうに新幹線に乗り込んだのだっ た。 |