海に行こうよ




「海に行きてえ!」


朝からずっとヒカルは一つの言葉を繰り返していた。


「なあ海行こうぜ、海! 折角今日二人共休みで天気もいいってのに、どうして行っちゃいけないんだよ」


それをまた朝からずっと宥めていたアキラはうんざりしたようにため息をつくと言った。


「それはキミが明日本因坊戦の決勝を控えていて、ぼくがその挑戦者だからだ」

「だからってどうして今日泳ぎに行ったらダメなんだよ!」

「どこの世界にいかにも遊んで来ましたという風情で真っ黒に日焼けしたタイトルホルダーと挑戦者が居る。タイトル戦を舐めているのかと怒られるに決まっているだろう」


しかもそれはネットを含めた様々なメディアで漏れなく世界に配信されるのだ。


「いいじゃん、日サロに行って焼いたって言うから!」

「余計悪い! 大体ぼくはそんな所に行くつもりは無いし」

「ただの言い訳なんだからいいじゃん!」

「言い訳でもそんな軽薄な人間だと思われるのは不本意だ」

「あーっ、日サロに行く全ての男を敵に回したぞおまえ」

「別に痛くも痒くも無いね」


アキラは冷たく突き放すように言った。


「兎に角、見た目もダメだが万一怪我をしたり翌日発熱したりしたら洒落にもならない。海に行くのはダメだよ」

「出さねーよ、おまえじゃないから怪我するような鈍くさい真似はしないし、熱出すような虚弱体質でも無いし」

「キミは今、全世界のぼくを敵に回したよ?」


いや、元々敵だったか、とアキラは不穏な目つきで考え込む仕草をした。


「あー、ごめん。言い過ぎたなら謝るから、だから一緒に海に―」

「断る。そしてキミもいい加減に諦めろ」


そうで無いならぼくとの関係が今日で終わるものと思えと言われてさすがのヒカルもぐっと言いかけた言葉を飲み込んだ。

それでも気持ちは収まらない。


「……冷酷野郎」

「好きに言ってくれ、明日が過ぎたら海でもどこでも付き合うよ」

「どうせまた他の棋戦が入って来るじゃん。そもそも二人一緒の休みなんて今度いつ来るかわかんないのに」


ヒカルがここまでごねるのには訳がある。

強くなってしまったが故に棋戦が立て込み、滅多に二人揃って休日になるということが無くなってしまった。それが今日は奇跡的にも二人共休みになったのだ。

翌日に対局を控えているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、通常だと前日は移動日に充てられる。それが今回は都内のホテルが開催地なので純粋に丸一日の休暇となったのだった。


「こんなラッキー、もう無いかもしれないのに!」


以前、二人揃って休みになったのはもう半年も前だった。だからアキラとしてもヒカルの気持ちは解らないでも無い。


(でも、だからって海になんか)


行けば絶対泳ぎたくなる。泳げば塩と日差しで焦げるように日焼けするだろうし、泳がなかったとしても往復でくたくたに疲れるに違い無い。

責任ある大人としては海に行くのは不可である。

けれどヒカルは海に行きたい。それは休日が重なったというだけで無く今日が『海の日』で、数日前からテレビで海関係の特集ばかり見ていたせいもあった。

『近場で行く海水浴場トップ10』とか、『特集、海で食べたいカフェメシ、昨今のお洒落海の家事情』等々。こんなものを見続けていたらヒカルで無くても海に行きたい気分にさせられる。

梅雨も明けたし台風も来ていない。暢気に構えていればあっという間にお盆が来てクラゲが出るようになってしまうし、確かに行くなら今なのだ。


(それでもダメだ)


真っ黒に日焼けした自分とヒカルが碁盤を挟んで向かい合う姿を想像しただけで、アキラには容易に翌日の新聞の見出しが浮かんだ。


『前代未聞、本因坊と挑戦者前日仲良く海水浴へ』

『海で盤外戦? 余裕綽々本因坊』

『真剣味に欠ける、本因坊戦に非難囂々』


考えるだけで頭痛がしそうだった。


「もういっそさ、タイトル戦の決勝はハワイでやればいいんじゃねえ?」


まだ諦められないのかヒカルはぶつぶつと呟くように言った。


「ブラジルでやったことはあるみたいだけどね」

「マジ? だったらハワイでもいいじゃん」

「あれはブラジルへの移民百周年の記念行事の一環だったし、向こうには南米本部があったから」

「ハワイにもハワイ棋院ってのがあるだろ! 聞いたことあるぞ、おれ!」

「あるけど、あれは日本棋院の支部ってわけでは無いから無理だと思うよ」


淡々と事実を述べるアキラにヒカルの口がへの字に曲がった。


「もう何でもいいよ、とにかくおれは海に行きたいんだよっ!」


キレたように叫んで、とうとうリビングのソファに突っ伏してしまった。


「海に行って、おまえとキャッ、キャ、うふふと遊びてーんだよう」

「……ぼくは嫌だよ」


素っ気無く言いつつも、アキラの表情は優しい。

最近夏休みになったせいか、棋院に向かう電車の中にも遊びに行くとはっきり解る若者達が増えて来た。

そのいかにも楽しげな浮かれた姿を見せつけられて、交差するように手合いに向かうのは、自分で望んだこととは言え確かに切ない気持ちにもなる。

どこかに行きたい、夏らしいことがしたいと、アキラでさえつい思ってしまうのだ。


「進藤」

「なんだよ」

「まあ、いいから顔を上げて」


突っ伏したヒカルを置いてしばしその場を離れたアキラは、少しして戻って来ると穏やかな声で言った。


「キミと海には行けないけれどね、少しだけなら海の気分を味わわせてあげられるかもしれないよ?」

「何? 風呂? 青い入浴剤くらいじゃおれの心は慰められないからな」

「いや、それもちょっと考えたけれどね」


拗ねまくった声で恨めしそうに顔を上げるヒカルの前にアキラはすっとガラスの器を差し出した。


「なにこれ?」


それは淡い水色のゼリーだった。


「まあ、見ていて」


きょとんとして見つめるヒカルの目の前で、アキラは器の中に炭酸水を注ぎ入れた。

無数の泡が一斉に立ち上ってはパチパチと小さな音をたてて消えて行く。


「……ちょっと海みたいだろう?」


本当は単純にデザートとして作っておいた物だったのだが、拗ねまくるヒカルを見ていてふと思いついたのだった。


「見えねーよ」


ぶすっとヒカルが言う。


「そう?」

「うん。こんなの全然海なんかじゃねーって」


そう言いつつも、ヒカルはきちんと起き上がるとソファに座って器を受け取った。


「……でも、すごく涼しそうには見える」

「そうか」


ぶっきらぼうな物言いにアキラは優しく微笑むと、ヒカルにスプーンを渡した。


「取りあえず食べてみたら?」

「いいけど、こんなんでおれ騙されねーからな?」

「解ってる」


にこにことアキラは笑っている。その笑みに促されるようにヒカルはゼリーをすくい取ると口に運んだ。

ソーダ味のゼリーが炭酸と共に爽やかにヒカルの口の中に広がって、ヒカルは思わず眼を細めた。


「……美味い、かも」

「うん」

「言われてみれば少しだけ海っぽいかな?」

「だろう」


寄せられた眉がほどけ、仏頂面が消えて行く。


「これ、スイカを星形に型抜きして入れたらヒトデみたいになるかもな」

「そうだね、今度作った時にはそうしてみよう」


幾匙も幾匙も口に運び、それから唐突にヒカルはゼリーを掬ったスプーンを傍らで覗き込んでいるアキラの口元に運んだ。


「来年は絶対に海に行くから、おれ」

「うん。行けばいい」

「おまえも一緒に行くんだよ」

「もちろん」


海でも山でもキミの行きたいと思う所にぼくも一緒に行くからとアキラが言うと、ヒカルの顔は、今度ははっきりと笑顔になった。


「約束な?」

「うん」

「ビーチで、スイカで、かき氷で、焼きそばで」

「好きにすればいい」

「焼きイカで、焼きトウモロコシで、ビールで、たこ焼きで」

「お腹壊すよ」


微笑んでアキラはゼリーを飲み込んだ。

つるりと喉を通る冷たさを楽しむ前にヒカルの顔が迫って来て、あっという間に唇を奪われる。


「海味」


顔を離したヒカルは、にっこりと笑うとぺろりと舌で唇を舐めた。

言っていることは駄々っ子のようなのに、その仕草には妙に男臭い色気があってアキラは赤面した。


「ソーダ味だ」


素っ気無く言いつつもアキラの顔は赤いままだ。


(本当に来年は海に行こう)


こんな紛い物のちっぽけな『海』では無く、本物の青く広がる海にヒカルと二人で行きたいとアキラもそう思ったのだ。


「スケジュールの調整をしなくちゃね」

「乗り気じゃん」

「本気で行くつもりなら今から計画しないと間に合わないよ。何しろ来年にかかる棋戦ももう始まっているんだから」

「そうだな」


少し考えるような顔になった後、ヒカルはにっこりと笑ってアキラに言った。


「水着も買って、太らないように筋トレも増やす」

「その前に勝てよ?」


少しくらい我が儘な日程を提示しても許して貰えるくらい完璧な成績も残さないとねと言うアキラの言葉に大きく頷く。


「ん。だからまずは明日おまえ負かせてタイトル防衛する」

「は? ぼくも成績を残さなくちゃいけないんだよ。悪いけどキミには負けてもらう」


一瞬だけ不穏な空気になりかけたけれど、すぐに二人して顔を見合わせて笑った。


「楽しみだな、来年」

「うん。海水浴なんてもうずっと行っていなかったしね」

「いや、おれが楽しみなのはおまえのセクシーな水着姿」


馬鹿と苦笑しながら、アキラはヒカルに向かって口を開いた。


「何?」

「もう一口」


そして挑発するように目を細めてヒカルを見るので、ヒカルは迷わずスプーンと器を置くと、ソーダ味の海では無く存分にアキラを楽しむことにしたのだった。



※六日遅れの海の日SSです。実際はブラジルでのタイトル戦があった時には二人もプロ棋士になっていて知っているはずですが、この話の中では
もうちょっと過去にあったこととして書いています。あの時の『週間碁』の一面は凄かったなあ…。
なんだかんだ言ってアキラはヒカルにものすごく甘いので、1年待たずにプールくらいには行くかも。大きな浮き輪持って行けばいいよと思います。
2015.7.26 しょうこ