キミはぼくの大切な人
※この話は「奥様はプロキシ」シリーズの番外編です。
「綺麗な杖をお持ちなのね」 病院の待合室で声をかけて来たのは、白髪の穏やかな顔をした老女だった。 「ありがとうございます。そうですね、杖にはあまり無いデザインかもしれないですね」 ぼくは微笑みながら杖を取り上げ、目の高さまで持ち上げた。 折りたたみ式の白い杖には繊細な葡萄の蔓と青い羽根をした美しい鳥が描かれて いる。 それは進藤がプレゼントしてくれたものだった。 「どこでお買いになられたの?」 老女自身はまだ足腰はしっかりしているものの、身近に足の不自由な友人が居る のだという。 「もうこんな年なんだからどんな杖だっていいでしょうって言うのに、やれこれは柄が 悪い、やれこれは色が年寄り臭いだの文句ばっかり言って……本当はね、たぶん杖 を使うこと自体が嫌なのよねえ」 聞いていて耳が痛い。 老女の友人の言ったことはそのままぼくが進藤に言ったのとほぼ同じだったからだ。 思いがけぬ災難から手術と長期の入院をするはめになったぼくは、退院しても完全 に元の体には戻らなかった。 片目の視力の低下と絶え間ない頭痛、それに目眩が伴って最初は立つことすらも ままならなかった。 足も複雑に骨折したせいで少し引きずるようになり、歩くのに非道く難儀するようにな ったのだ。 『だからさあ、意地張らないで杖を使えばいいじゃん』 ぼくが数メートル歩くごとに座り込んでしまうのを見て進藤は言った。 『怪我したせいなんだから仕方無いだろう。どうせ年取れば嫌でも使うようになるんだ し』 進藤が言うことは尤もだけれど、だからと言って素直に聞くのは口惜しい。 『売っている杖はどれも趣味の悪いデザインばかりで嫌いなんだ』 どれもこれも年寄り臭い渋すぎるデザインか、そうで無ければ持つのが躊躇われる ようなけばけばしい色柄ばかりで使う気になれないと言うと進藤は目を見開いてみ せた。 『じゃあ気に入るような杖だったら使うんだ?』 『まあ…そんなものがあればだけれどね』 『わかった! 探して来るから待ってろ!』 そして宣言してから三ヶ月後、進藤はぼくの目の前に美しい青い杖を差し出したの だった。 『ほら、これならどうだよ』 進藤がぼくに手渡したのは携帯することを考えた折りたたみの杖で、綺麗な青地に 白い鹿が二頭描かれていた。 普通こういうものはつがいになるのだろうが、杖に描かれているのはどちらとも若 い雄鹿で張り出した角が美しい。 色味も少しグラデーションのようになっていて下に行くに従って青は濃くなり、逆に 握り手に近い部分には邪魔にならない程度に野の花が散らされていた。 (綺麗だ) 本当は貶したい所だったが、ひと目でぼくはその杖を好きになってしまった。 『どうだよ 気に入った? それとも気に入らない?』 間近に顔を寄せて尋ねて来る進藤は自信満々なようでいて、瞳の奥には不安そう な色がある。 『悔しいけど……完敗だ』 気に入ったよと呟くと進藤の顔は、ぱあっと嬉しそうな笑顔になった。 『良かった! おまえ絶対気に入ると思ったんだけど、でももしかしたらってのもあ ってさ』 すっごいドキドキしたと胸を押さえて見せる。 『でもこれどうしたんだ? こんな杖、銀座の専門店でも見たことが無い』 もしかしたら海外ブランドだろうかと手の中で杖をひっくり返して見ていると、進藤が おかしそうに笑った。 『違う、違う、どこのでも無いよ。オリジナル』 『え?』 『その杖、おれオリジナルなんだってば』 話を聞くと進藤はあれからネットでオーダーメイドの杖の店と、その杖にぴったりな絵 を描くイラストレーターを探しまくったらしい。 気難しいぼくが気に入るように、派手すぎず地味過ぎず、けれど従来の杖には無い お洒落さと美しさを求めた。 ようやくこれならという人を見つけ、打診をし、直接会って打ち合わせをして絵を描い て貰ったのだという。 『おまえのイメージと、オレがこういうのを描いて欲しいっていう希望を話して、それで 原画を描いて貰ったんだ』 もちろん一度で済むはずも無く、杖職人と三人で何度も打ち合わせを重ねたらし かった。 『って、ちょっと待て。個人でイラストを頼むなんて結構な金額がかかるんじゃない か?』 それに、そもそもオーダーメイドの杖自体がとんでも無く高そうだ。 『んー? そんなでも無いよ。まあ、確かにそこらで売ってるヤツよりはずっと値が張 るけど、それでも車やバイク買うよりはよっぽど安いし』 『車…』 それだけでもうぼくは正式な値段を聞く気力が失せてしまった。 『なんだよ、文句あんのかよ』 『いや、無いけど、でも…高々杖にそんな勿体無い』 『勿体無くなんか無いね。おれの代わりにおまえを支える物なんだからどんなに高く ても高すぎるってことは無いよ』 オーダーメイドだけあって杖は実にぼくの掌にしっくりと馴染んだ。 体重をかけてもびくともせず、なのに重さは見た目からは考えられない程軽い。まる で羽根のようだった。 『どうだよ。最新技術と最高の素材をぶち込んで作った杖は』 『いいね……うん。これなら幾らでも歩けそうだ』 かつん、こつんと地面に当たる感触も心地良い。 美しい杖の青色と若々しい鹿は歩く道々ぼくの目を楽しませてくれそうだった。 『本当は万が一のために仕込み杖にした方がいいかなとか、先端が武器になるよう にした方がいいかなとか色々考えたんだけどさ』 どれも重くなるので止めたのだと大まじめに言われてぼくは思わず吹き出してしまっ た。 『キミ、本気でそんなことを考えたのか?』 『考えたさ、防犯ブザーやGPS装備にしようかなとも思ったし』 『止めてくれ、腹の皮がよじれる』 幸いにもそれは、杖職人とイラストレーター双方からの猛烈な反対に遭い実現しなか ったらしい。 『つけられるもんならおれはスタンガンくらい仕込みたかったんだけど』 『勘弁してくれ、笑い死ぬ』 涙が出る程笑いながら、ぼくは同時に胸が締め付けられるような切なさも覚えてい た。 進藤がそんなことを考えたのは、ぼくの怪我が暴行を受けた故のものだったから だ。 『笑いごとじゃないって、いざって時に自分を守る手段くらいは持って無いと』 『自力で逃げるよ』 美しい杖を改めて握り直してぼくは言った。 『逃げるって、おまえそんな素早く動けないじゃん』 『うん。動けないけれどね、キミが折角作ってくれたんだからこの杖をフルに使わせて 貰って歩く練習をするよ。少しでも早く、少しでも長く、キミがぼくの心配をしないでも 済むように』 『……塔矢』 『ありがとう。大切に使わせて貰うから』 そしてぼくは引きこもりがちだった生活を改め、杖を持って進んで外に出ることに務 めた。 近所を歩くことから始めて、棋院や指導碁にも杖をついて歩いて行くようにした。 ポンコツの体はまだまだ言うことを聞かず、転倒したり、疲れ過ぎて寝込むようなこと も何度かあった。 それでも一年、二年、気がつけば杖は三本目になり、今では日常の歩行はほぼ普 通の速度で出来るようになっている。 「―そういうわけで市販品では無いので簡単には手に入らないかもしれません」 「まあ、そうなの。道理で凝った作りだと思った」 老女はぼくの言葉に頷くと美術品に触れるように杖に触り、惚れ惚れとした眼差しで 言った。 「奥様が贈って下さったのかしら」 「は?」 「あなたにこの素敵な杖を贈って下さったのは奥様なんでしょう?」 邪気の無い柔らかな瞳に問いかけられて、ぼくは一瞬言葉に詰まり、でもすぐに頷 いた。 「そうですね。ぼくの……伴侶が贈ってくれました」 二本目は鳥だった。朝焼けの空に飛び立つ何羽もの瑠璃色の小さな鳥。そしてつい 最近貰った三本目は真っ白な杖に淡く、風に散る桜が描いてあった。 どれも進藤が細かな打ち合わせをしてぼくのために作ってくれたものである。 『一本だけ使うより、何本かあるのを交代で使った方が長持ちするし』 一つを使うよりも飽きないだろうと贅沢だとぼくが拒むのを進藤はやんわりといなし たのだった。 『眼鏡と同じだって。こんなのその日の気分で変えたっていいんだからさ』 実際彼の言う通りで、交代で使っているので傷みは少ない。 それに出掛けるのが面倒だと思う時でも杖で気分が引き立つのは本当だった。 「お優しい方なのね」 ぽつりと言われて我に返る。 「はい。とても優しいです」 言いながらひと言ひと言を噛みしめる。 進藤は―とてもぼくに優しい。 やがて名前を呼ばれて診察室に入る。会釈をして別れる前にぼくは杖を作ってくれ ている店の名前をメモして渡した。 「ありがとう。私なんかでは手が出ないかもしれないけれど、帰ったら問い合わせをし てみるわ」 「お大事に」 「ええ、あなたもお大事に。奥様によろしく」 月に一度の検診は恙なく終わり、ぼくは冬にしては穏やかな日差しの中をゆっくりと 杖と共に歩いた。 こつん、こつんと地面を叩く感触は軽快で、馬の蹄の音のようだとぼんやりと思っ た。 「何か買って帰ろうかな……」 家で待っているであろう弟と義母とそして―。 進藤のことを考えたら胸の辺りが温かくなった。 『今日はどうだった?』 『少しは良くなったって言ってた?』 『途中で転んだりしなかったか?』 心配そうに尋ねてくる顔が目に浮かぶ。 (うん、そうだ) 進藤の好きなものをたくさんお土産に買って帰ってあげようと、ぼくは一人頷きな がら杖をつく手を少しだけ急がせたのだった。 |