鬼とプリン
帰宅したら家の中が甘い匂いで満たされていた。
ミルクというか、バニラというか、とにかく洋菓子特有の匂いがむせかえるくらいに漂っている。
(なんだ?)
不審に思いながら足を踏み入れると、進藤がキッチンに立っているのが見えた。
こちらに背を向けて何やら作っているらしい。気配に気がついてちらりとこちらに視線を寄越したけれど
すぐに向き直って何も言わない。ぼくも反射的にむっとして、そっぽを向くようにしてその場を通り過ぎた。
昨夜、ぼく達はいつもの如くつまらないことで喧嘩をした。
きっかけは恵方巻きの中身は何が好きかというような他愛の無いことだったはずなのに、最後には互い
の好む棋風について激論を戦わせていた。
『中国風が悪いというわけでは無いけれど、なんでもかんでもすぐ真似をするのは自分というものが無い
のと同じだ』
『はあ? 真似じゃねーよ。流行っているヤツを試してみたって悪いことは無いだろ。大体、真似とかなん
だの言って何も取り入れない方が碁が古びて来てダメなんじゃねーの?』
『つまりぼくの碁は古くさくてダメだと?』
『おまえがそう思うなら、きっとそうなんだろう』
思い返すだけで腹が立つ。
そのまま別々の部屋で眠って、朝も声をかけることなく別々に出掛けた。夕飯はどうしたのか知らないが、
確認する気持ちにもならなかったのでぼくは一人で外で済ませて来た。
今日は節分で、そういうイベントが好きな進藤は毎年欠かさず豆撒きをやりたがったが、今年はさすがに
そんな気分にはならなかったらしい。玄関に柊も鰯の頭も何も無かった。
もちろん喧嘩の元となった恵方巻きを作るわけも無く、だったら夕食の支度でもしているのかと思うところ
だが、この匂いはどう考えても食事では無い。
何を作っているのだろうかと考えかけてかぶりを振った。
(関係無い)
進藤が何を作っていようと知ったことでは無いと、腹立たしさのままぼくは自室に閉じこもった。
一緒に暮らすようになった時、手合いで当たる時を見越して互いの部屋を確保するようにしたことを今更
ながら有り難いと思う。
もし全てが共用のスペースだったらとても我慢出来ず、今日は帰宅しなかったかもしれない。
ドアを閉めてしまうと甘い匂いも和らいで、ぼくはほっとしながら服を着替えた。
風呂に入るのは彼が寝てからにしようと、先に溜まっていたメールの返事などを片付けていると、思いがけ
ずふいにドアが叩かれた。
「塔矢」
「…なんだ?」
まだ怒りの熱も冷めないような喧嘩の後にこんなに早く彼の方から接触して来るのは珍しい。
「おまえメシ食った?」
「ああ」
「腹一杯? まだちょっとは余裕ある?」
「…何故?」
意図がわからなくて問い返すとドアの向こうから進藤が言った。
「出てこいよ。プリン作ったから一緒に食おうぜ」
なるほど、あの甘ったるい匂いはプリンを作っていたのかとやっと納得がいった。
「いらない」
そんなものでぼくを懐柔出来るとでも思っているのかと思い切り冷たさを込めて返したのに、進藤は立ち
去る気配も無く再びドアの向こうから言った。
「おまえ食いたいって言ってたじゃん? おれに腹立ててもいいけど、結構美味く出来たからちょっとだけ
でも食ってみろよ」
「ぼくが? いつ?」
「去年の11月30日。名人戦の後、インタビュー受けた後で言ってたじゃんか」
またそんないい加減なことをと怒鳴りつけようとして、でも記憶にかするものがあるのを覚えた。
(そういえば)
11月、名人戦の決勝で緒方さん相手に苦戦したぼくは、ようやくタイトルをもぎ取った後、疲れ切った体
を彼に預けながら譫言のように言ったのだ。
『甘いものが食べたい』
『甘いものってどんなん?』
『なんでもいいけど…プリンかな。ちゃんと卵と牛乳で作ったちょっと甘めの物が今すごく食べたい』
実際はプリンでは無くてもなんでも良かったのかもしれない。全力を出し切った後の疲労と、それを受け
止めてくれる腕が嬉しくて、らしくなく甘えてしまったのだ。
夜中だったし、ホテルだったし、呟きはそのまま流されてしまったのだけれど進藤は覚えていたらしい。
「ご注文が『子供の頃にお母さんが作ってくれたみたいな』ってのがあったからすぐには作れなかったけど」
レシピ貰って練習したから結構イイ線行っていると思うぜと言われてぼくは頬が染まるのを感じた。
「…そんなことまで言ったのか、ぼくは」
どこまで甘えていたのだろう。
「言った、言った。おれちゃんと覚えてるもん」
おまえの言った言葉はどんなことでもみんな全部覚えているからと言われてぼくは意志に反して自分の
中の怒りのベクトルが下がって行くのを覚えた。
「そ、そんなことでぼくが―」
「うん、もちろんこれで許して貰おうなんて思って無い。でも昨日はおれが悪かったよ。あんなつまんない
ことでムキになってごめん」
やられた。牽制をかける間も無くとどめを刺されてしまった。
「なあ、だからプリン食わねえ?」
ぼくは観念してドアを開けた。
立っていた進藤はぼくを見るなり嬉しそうに笑った。
「カラメルは少し苦めにしておいたんだ。その方がおまえ好きだと思って」
「ああ…うん」
言ったことだけでは無く食べ物の好みも熟知しているのかと少しだけ悔しく思う。
「で、結局どーする? 食べる? 食べない?」
「…食べる」
ドアの外はまだ甘い匂いで満ちていて、でもそれよりも彼のぼくを見る目の方がもっとずっと甘いと思っ
た。
「むせかえりそうだ」
「ああ、まあその内薄くなんだろ」
「いや、それじゃ困る」
精々キミは一生ぼくをとろける程の甘さで包み込み、窒息させてしまえばいいのだと、彼の温かい胸に
もたれかかりながら、ぼくはそれは言葉には出さず胸の中だけで呟いたのだった。
※碁とアキラのみに発揮されるヒカルの超人的記憶能力。鬼には豆で無く甘いプリンで対応するヒカルです。
2015.2.3 しょうこ