SPY




「それじゃこれ、みんなで食べて」


ヒカルが差し出したケーキの箱を市河は大仰に押し頂くと、にっこりと笑って言った。


「いつもありがとう、進藤くんのお陰で毎年七月七日は大盛況よ」

「おやつが豪華になるって?」

「うーん、それもあるけど、タイトルホルダーが来るっていうのは碁会所にとってちょっとしたニュースだから」

「本当は指導碁もやりたい所だけど」

「いいわよ。忙しいのに顔出してくれるだけで充分」


今度はアキラくんと二人で来てねと言いながら、市河はカウンターの上を滑らせるようにして細長い紙切れをヒカルの前に差し出した。


「ありがと!」


ぱあっとヒカルが笑顔になる。

それは七夕の短冊だった。

毎年この時期になるとアキラの父が経営する囲碁サロンでは大きな笹飾りを飾るのだ。

来る客が願い事を書いて吊すのが目的だったけれど、その中には息子であるアキラの短冊も混ざっている。

ヒカルはそれを市河に頼んでこっそりと貰い受けていたのだった。


「もう何枚になった?」

「うーん、何枚だろ。見つかるとマズイからちゃんと数えた事無いんだよなあ」


ぽりぽりと顎を掻きながらヒカルが答える。

実はこの秘密のやり取りはヒカルがまだ10代の頃から繰り返されて来た事だったのだ。


「最初はスナック菓子だったわよね」


悪戯っぽく市河が笑うのにヒカルが苦笑する。


「あれでもおれの小遣いから出すのは結構大変だったんだって」


それが段々とレベルアップして行き、今では行列が出来るような店の人気パティシェの作る洋菓子になっている。


「進藤くんも出世したわよねえ」


しみじみと言われてヒカルの苦笑が深くなる。


「ケーキで言われても」

「違うわよ。この間の本因坊で二冠でしょう? あっという間だったわよね」

「そりゃあ、あいつが側に居るんだから」


意地でも強くなるってと、でもそう言った時の微笑みは純粋に幸せそうだった。


「碁会所の若先生は強いヤツが好きだからさぁ」

「言うわね」


まだほんの子供の頃からを知っているだけに市河の方は感慨深い。


「ま、とにかく、来年もよろしくってことで!」


そして立ち去ろうとするのを市河が引き留める。


「折角来たんだから進藤くんも書いていってよ。指導碁が出来なくても短冊でも充分貢献出来るんだから安いもんでしょ?」

「はいはい。まったく市河さんは商魂たくましいよなあ」


改めて差し出されたまっさらな短冊にヒカルは少し考えてから大きく『躍進』と書いた。

そしてその脇に名も入れる。


「ありがと! お菓子とこれでお客様3倍増よ」

「くれぐれもオークションで売ったりしないでよ」

「しません。信用して」


そしてヒカルは取り引きで手に入れたアキラの短冊を大切そうに持って帰って行った。


(本当に、もう何年になるのかしらねえ)


まだ子供っぽさの残る顔でヒカルが市河に『交渉』した時には、断ろうかどうしようか迷ったものだけれど、受け入れて良かったと今では思っている。

差し入れのお菓子や短冊のせいでは無く、ヒカルが本当にアキラが好きで、好きな相手の願い事を知りたいだけなのだと解ったからだ。


(まあ、叶えてくれているかどうかは知らないけど)


出来る範囲ではたぶん叶えているのだろう。何しろ今は二人は一緒に暮らしているのだからと考えを巡らせていると、碁会所の入り口のドアが開いた。


「こんにちは」


入って来たのはアキラだった。


「いらっしゃい。待ってたのよ」


市河は笑顔でアキラを迎えると、ついさっきヒカルに書いて貰った短冊をアキラに向かって差し出した。


「危なかったわね。今日はニアミスよ」

「そうなんですか? 午前中に行くようなことを言っていたから大丈夫だと思ったのに、何か予定が狂ったのかな」


アキラはヒカルの短冊を大切そうに受け取ると、代わりに下げて来た紙袋を市河に渡した。


「変わり映えしなくて申し訳無いけど、いつもの塩瀬の和菓子です」

「ありがとう。でも気を遣わないでいいのよ、私が好きでやってるんだから」

「それでも…市河さんには手間をかけてしまっているから」


本当は指導碁が出来ればいいんですけれどと、先程のヒカルと同じようなことを言うのを市河がしかつめらしい顔で制する。


「無理しなくていいの。アキラくん今タイトル戦を控えて忙しいでしょ。そっちに集中して頂戴」

「相手は進藤なんですが」


ふわりと笑うアキラの笑みは素直にとても幸せそうだった。


「進藤くんだからこそでしょう。いつか時間が出来たら二人で改めて来て頂戴ね」

「ありがとうございます。来年もまたお願いします」


そしてアキラは深々と市河に頭を下げるとヒカルの短冊持って帰って行った。




少しして常連の北島が入って来た。


「あら、北島さん早いわね」

「そこで若先生と会ったよ。今年もアレかい?」

「ええ、ものすごーく嬉しそうに持って帰ったわよ」


実は常連客の中で北島だけが七夕の秘密の取り引きを知っていた。

もちろん市河が教えたわけでは無い。長年毎年見続けるうちに自分でそれと気がついたのだ。


「ってことは進藤もその前に来たのかな」

「ええ、今年はイナムラショウゾウのケーキ。忙しいのにわざわざ谷中まで行ったのかしらね」

「いいんだよ。そのくらいしないと勘定が合わない。まったく若先生の短冊欲しがるなんざ―」

「北島さん、しっ」


声が大きくなりがちな北島を市河が制する。


「にしても、若先生はまだ気づいて無いんだろう」

「ええ、ついでに言うなら進藤くんもまだ全然気がついていないわよ」


お互いがお互いの書いた短冊を欲しがり市河と秘密裏の取り引きをしていることを二人は知らない。

知らずに自分だけが宝物を手に入れていると思っているのだ。


「若先生の綺麗な字の短冊ならおれも欲しいが、進藤の汚い字の短冊なんて集めてどうするんだか」


若先生のためならおれが何枚だって書いて差し上げるんだがと半ば本気で北島が言うのを市河が諫める。


「ダメなのよ、北島さんのじゃ。わかってるでしょう?」

「ちっ、本当に若先生も見る目が無い」


来年もヒカルはまた洋菓子の箱を手にやって来るだろう。そしてまたアキラも時間をずらして和菓子の箱を下げてやって来る。

そして二人の手元にはたくさんの相手の『願い事』が溜まって行くのだ。


「そういえば若先生の短冊にはいつもなんて書いてあるんだい?」

「さあ…プライベートだから見ないようにしているんだけど、たぶんいつも同じことだと思うわよ」

「進藤か!」


けっと吐き捨てるような北島の言葉に市河は笑った。


「進藤くんの願い事も最初の頃はアキラくんのことばかりだったものね」


今は人目を考えて当たり障りの無いことばかり書くようになったけれど、それでも大きく書いた『躍進』の字の側に小さく自分の名前の他に、『塔矢と』と書いたのを市河はちゃんと見ている。

受け取ったアキラも間違い無くそれを見るだろう。そして幸せな笑みを浮かべるのに違い無い。


「なあ、前々から思っていたんだが、おれらはいいツラの皮ってヤツなんじゃねーのかい?」


室内で揺れる七夕飾りを眺めながら北島がため息混じりに呟く。


「いいんじゃないの? それで。少なくとも私はアキラくんが幸せなら何も文句はありませんし」


そのお陰で思わぬ豪勢なおやつも頂ける。


「今更だけど、北島さん。アキラくんにも進藤くんにも短冊のこと話しちゃダメよ?」

「言わねえよ」


それこそ馬に蹴られて死んじまうと苦り切った顔で言うので、市河は再び明るい笑い声をあげたのだった。




※北島さん&市河さんコンビ。ヒカルの最初の頃のお願いは『塔矢より強くなる』←言い切り。『塔矢がおれのことムシしませんように』などだったと思われます。
2015.7.7 しょうこ