Private Kiss



「ただいま」と出迎えてくれた進藤に言った時、彼がちらりとぼくの手元を見たのが解った。

「何?」

「いや、なんでも。それよか早く入れよ。遅かったな。疲れただろ」

「うん、先方の都合で予定が二時間ズレたから」

指導碁先に向かったら、会議が長引いているとかで相手がまだ帰宅していなかったのだ。

大企業の重役には間々あることなのでさほどは驚かず、中止にするか出直すかを尋ねたら、後の予定が無いならば
待って欲しいと奥方に頭を下げられてしまったのだった。


「あー、あるな。それでもおれ帰っちゃうことあるけど」

「ぼくだってそうだけど、あまりに熱心に頼まれたから」

気の毒になってつい待ってしまったのだ。

結局主が帰って来たのは二時間後で、ぜひ夕食もと誘われたのを断らなかったら更に一時間は帰宅が遅くなったか
もしれない。


「ここの所ずっと帰りが遅かったから今日は早く帰りたかったのに結局遅くなってしまった」

「で、メシは食う? どうする?」

従者宜しくリビングのソファまで着いて来た進藤はぼくの上着を脱がせてくれながら尋ねた。

「作ってくれたのか? 何?」

「ラザニアとエビとアボカドのサラダ」

「へえ、ご馳走だな」

その瞬間、進藤の顔にちらりと微妙な表情が浮かんだ。一瞬で消えたけれど明らかにあーあ残念という感じだったので
何だろうかと不思議に思った。


「ぼくは何か忘れているか?」

「いや全然。とにかく食うんだな? だったら用意するから着替えろよ」

「…うん」

釈然としないながらも促されるままに寝室に行って着替えて、戻って来るとリビングのテーブルには夕食の支度が調っ
ていた。


「キミもまだだったんだ」

「ん。一緒に食おうと思ってさ」

だったら待たせて悪かったとすぐに席に着き有り難く頂く。

一緒に暮らすようになった時、特別に食事当番を決めたりはしなかったが、なんとなく早く帰った方が作るようにはなっ
ていた。


それにしても今は彼の方もかなり忙しいはずなのに、こんな手のかかるものを作ってくれたなんてと素直にそのことに
感謝した。


出来合いの物より手作りの食事の方がやはりずっと美味しいし、何より進藤はぼくよりずっと料理が上手なのだ。

「食後はデザートもあるからな。なんだっけ、ほらあの白い苺。あれ使った季節限定スイーツとか言うの買って来たんだ」

「へえ」

「コーヒーもインスタントじゃないの、ちゃんといれるから楽しみにしとけよ」

「うん」

今日は本当に至れり尽くせりだなあと思いながら夕食を平らげ、そのままデザートに移行した。

彼が冷蔵庫から取り出した箱には実に美麗なショートケーキが入っていて、希少だという白い苺が惜しげも無く使われ
ていた。


「甘いね。普通の赤い苺よりも甘いかもしれない」

「でもそんなベタベタした甘さじゃないだろ。これお前絶対好きだと思ってさ」

わざわざリサーチして買って来てくれたのかとそのことにも感動する。一体今日の進藤はどうしてしまったのだと、もちろん
普段から色々なことにマメでぼくに良くしてくれるけれど今日はあまりにも盛りだくさんだと考えていた時にふと壁にかけた
カレンダーに目が行った。


(あっ)

今日という日が何日で、それが何の日か思い出した時に思わず言葉が出た。

「ごめん、忘れていた」

ホワイトデーではないか。なるほど、だから進藤はぼくが手ぶらで、その日自体を忘れているのに気がついてがっかりと
していたのだ。


(まったく、言えばいいのに)

日頃つまらないことで言い争いをしても基本進藤はぼくにはとても寛大なのだ。

「いいって、おまえここん所超忙しかったし今日だって帰り遅くなったんだから覚えてなくても無理無いよ。気にして無いか
ら気にすんな」


進藤はちらりと目線を上げると苦笑したように笑って、何事も無かったかのようにケーキを食べ続けた。

「そんなこと言われても気にするよ」

忙しいのは彼も同じだ。今日だってきっと時間を無理矢理都合つけて早めに帰って夕食の支度をしてくれたんだろう。そ
のことにすら考えつかなかった自分に腹が立つ。


ぼく達はバレンタインにもお互いにチョコを贈り合うが、ホワイトデーにもお互いにお返しを用意する。

イベント事に敏感だというわけでは無いが、普段すれ違いも多いのでそういうことぐらいは大事にしたいと思っていたのだ。

なのに綺麗さっぱり忘れてしまった。

「…不覚だ、この間まではちゃんと覚えていたのに」

「だからいいって、来年覚えていてくれたらそれでいいよ」

でもそれではぼくの気が収まらない。今からでも何か出来ないかと考えて思いついて言った。

「口でしてあげようか」

その瞬間、コーヒーを飲んでいた進藤が派手に吹いた。

「は? 何言ってんのおまえ」

げほげほとむせながら顎に滴ったコーヒーを拭う。

「何って別にそこまで驚くようなことじゃないだろう。普段していないわけじゃないし、キミはいつでも喜ぶじゃないか」

「いや、でもおまえが自分からっての今まで無かったじゃん」

行為の流れですることはあっても確かに自分からしようかと言ったことは無い。

「キミがしてくれる時ぼくはとても気持ちが良くて幸せだ。だからキミにもと思ったんだけれど」

「待って待って待って、ちょっと待って」

進藤が真っ赤になりながらぼくを手で制した。

「なんだよ、いきなりおかしいよおまえ。そんなこと言われたらおれ…ちょ…」

「もしかしてキミ、照れているのか」

「ったりまえだろ、真顔でそんなこと言われたら平気でなんていられないし」

「している時は結構大胆なことを言うくせに可愛いんだな」

「だから、そういうこと言うなっての!」

すっかり狼狽えて逆上している進藤にぼくは重ねて尋ねた。

「で、どうする? 口でしようか? それとも別のことの方がいいのかな」

あまり体に負担がかからないような要求ならいいのだけれどと思いながら言うと進藤は黙った。

「え…うんと、その……」

随分と間が開いた後で、蚊の鳴くような声で言う。

「して」

して下さいと言いながらも彼の顔は更に真っ赤に染まって行く。

「おまえすげえよ。もうまいった。まったく」

「何が?」

「何って、全部」

こんなケーキくらいじゃ全然敵わないと言いながら、進藤はまだ小さく残っているのを皿ごと乱暴に手で押しのけると、
テーブルの反対側に居るぼくに手を伸ばした。


「おまえの気が変わらないうちに…お願いしマス」

「変わらないよ、馬鹿だなあ」

ぼくは微笑みながら彼の手を握ると、そのまま幸せなホワイトデーを過ごすために寝室へと二人で場所を移動したの
だった。



※アキラは結構こういうことには照れないタイプ。ヒカルの方がひたすら照れます。アキラは結構一般的な常識とかそういうのを
気にしないと思います。非常識なのでは無く、自分の中の基準に基づいた判断というか。行為に関することも恋人同士なら普通のことで
恥ずかしいとは思わない。むしろちゃんと口に出して話し合った方がいいだろうと思っている。ヒカルとの関係も男同士というよりも相手が
ヒカルだってことの方がきっと一番悩んだことだと思いますよ。


ということで私も留守番ですが、イベントの日に更新が無いのも寂しいので。2015.3.15 しょうこ