二十九歳、新成人
「……カオスだ」
目の前に広がる人の頭の大海原と喧噪に、アキラが唸るように呟いた。
「どうする? 止める?」
「いや、折角来たんだから行くよ」
遙か彼方には区民ホールの屋根と設営された幾つものテント、大きな垂れ幕に書かれた『成人式会場』という文字が見える。
二十歳をとうに過ぎているにも関わらず、ヒカルとアキラの二人は成人式に参加するために今日ここにやって来たのだった。
そもそもの始まりはヒカルがこぼした呟きだった。
『あ、そっか、何かと思ったら月曜日、成人式で休みなのか。自分に関係無いとこういうのって忘れちゃうんだよなあ』
するとすぐ側に居たアキラがからかうように言う。
『関係があるはずの時だって、キミは覚えていなかったじゃないか』
『別に忘れてたわけじゃねーよ。ただ、行ってもしゃーないって言うか、もっと良いことがあるのにそれ放って行く意味無いって言うか』
新成人として言祝ぎを受けるべきその日、ヒカルとアキラは二人揃ってホテルの一室に居た。前日から泊まって飽きもせずに愛し合っていたのである。
朝、どうにか間に合う時間に目覚めはしたものの、抱きしめ合っている腕を解いて離れる気持ちには、どちらもどうしてもなれなかった。
『後から随分怒られたよね』
しみじみと思い出すようにアキラが言う。
『おれの方はそんなに怒られなかったな。ただ心底呆れられただけで』
ヒカルは苦笑しながらアキラを見る。
『でもさあ、実際クソつまらない式に出るより充実していたと思わねえ?』
『思うよ。今でも全く後悔はないし』
ただ……とアキラは少しだけ言い淀む。
『なんだよ、実はやっぱりちょっとだけ後悔してるとか言うのかよ』
『いや、後悔は本当にしていないよ。ただぼくは中学の卒業式にも出ていないし、こういう……人生の節目の出来事を飛ばして生きて行くと、もしかしたら後で寂しく思うこともあるのかなって』
その時には思いもしなかったことだが、育ててくれた感謝として親に晴れの姿を見せるべきではなかったのかと思うこともあるのだと、アキラに言われてヒカルは黙った。
『まあ、今更だけど』
『だったら行こうか』
『え?』
『成人式。それで二人して写真でも何でも撮ってくればいいじゃん』
一瞬何を言われたのか解らなかったが、成人式に紛れ込もうと誘われているのだと解ってアキラは絶句した。
『そんな、無理だよ』
今ぼく達は何歳だと思っているのだとアキラが言うのにヒカルが笑う。
『二十九』
『だったら……』
『いや、大丈夫だろ。さすがに卒業式は無理があるけど成人式なら人凄いし、結構老け顔のヤツだっているし、一人や二人、関係無いヤツが紛れ込んだって誰にも気づかれないって』
無茶だという気持ちと、でも面白そうだという気持ちがアキラの中でせめぎ合い、結局面白そうだという気持ちの方が勝利した。
それで二人して早朝からスーツを着込み、最寄りの成人式会場に出掛けて来たというわけなのだが、予想外にそこは混乱を極める有様だったのだ。
「なんでみんな会場に入らずに立ち話をしているんだ」
遅々として進まない行列にうんざりしたようにアキラが言う。
「そりゃ、久しぶりにダチに会って嬉しいからだろ」
「それにしたって立ち止まるなと放送がずっと流れているじゃないか」
実際会場周辺には、歩行の妨げになるので立ち止まらないようにと繰り返し放送が流されている。けれど集まっている新成人達の耳には届いてはいないようで、あちこちで固まり、笑い合い、挙げ句の果てには写真の撮り合いを始めている。
「っと、危ねーなあ」
今しも自撮り写真に夢中になり、後ろも見ずに突っ込んで来たバカ者からヒカルがアキラを抱え込むようにして庇った。
かと思えば、何事かと思うような大歓声がすぐ近くでわき起こる。
「……交感神経の異常、いや副交感神経の方だったかな」
特に何があったわけでは無いと理解してアキラは深く眉根を寄せた。
「まあ、ハイになりすぎて脳から変な物質が出ちゃってるのかもなあ」
行列を誘導する警官達の向こうには大音量で音楽を流す黒いワゴン車と、空ぶかしをする何台ものオートバイ。更にはバンドなのか何なのか、歌っている何人かの姿も見える。
正にカオスな光景だった。
「……ずっと前、母の荷物持ちで年末のアメ横と築地に行ったことがあるけれど、あれもこんな感じだった」
「おれは昔付き合いで行ったデスメタル系のバンドのライブを思い出すなあ」
芋を洗うような状態で人混みに揉まれながら、それでも少しずつではあるが会場が近くなって来た。
と、唐突にぷっとアキラが小さく笑った。
「何?」
「いや、一体ぼく達、何をやっているんだろうなと思って」
ずっとむっつり顔だったアキラがいきなり笑い出したので、ヒカルはあまりの混雑に苛立って、アキラがおかしくなってしまったのではないかとぎょっとした。けれどすぐにそうでは無いと悟って表情が緩む。
「そりゃあなあ? どこのバカだよって話だろ?」
自分達のでは無い成人式に二十九歳にもなって図々しくも参加しようとしているのだ。
その段階でまず色々と間違っている。
「うん。解ってる。解っているつもりだったんだけどね、成人式がこんなだなんてまさか思うわけ無いじゃないか」
もっと粛々としたものだと思っていたと、アキラはまだ笑いながらヒカルに言う。
「勝手に厳粛なものと思い込んでいて、でも来てみたらこんなお祭りみたいな騒ぎで、なのにそこに自ら紛れ込もうとしているんだから、なんだか可笑しくなってしまって」
「がっかりした?」
「うん。……いや、どうだろう。別にがっかりはしていないかな。それにこれ、後々鮮明に思い出せそうじゃないか」
「確かに」
千代紙を散らしたような美しい色彩の女性の振り袖姿。
着慣れないスーツに身を包み、でもどこか誇らしげな若者達。
バカ騒ぎをしているものの、よくよく見れば皆嬉しそうで幸せそうで初々しくて微笑ましい。
ヒカルもアキラもその時期をとうに過ぎてしまっているけれど、本来在るはずだった記憶よりも、今日この日の出来事の方がずっと楽しい記憶として残るような気がする。
「バカなことやったって?」
「キミとね」
キミと一緒にバカなことをやったと、折に触れて思い出してはずっと笑い合うことになるんだとアキラは言った。
「来て良かったよ」
「早まるな。まだ会場に入ってもいないんだから」
そう言いつつヒカルの顔も笑っている。
「あれ? 進藤さんと……えっ? 塔矢さんも?」
人混みの中、ふいに名前を呼ばれて二人は驚いてそちらを見た。
「田辺じゃん」
びっくり顔でこちらを見ているのは和谷宅の研究会に最近入って来た新人で、そういえば今年新成人だと言っていたことをヒカルは思い出した。
「どうしてお二人とも……」
目を白黒させているのになんと言ったものかとヒカルが考えていると、アキラの方が先に動いた。
スッと目を細めて艶やかに笑うと、田辺に向かって「しーっ」と唇の前に人差し指を押し当てたのである。
そして口パクで『内緒』、『頼んだよ』と言ってヒカルの腕をぐいと引く。
「あ? ああ」
我に返ったヒカルはアキラと同じように人差し指を唇に当てると、後輩に向かってニッと悪戯っぽく笑ってみせた。
「あの……」
田辺が問い返す暇も与えず、二人して笑いながら人混みの更に奥へと消えて行く。
もしかしたら他にも見知った顔が混ざっているかもしれなかったが、ヒカルにとってもアキラにとってもそれはもはや記憶に追加される楽しいハプニングの一つでしか無かった。
※ずっと前に書いた成人式SSの「ろくでなしの朝2」の実際行ってみたらこうだったバージョンです。
もしこれを読んで不愉快になられた方がいましたらごめんなさい。でも現実とそうかけ離れてはいないのではないかと。
っていうかほんとにこんな感じでしたよ(ぼそ)
この後しれっとホールに入って式に参加した後、さらにしれっと記念写真を撮って帰って来る二人です。
そしてそれを双方の親に送って久しぶりに怒られることになるという。「いやー、この年になって親に怒られるとは思わなかった」進藤ヒカル棋聖談。
でも怒りつつもどちらの親もその写真を大切に取っておきそうです。2016.1.11 しょうこ