機嫌・不機嫌
『疲れてもう一歩も歩きたくない。すぐに迎えに来てくれ』 電話の向こうから聞こえて来たアキラの声は不機嫌極まりないものだった。 「わかった、タクシー拾って行くからそこらにあるカフェにでも入って待っててくれるか?」 『嫌だ。騒がしいのはもううんざりだし、飲みたくもないものをオーダーしなければならないのも面倒だ。 大通りで待っているから15分で来い』 来なければキミとは別れるからと一方的に言って電話は切れた。 「……って、15分は結構キツいなあ」 ヒカルは財布と鍵を掴みながら頭の中でざっとした計算をする。 アキラが居ると告げたのは都心の繁華街で、けれど自分達が住むマンションから車でなら15分で 着けなくもない。 (でもギリだなあ) 途中で渋滞や工事があれば完全にアウトで、ヒカルはそうならないことを祈りながらタクシーを拾った。 アキラは指定した場所の街路樹の側に寄りそうように佇んでいた。 目の前にタクシーが停まるなり、ヒカルが出るよりも先に後部座席に乗り込んで来た。 「遅い。後1分待って来なかったら通りすがりの誰かを掴まえてホテルに行こうかと思っていた」 「勘弁しろよ、ちゃんと時間通りに来たじゃんか」 あ、すみません。後は来た道戻って下さいとそれはタクシーの運転手に向かってヒカルが言う。 「とにかく、間に合ったんだから機嫌直せって」 アキラが佇んでいたすぐ後ろにはカフェが二軒並んで建っていた。その他にもそう遠く無い場所 にファストフードもファミレスもあって、入って待つのはさして面倒でも無かったはずだ。 それでも頑として入ろうとしなかったことにアキラの不機嫌の度合いが見て取れる。 「朝からずっと歩きっぱなしで足が痛い。照明がキツイから目も疲れたし、人が多くて騒がしくて頭痛 がする」 ムッとした顔のまま座席に深く身を沈めたアキラは、ヒカルの方を見もせずに吐き捨てるように言った。 「そっか、そりゃ大変だったな。帰ったらマッサージしてやるし、風呂で髪から足の先まで綺麗におれが 洗ってやるから」 「当たり前だ」 にべもない。 「食事の用意もしてあるから、おまえ食ったらさっさと寝ちゃっていいからさ」 「夕飯のメニューは?」 「サンマが安かったからサンマの塩焼きと大根の煮物。それとほうれん草のゴマ和えに味噌汁かな」 「豊水は? 豊水が食べたい」 「ああ、梨かぁ。ごめんな、梨は無いけどりんごならあるからそれで我慢して」 アキラは黙り込んだまま良いとも悪いとも言わなかった。 一体これはどういうことなのかと言うと、実はヒカルの誕生日なのだった。 アキラは早朝から一人で出掛け、ヒカルに贈るプレゼントやケーキ、誕生日に相応しい料理やワイン などを見て回り、けれど結局決めることが出来ないまま、夜になってしまったというわけなのだ。 「キミの好みはよく解らないし、どれを贈れば喜ぶのかも解らないし、考え過ぎてもう疲れた」 「おまえのくれるものならなんだって嬉しいけど?」 ヒカルの言葉にじろりとアキラが睨み返す。 「そういういい加減なことを言うからぼくが迷うことになるんだ。いいか? 今日はぼくの体に触れるの は無しだ。誕生日だからと言って好きに出来ると思ったら大間違いだからな。もし不埒なことをしよう としたら遠慮無く噛み切るから覚悟しろ」 「しないよ、しない。でもマッサージの時と風呂に入れて洗う時だけは勘弁な」 舌かなあ、それとも下かなあと考えながらヒカルが苦笑して答える。 「おまえがくたくたなの解ってるから、いらんことしたりしないって」 「どうだか」 アキラの態度は頑なで、普段なら速攻で喧嘩になっているレベルだ。 でもヒカルは怒らない。むしろ幸せそうな顔でそんなアキラを見詰めていた。 (まあ、そりゃ疲れるよな) 実際は今日だけでは無い。 少し前からアキラが暇を見つけては自分に贈るものを見て回っていたことをヒカルはちゃんと知って いる。 付きあいも長くなり、誕生日も何度も繰り返されると贈るものが減って来る。同じ物は贈りたくないし、 その時に一番喜んで貰える物をと考えると選択肢は非道く難しくなるのだ。 少なくともアキラはそう考えている。 (おれは本当になんでもいいんだけどなあ) というか、特に何も貰えなくても構わないとさえ思う。 (だってもう一番欲しい物は貰ったし) その一番欲しいものであったアキラが自分のために不機嫌になる程疲れ果てて贈り物を探してく れたということが、もう充分に贈り物だった。 「あ、そうだ。おれケーキ買ってたんだ」 思い出したようなヒカルの声に、アキラははっきりと不機嫌さを増して眉を寄せた。 「ぼくが買いに行ったと知っていて買ったのか? 最低だな」 「いや、味噌汁作ろうと思ったら味噌が切れててコンビニに買いに行ったんだ。そうしたら新製品で 美味そうなデザートが売ってたから一個だけ買った。半分こで食おうぜ?」 「そもそも夕飯だって、ぼくが総菜を買って帰るとは思わなかったのか? 一人で勝手に作ってしま うなんて失礼だ」 「うん、そうだな。悪かった」 ついさっき自分でメニューを聞いて来たくせに、そんなことは無かったかのようにヒカルを罵る。 「キミはぼくを信用していないんだ。だからそんな真似が出来るんだ」 「んなことねーよ。ただ今日暇だったからさ」 つい作ってしまったと、宥める言葉にもアキラは突っかかる。 「なんだそれは、折角の休日にぼくが一人で出掛けたと責めているのか?」 「まさか。ただ暇で退屈しのぎに作っちゃっただけだから許せよ」 ヒカルはぽんぽんと軽くアキラの手を叩いてそのまま握ろうとした。けれど苛立ったような仕草で払 いのけられる。 「最低だ。今日は最低な1日だった」 深く大きくため息をつくアキラに、ヒカルは諦め悪く再度手を握ろうとアキラの手に自分の手を重ねる。 「おれは最高な1日だったぜ?」 アキラはヒカルを睨み付け、けれど今度は握られるまま払いのけることはしなかったので、ヒカルは目 を細め、幸せそうに笑ったのだった。 |
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