嵐
勢いよくドアを開けたアキラは靴を脱ぎ捨てるようにすると、そのまま台所に向かった。 「あれ…、おまえなんで…」 「黙れ! 時間が無いんだ! 喋るな、何もするな、リビングでじっと座っていろ」 怒鳴りつけられて、ヒカルは大人しくリビングのソファに座る。 「あのー…テレビとか見てても…」 「話しかけるな!」 稲妻のような激しさだ。 仕方なくちょこんと座って待っていると、何やら台所では荒々しい音がして、ほどなく甘い香りが漂い始めた。 「なあ、何作って…」 「黙れと言った!」 やがて現れたアキラはヒカルの目の前、ガラスのサイドテーブルの上に一枚の皿を置いた。 「冷めないうちに食べろ。じゃあぼくは行くから!」 「えっ…と」 「タクシーを下に待たせているんだ! それから言っておくけれど、どこぞのアナウンサーの作ったものより ぼくの作った方が絶対ずっと美味しいから」 込められている愛情の桁が違うんだよと言い捨てるように吐いて、そのまま出て行った。 滞在時間、三十分くらいだっただろうか。 ヒカルは目の前の皿を見てふっと笑う。 置かれているのはパンケーキ。大急ぎで焼いたせいで形は少々いびつだが、綺麗な焼き目でふっくらと膨 らんでいる。 「こんな時なのに見てたんだなあ」 叩きつけるように置かれたフォークとナイフを手に取ろうとして気が変わり、台所に向かう。 そこはまさに戦場だった。 横倒しになったパンケーキミックスの箱、トッピングの苺のへたがシンク内に散らばっている。 ボウルも泡だて器もフライ返しもそのまま。 もちろんフライパンも火を消しただけの状態で、はみ出したパンケーキのくずが残っている。 「あー、本当はホイップクリームも添えたかったんだな」 口を開けたまま放置されている生クリームをヒカルはそっと冷蔵庫に仕舞った。 朝の情報番組の取材を受けたのは半月ほど前。 色々とインタビューをされて、その後アナウンサーが焼いたと言うパンケーキを一緒に食べた。 『わ、美味いですね』 『良かった。私、進藤さんのファンなので愛を込めて焼いたんですよ』 今日お誕生日ですよね。おめでとうございますと言葉が続く。 取材日は前でも放映日は今日九月二十日だった。 ヒカルは別にそれを隠していたわけでは無い。 取材を受けたことも話したし、それが二十日に放映されることもアキラに話した。 ただ、見ることは無いだろうなと思っていた。 何故ならアキラはその日、棋聖戦の決勝二日目のはずだったからだ。 タイトル戦の時のアキラの集中は凄まじい、のんきに朝のテレビを見るはずが無いと高をくくっていた。 「こりゃ、甘く見てたな」 片付けは後にして、ヒカルはリビングに戻る。 すぐに食べないと折角作ってくれたパンケーキが冷めてしまうからだ。 それでも添えてくれたバターを塗り、メイプルシロップを回しかけてナイフとフォークを入れる。 「ん、美味い」 そしてつけっぱなしだったテレビの画面に目をやる。 それは今まさに対局中の棋聖戦の決勝で、アキラは長考ということで席を外している。 場所は都内のホテル。タクシーを飛ばせば往復できる距離だった。 (だからって普通帰って来るか?) 段位が上がり、棋戦が立て込むようになってから、互いの誕生日を当日に祝うことは難しくなっていた。 それは双方承知の上で、後で必ず穴埋めをしていたのに、今回に限ってはどうしても我慢出来なかった らしい。 「あーんとか言って食べさせてもらっちゃったからなあ」 ああ見えて瞬間湯沸かし器のアキラは怒り心頭に達したのだろう。そして我慢しようとして出来ずに対局 を抜け出してパンケーキを焼きに来た。 (心して食べろ!) 最後にそう言っていたような気もする。 「はいはい、解ってるって。ちゃんと心して食ってるって」 対局が終わって戻って来たら、たぶん大喧嘩になるんだろう。 「まあ、でもそれも愛情の内ってか」 おれって滅茶苦茶愛されてるからなあと苦笑まじりに呟きながら、ヒカルはゆっくりとパンケーキを食べ 進めた。 最後のひとかけらを飲み込んだ時に画面上に再びアキラが現れた。 相変わらず怒ったような顔のままだったが、その表情にはどこか勝ち誇ったような、やり遂げたような清 々しさがあった。 「これ、あいつの勝ちだな」 もっとも負けるとも思っていなかったけれどと、ヒカルは片付けを更に後回しにして、アキラの一手、一手を じっと食い入るように見守ったのだった。 end |