12月14日
誕生日と言って思い出すのは、父の背中。 いつも忙しく留守がちだった父が、この日だけは必ず家に居た。 友達を呼ぶとか、そういう派手なことはしなかったけれど、母は夕食にぼくの好物を 並べ、普段めったに食べることの無いケーキが、年の数だけのローソクを灯されて 食後に出てきた。 プレゼントは文房具や日々使う物。 ある程度年を重ねてからは囲碁に関係した物が多くなったが、自分のために選んで くれた物だと思うとそれだけで嬉しかった。 ささやかで、温かい毎年の「行事」。 でもそのために一日を空けるのがどれほど大変なことか、自分もプロになってよくわ かった。 手合いはもちろん、研究会や碁会所、各種囲碁イベントなどの催し物など、それら はもちろん小さな子どもの誕生日など考えてくれるはずもなく、だから父はかなり無 理をしていたのだろうと思う。 今、夜行で帰ってこようとしている彼のように―。 金沢で行われた名人戦第二局。緒方さんから二つ目の勝ちをもぎ取った彼は、一 泊してくればいいものを帰ってくるとメールを寄越した。 『いいよ別に無理しなくても』 そんな心身共にすり減った状態で遠方から帰ってきてなんかほしくないと、でも彼は折 り返し何通かメールを送ってきた後、焦れたのか電話をかけてきた。 『おれが帰りたいから帰るんだって!』 今日のこの日におまえといなくてどーすんのと、怒ったような口調で言われて苦笑した。 『もう、そうでなくてもおれ、十五年分損してんだから』 おまえが生まれてからの十五年、おれ、祝い損ねてるんだからこれ以上マイナスを増 やすなと、そんなことぼくに言われても困るのだけれど、彼はどうやら本気のようなの で口答えはしないでおいた。 初めて一緒に過ごしてから、何度目かの誕生日、彼はぼくに言った。 「これからの誕生日は全部おれにくれる?」 一生、死ぬまでの誕生日、他の誰にもあげないで全部おれと過ごしてくれる?と。 そんなこと出来るはず無いと思ったけれど、今の所彼はごり押しでそれを実行してい る。 上手いこと対局日にかち合わないのは、どういう手段を用いているんだろうかと時々 すごく不思議になるけれど、彼はあれで上の人たちにも覚えがいいので、そこら辺に 秘密があるのかもしれない。 『とにかく、絶対に今日中に帰るから、寝ないでおれのこと待ってろよ』 慌ただしく切れた電話の向こうに、やつれただろう彼の顔を思う。 父もこんなふうにぼくのために時間を作ったのだろうか? こんなふうに疲れ切っている時でも、ぼくのために家に戻って来たのだろうか? 色っぽいものでは無かったが、16歳の誕生日に初めて進藤と誕生日を過ごし、以来、 両親は誕生日に帰って来なくなった。 『お父さん少し寂しそうだったわよ』と後で母が耳打ちしてくれたのだけれど、中学の卒 業式に出ないと告げた時よりも父にはショックだったらしい。 親不孝な息子だと、本当に申し訳無く思うけれど、両親と居るよりも進藤と居たいとぼ くは思ってしまったから。 『今、電車に乗った。乗る前にケーキも買った』 再び入ったメールをながめながら、こんな短時間にどこで買ったのだと笑ってしまう。 『弁当と酒も買ったから待ってて』と、続けて入ったメールにそれでは大荷物になって しまうなとなんだか切ないような気持ちになった。 ぼくのために誰かが無理をして時間を作ってくれる。 その贅沢さと幸福をぼくはちゃんとわかっている。 そこまでしてもらえる価値がぼくにあるかどうかはわからないけれど、同じだけの気持 ちを返したいといつも思う。 「…ありがとう」 こんなにも、こんなにも愛してくれてありがとう。 最初は父に。 そして次に進藤に。 敵わないかもしれないけれど、ぼくも愛しているからと、そう祈るように思いながら 、ぼくは、携帯の画面にそっと口づけをしたのだった。 |