犬の幸せ
「可愛げの無いガキだ」 「おまえなんか死んじまえばいいんだ」 覚えているのは罵声と、部屋中に漂うビールの匂い。 その匂いは時に日本酒にもなり、チューハイにもなる。 でももっぱらそいつが飲んでいるのは安売り店で一番安い銘柄の缶ビールで、だからおれは 今もその缶を見ると嫌な気持ちになるのだった。 「おい、なに見てやがるんだ、なんか文句あんのかおら」 確か母親より十近く年下だったその男は、気がついたら家にいて、飲みながらいつもおれの ことを殴った。 「死ねよ、早く死ねよっ、おらっ」 正気の時はそれでもまだ優しい部分もあったけれど、一度、酩酊に近い状態の時に、風呂に 顔を突っ込まれて、もう少しで死にそうになったこともある。 「やめて、お願いだからやめてよ」 すがりつき、でもその男を止めることも出来なければ別れることも出来なかった母親と、その恋 人は、今も高い塀の向こうにいる。 「ヒカル?」 揺り動かされて、初めて自分が夢を見ていたことに気がついた。 「どうしたんだ? 何か悪い夢でも見たのか?」 目を開けると、のぞきこむようにしてとーやがおれを見ていた。 「あ、ごっ、ごめん。おれちょっと寝てたっ」 「非道くうなされていたけど…」 ちょっとだけ、ちょっと休むだけと思ったのに炬燵に入ってテレビを見ている間にいつの間にか 眠ってしまったらしい。 見ればテレビはつけっぱなしで、読んでいた雑誌も開いたまま、畳の上に放り出してある。 「寝るなら寝るで、ちゃんと部屋で布団を敷いて寝ろ、こんな所で寝ていると風邪をひくぞ」 こたつの上には飲みかけのコーラのペットボトルがあって、たぶんすっかり気が抜けただろ うそれに、とーやは軽く顔をしかめた。 「炭酸は抜けてしまうからその都度コップにつげと―」 「はいはいはいはい、次からは気をつけます」 これ以上小言を言われる前にと飛び起きると、瞬間なんとも言えない感覚があって、ぐらりと目 が回った。 「ヒカル?」 「ん?ああ、なんでも無い。急に立ったから立ちくらんだ」 へーきへーきとくりかえしながら、おれはペットボトルをひっつかむと、慌てて台所に行った。 冷蔵庫にボトルをしまい、息を整えてまた茶の間に戻る。 「大丈夫か?」 多少は顔色に出てしまったのだろう、とーやは心配そうにおれの顔を見つめている。 「もし具合が悪いようなら…」 「えー?別におれ元気だけど?」 強いて言うならちょっと腹は減ってるけどと、言うのに安心したのか表情が緩む。 「夕飯の支度はしておいたから、後で温めて食べるといいよ」 「ってカレー?」 「さあね、でもたくさん作っておいたからなんなら全部食べてもいいよ」 珍しく上機嫌のとーやは、仕事でも無いのにびしっとしたスーツを着ている。紺系のその真新 しいスーツはこの間設えたばかりで、今日初めておろしたのをおれは知っていた。 「ちぇーっ、自分はフランス料理食べてくるくせに」 「半分は仕事なんだからそんな言い方しない」 「仕事って、結局あいつとメシ食ってくるだけじゃん」 雑誌の取材ということで、とーやは今日緒方十段と銀座のホテルで対談することになっている のだ。 居並ぶ妖怪ジジイたちをさしおいてめきめき頭角をあらわし始めている緒方十段は、とーやの 兄弟子であり、とーや自身も若手の中で注目株ということで対談が組まれるのはなんの不思 議も無い。 ただその対談日である今日がとーやの誕生日であることと、その後に緒方十段が誕生祝いと 称してホテル内のレストランに席を予約していることが大問題だった。 「とにかくメシ食ったらさっさと帰って来いよ?」 痛む頭を押さえながら、それだけは言わなくちゃととーやに迫る。 「食事の後、バーに誘われても行くんじゃねーぞ」 「ぼくはまだ未成年なんだから誘われるわけ無いだろう?」 (どうだか) あいつのことだからこっそり部屋をとってあるのではないかとおれは気が気ではない。 本当ならそんな所、仕事でもなんでも絶対に行かせたくはないのだけれど、とーや本人が 行きたがっているのだから止めることは出来なかった。 「だって緒方さん、先週の王座戦決勝戦の棋譜を持ってきてくれるって言うんだよ」 ネットでもリアルタイムで見ていたけれど、それを打った本人から解説してもらいながら見ら れるなんて滅多にないことなんだからと、十段も本当にこいつを誘うツボをよく知っているよ なと舌をまく。 「とにかく、とにかく、それでもなんでも絶対今日中には帰ってこいよ。部屋で検討しようなんて言 われても間違ってもついていくんじゃないぞっ」 「うるさいなあ…本当に」 緒方さんだって忙しいんだからわざわざそんなことしないよと、そう言われてそんなことするかも しれないから言ってるんだよと余程言い返してやろうかと思った。 緒方十段は、兄弟子としてではなく明らかにこいつのことが好きで、だからおれのことを疎まし く思っているというのに、肝心の本人は鈍いんだか天然なんだかそういうことにまるっきり気が つかないので、おれはいつも冷や冷やしっぱなしなのだ。 「メシ食い終わったら電話しろよ、いいな、絶対だぞ」 「はいはい、わかったよ」 いつもだったらペットのくせに生意気とか、出過ぎたことを言うなとか怒鳴っている所なのだけ れど、出かける時間が迫っているせいか塔矢はあっさりと流すと、そのまま出かけて行ってし まった。 「あーあ、行っちゃった」 玄関の引き戸が閉まり、タクシーの走り去る音を聞いたら、途端にもう体に力が入らなくなっ てしまった。 (やべぇ、ぞくぞくする) たぶんうたた寝している間に体を冷やしてしまったらしい、発熱しているようだった。 (そう言えば、朝からちょっと頭が痛かったもんなあ) ゲームのやりすぎかとその時はそうとしか思わなかったけれど、思えばあれも発熱の予兆だ ったのかもしれない。 「布団…っと、布団敷かないと」 あいつが帰ってきた時にまた炬燵で寝ていたら怒られてしまうと、這うようにして部屋に行く。 なんとか押し入れの戸を開けて、布団を引っ張り出したまでは良かったけれど、きちんと敷く 元気は残っていなかった。 「いいか、もうこれで」 とりあえず布団を被っていればどうとでも言い訳ができると、めちゃくちゃにたぐりよせて胸の 上まで引き上げる。 そうしてからようやく息を吐き、天井を見たら板の目がぐるぐると回って見えるので、ああマジで 熱が高いんだなあと今更に思った。 「あいつ…帰ってくるまでに治るかなあ」 せめて薬を飲んでから寝ればよかったと悔やんだけれど、もうとても起きあがることは出来なか ったので、そのまま寝てしまうことにした。 (それに昔はおれ、薬なんか飲まなかったし) その昔、怪我をしても病気になってもおれの面倒を見てくれる人はいなかった。 逆に知られれば鬱陶しいと殴られことが確実だったので、おれは具合が悪い時はひたすらそれ を隠して部屋の隅でうずくまって寝るのが常だったのだ。 「それでも治ったんだからニンゲンってすげーよな…」 おれを殴ったあの男は今頃ケームショの中で何してんだろうと、火照ったような頭でぼんやりと 思った。 (母さんはまだあいつのことが好きなのかな?) 実の子どものおれよりもあの男のが好きだったんだからまだ好きでいるのかもと、考えていると 切なくなるのでやめておいた。 「あの家…寒かったよなぁ…」 金が無くて暖房もろくにつけられなかったあの部屋は、冬、ものすごく寒かった。 おれはボロ布のような毛布一枚しか与えられず、しかもあの男が母親とスル時は部屋から外に たたき出されたのだ。 『ごめんねぇ…』 甘ったるい声でおれに言って、母親はそっと百円玉を二枚おれの手に握らせたっけ。 『これで缶のジュースでも飲んで待っててね』 ホットの飲み物を買ってそれで暖をとれと、実際におれはそうして廊下で凍えながら数時間を 待ったのだけれど。 「よくよく考えると…ひでー親だよなぁ」 手の中で缶が冷えていく感触は今でもよく覚えている。 「それに比べたら…」 今は天国だと思う。大好きなヤツに飼われて雨風もしのげて、大好きなヤツが作るメシまで 食える。 「あー…カレー…」 おれが好きだからとせっかく作ってくれたのに、少しは食べてないとがっかりするかなと、そこ まで考えておれは意識を失ってしまった。 気がついたのは携帯の呼び出し音でだった。 ぴりりと、闇の中光りながら鳴っているそれをようやく手にした時には、かなりコールさせてしま ったらしい。電話の向こうのとーやは少しむっとした声になっていた。 「おはよー…」 「おはようじゃない! またどうせ炬燵で寝てたんだろうっ」 どうしてそう人の言うことを聞かないんだと、お説教の嵐が過ぎ去るまで、おれは少し電話を耳 から遠ざけた。 「で…なに?メシもう終わったの?」 眠っていてふいに起こされたせいで余計にぐらぐらになっている頭で、ようやく思い出して尋ねる。 「美味かった? フランス料理」 「美味しかったよ。ヒカルは? ちゃんと夕食は食べたんだろうな」 「うん、食べた食べた、カレーすげぇおいしかった」 そう言うと何故か一瞬言葉が切れて、それからとーやの声音が変わった。 「おいしかった?カレーが?」 「うん、肉ごろごろ入っててすげー美味かったけど」 答えるとまた沈黙が起こる。 「…ヒカル、もしかしてどこか具合が悪いんじゃないのか?」 「いや?なんで?」 「なんでってことは無いけど…なんとなく声の調子がいつもと違う」 元気が無いからと言われて、しまったと思う。 「そっ、そんなこと無いけどな。ほんとちゃんと食ったし。カレー、三杯もおかわりして食ったん だから」 「…そう?」 ならいいけどと、まだ少し腑に落ちなさそうだったけれど、とーやは少し納得したような声にな った。 「で、もう帰ってくんの?」 だったらカレーを三杯分なんとかしないといけないなとぼんやり考えていたら、とーやは少し 沈黙した後で、ためらいながらこう言った。 「それが…実はまだ帰れないんだ」 「なんで!」 「せっかく棋譜を持ってきてもらったんだけど、やっぱりコース料理を食べながら検討は出来 なくて…」 部屋をとってあるからそこでゆっくり時間をかけてやろうと言われたのだと言う。 「あっ、ヒカルはすぐ変なことを考えるけどそういうんじゃないからなっ、緒方さんは断じて そんな―」 「いいよ別に」 本当は死んでもいいなんて言いたくは無かったけれど、試してみて、立ち上がることさえ出 来ないことに気がついておれはため息をついた。 「せっかくなんだし部屋で検討して、それからタクシーで帰ってくればいいじゃん」 「…怒らないのか?」 余程おれが文句をたれるものと思っていたらしい、とーやは意外だという声を隠さずに言った。 「…出かける時は絶対についていくなって言っていたくせに」 「でもとーや楽しみにしてたんだろ? 実際そんな機会滅多に無いしさ。棋士としてのおれだった らやっぱり緒方十段に並べて見せて欲しいしと思うし」 なんだったら一局打ってきたらと言うと「うん…ホテルに碁盤と碁石があるって言うから、そうし ようかって話してたんだけど」と、とーやは答えた。 「じゃあいいじゃん。おれのこと気にしないでマジいいからさ」 「本当にいいのか? …きっと帰るのはものすごく遅くなるぞ」 「いいよ、今日はおまえの誕生日だし、そんな日にうるさく言わないって」 ただ、くれぐれも貞操だけは守ってねと言ったら「バカ!」と怒鳴られてしまったけれど。 電話を切ると、ほーっと全身から力が抜けた。 今の会話で最後の力を使い果たしてしまったような感じだ。 「うー気持ち悪ぃ」 吐き気がして目が回る。 頭はわれ鐘のように痛いし、関節はどこもかしこもバラバラになりそうなほど痛い。 「九度くらいあるかなー…今」 寒くて寒くて震えながら、とーやのことを思った。 「ヤられちゃうかなあ…」 ホテルなんて最悪だ。元々緒方十段を崇拝しているとーやだから、もし本気で迫られたら絶対 に拒むことは出来ないだろう。 「そうしたらおれ…捨てられちゃうのかなあ…」 (所詮ペットだし) (無理に置いてもらってるんだし) 緒方十段がどんなに心が広くても、ニンゲンのペットを恋人に許しはしないだろうとそう思った らため息が出た。 「でも、別にいいか…」 それで長いこと一人ぼっちだったとーやが一人ではなくなるのなら。 どうにかしてやりたいとそれだけを願い続けた、あの孤独からとーやが解放されるなら、おれは 別にどうなってもいいやと、でもそう思いながら涙がこぼれた。 『あんたがもっとイイ子ならいいのよ』 薄暗い部屋の中、ヒステリックに泣き叫びながら母親が怒鳴っている。 『あんたが一々、あのヒトに反抗するから、あのヒトが怒るんじゃないのっ』 恋人と喧嘩をすると、母親は決まっておれをなじった。 『べつにおれ、はんこーなんかしてないよ』 『そういう口答えが反抗してるって言うのよ、まったくなんではいって返事が出来ないの! あんた がもっと素直だったらあのヒトも―』 あのヒトだってもっと優しい。 あのヒトだってきっと殴ったりしない。 あのヒトだって他に―。 あの男は他にも恋人が何人かいて、うちに居づらくなるとそっちに行っていたのだった。 『あんたさえいなければ、あのヒトは私のものなのに』 あんたなんか死んでくれればいいのにと半ば本気で言われた時にはさすがのおれも心の 底から冷えたような気持ちになった。 死ぬもんか、おれは絶対こんなハハオヤのためになんか死ぬもんかと、歯を食いしばりな がら思った。 半ば意地のように。 こんなおれを愛してもくれないヒトのためになんかおれは死なない―。 目覚めは唐突だった。しんと静かな部屋の中、ぱちりと目が開いた時、意識の覚醒が追いつか なくて、今自分がどこにいて何をしているのかがわからなかった。 「えーと…」 まだぐらぐらとする視界をめぐらせて、辺りを見ようとした時おれはぎょっとした。反対側に寄り 添うようにしてとーやが眠っていたからだ。 「えっ」 夢かと思い、でもまばたきしても消えないので夢では無いと納得する。 「なんで…」 緒方十段と検討しているはずのとーやがここにいるのかがわからない。 そっと起きあがろうとして、滅茶苦茶にかけたはずの布団がきちんと敷き直されていることに 気がついた。 額には熱冷ましのシートも貼ってあり、とーやがしてくれたのだと思った。 「ん…ヒカル?」 顔を寄せると、とーやが薄く目を開いた。 「大丈夫? 気分は?」 「大分いいけど…んなことより、とーやどうして…」 「カレー…」 半分寝ぼけたような声でとーやは言うとくすりと笑った。 「カレーを食べたなんて言うから嘘がわかるんだ」 ぼくは今日はカレーなんか作っていない。作ろうとしてルーが無かったのでシチューに したんだと言われてそういえば、とーやはカレーだとは一言も言わなかったと思い出した。 「ヒカルが夕食を食べないなんて、絶対に病気だと思ったからね」 だから急いで帰ってきたんだよと言われておれは言葉を無くした。 「…だって…とーや、あんなに楽しみにしてたのに」 緒方十段と検討することをフランス料理よりも何よりも楽しみにしていたのに。 「なんでおれなんかのために…」 「ペットの健康管理も飼い主の仕事だから」 だから気にせずお休みと言われて、胸の奥がずきりと痛んだ。 「喉が渇いたなら何か持ってくるけど」 「…まだ何も欲しくない」 「じゃあもう少し寝た方がいい。ずっと側にいてあげるから」 言われて横になり、でも眠れなくて呼びかける。 「とーや」 「なんだ?」 「おれが…眠るまで手ぇ握っててくれる?」 ダメと、バカなことを言うなとあっさりいなされるものと思ったのに、とーやは苦笑したように 笑うとおれの手をぎゅっと握ってくれた。 「これでいい?」 「ん」 とーやの手は熱のあるおれの手より少しだけ冷たくて、でも柔らかくて気持ちよかった。 「なあ…とーや、おれのこと好き?」 いつになく優しいので思い切って尋ねると、とーやは「好きだよ」と笑いながら言った。 自分のペットを嫌いな飼い主はいないと。 「具合が悪いとバカ犬でも心細くなるんだな」 朝までずっと握っていてあげるから安心してと言って、でもとーやは自分の方が先に眠 ってしまった。 すう、すうと繰り返される寝息を聞きながら、おれはどうしようと思った。 欲しくて、欲しくて、でも今までだれもおれにくれなかったものを今初めてもらってしまったから。 (ほんと…どうしよう、おれ) それは温かくて優しい―。 涙が出るほどに優しい―。 でもおれを生んだ人はおれにかけらもくれなかったもの。 「おれ…」 嬉しいのに胸が苦しい。 あまりに切なくて息が出来なくなりそうだった。 「―おれ、いつか、おまえのために死ぬ」 整った寝顔をながめながら、いつのまにかおれは泣いていた。 「いつかもし死ぬことがあるなら絶対におれはおまえのためだけに死ぬから」 そんなこと、とーやは望んではいないかもしれないけれど。 「おれ、絶対に―」 涙を拭いながら誓うように言う。 「ずっと、一生、おまえの側にいるから」 例え、おまえが他の誰かを好きになっても、それでもおれはとーやのことが好きだから。 出来たらおれのこともほんのちょっぴりだけ好きになって欲しい。 (緒方十段の百分の一でもいいから) 「とーや…」 (どうかおれのことを好きになって) 繋がれた手は温かかった。 温かくて温かくて死ぬほどに幸せだった。 「愛してる…おれ、おまえのこと愛してるよ…とーや」 温もりを味わうように、繋がれた手をそっと握り返すと、おれはとーやを起こさないように、 一人、声を殺して泣いたのだった。 |