Snow
目を覚ました時、辺りが妙に明るかった。 何が違うんだろうかと起きあがって、窓の外を見て初めてわかった。 「進藤…雪だ」 ふり返り言う、けれど布団の中にいる相手はまだ半分眠っているのか返事が無くて、 塔矢は苦笑してしまった。 からり、窓を開け、白に染まった庭を見る。 今年はそうでなくても雪が少なかった。まさかこんな三月も半ばになってから積もる ことがあろうなどとは思いもしなかった。 「う…何?」 冷えた風に頬を撫でられたのか、進藤が目をこすりながら起きてくる。 「外、雪が積もってる」 少しよけて窓の外を見せてやると、寝ぼけていた進藤の顔がぱっと嬉しそうに変わっ た。 「わーっ本当だ。すげー」 身を乗り出さんばかりに見る、それがまるで子どものようで、それでまた塔矢は苦笑 してしまった。 「寒いからもう閉めるよ」 そう言って、窓を閉めかけると、もう少しと進藤がその手を押さえた。 「いつ頃から降ってたんだろう」 「夜中に起きた時はまだ雨だったよ」 二時頃だろうか、ふと目が覚めて時計を見た時、窓の外からは雨の落ちる音が聞こ えてきた。ああ、明日は天気が悪いのだと思いつつまた眠ったのだけれど、あれから 明け方にかけて雪に変わったものらしい。 「ほら、本当にもう閉めるから」 薄い寝間着のままながめていたせいで、腕には鳥肌が立っている。このまま冷やし続 けていたら苦労無く風邪をひけそうだった。 「うわ、おまえの体冷てー」 後ろから塔矢を抱きしめようとして、進藤が驚いたように言った。 「だから閉めようって言ってるんだ」 「うん、わかった。ごめんなさい」 素直に言い、進藤が改めて塔矢を抱きしめる。ふわりとかかる腕が心地よくて塔矢は目 を閉じた。 (暖かい) 夕べ触れた肌も暖かかった。 一瞬、指を絡めた感触がリアルに蘇り、赤くなる。 進藤に背中を向けていて良かったと塔矢は思った。こんな顔を見られたらまた何を言われ るかわかったものではない。 もう何度もこうして朝を迎えているというのに、塔矢は未だに行為に慣れることが無かった。 いつでもどこか現実感が乏しくて、明けてしまえば夢の中のことのように思える。 「今、何時?」 ふと進藤がたずねてきた。 「六時…少し前くらいかな」 その位置からは時計が見えなくてそう言うと、進藤が再びたずねた。 「ガッコーって何時くらいに始まるんだっけ」 「さあ…八時くらいだと思うけど」 「会社もそんなくらいだよな」 なんでそんなことを聞いてきたのかわからなくてふり返ると、進藤はにやっと笑って言った。 「外、行こう。外」 まだあまり人が踏まないうちに、雪の中を歩きたいと言うのだ。 「別にいいけど…」 どうせダメだと言っても、なんのかのと理由をつけて誘うに違いない。だったら逆らうだけ無 駄というものだ。 布団はそのまま、急かされて着替え、外に出る。 もう着ることも無いかと思っていた冬用のコートを羽織って出ると、進藤が当たり前のように 手を差し出した。 「こんな明るい時に…」 渋りながら、それでも自分の手を重ねると、すかさず進藤がぎゅっと手を握りしめる。 「どこに行く?」 「別にてきとーでいいじゃん。気が向いた方向に行けば」 目的が雪の中を歩くことなのだからと笑う。それでも一応何か無いと、ということで、駅の近く のコンビニまで行って帰ってこようということになった。 「静かだな」 さくりさくりと柔らかい雪を踏みしめながら、二人手をつなぎ、歩く。 いつもなら結構人通りがある道も、まださすがに、ほとんど歩く姿は見あたらない。 「雪は音を吸収するからね」 時折走り去る車のチェーンの音以外は、音らしい音は聞こえなくて、なんとなく耳をふさがれて いるような変な気持ちになる。 「進藤は…ずっと関東なんだ?」 ふと塔矢が言う。 「そ。じーちゃんだったかばーちゃんだったかは東北の生まれだって聞いたことあるけど、おれ はずっとここらから動いたことないよ。塔矢は?」 「ぼくもそうだな。あの家はお父さんの実家だし…生まれた時からずっとここに住んでいる」 「ふーん、じゃあおれたち、お互い都会の汚れた雪しか知らないんだな」 「まあ、そういうことになるね」 他愛無い会話をしながらどれくらい歩いただろうか、唐突に進藤が立ち止まった。 「ガッコーだ、ガッコー」 見ると、通りから少し引っ込んだ所に小学校の正門らしいものがある。 「こんな所にあったっけ?」 何度も通った道なのに、今まであることに気が付かなかった。 「…なんか看板ついてるぞ」 進藤が近寄り、しげしげとながめる。 「…廃校になったって書いてある」 「廃校?」 「わかんねーけど、人数が少ないと、よその学校と一緒になっちゃったりするんだろう?」 塔矢も近寄って、看板を読んだ。 「本当だ。去年までで廃校になったって書いてあるね」 柵の向こう、人の気配の無い校庭は、だから荒らす者も無く真っ白だった。 「入ろうぜ」 しばらくながめた後、進藤がふり返り言う。 「…きっとそう言うと思った」 門は鍵とチェーンとで固定されてしまっているけれど、高さ自体はそれほど高くは無い。 進藤が先に乗り越え、塔矢が後に続く。ぼすっと音をたてて、校庭に降り立つと、そこは 周囲と隔絶された一種不思議な空間だった。 「すーげーえぇぇぇぇぇ」 だだっ広い校庭の端まで、嬉しそうに進藤が走って行く。 「おまえも早く来いよぅ」 なんであんなに嬉しそうなんだと思いつつ、塔矢はゆっくりと進藤の後を追う。追いつい たかと思うと、進藤はまた嬉しそうに別の端へと走って行ってしまった。 「早く、早く、こっち来いって」 けれど追って行くとやっぱり進藤は逃げて行ってしまい、そこから塔矢を呼ぶのだ。 「ぼくは鬼ごっこをしに来たわけじゃ…ないっ」 うっすらと額に浮いた汗をぬぐいつつ、塔矢が怒鳴る。 真っ白だった校庭は、だんだんと踏み荒らされて足跡だらけになっていく。進藤を追いか けていた塔矢がふいに立ち止まり、我に返ったように周りを見渡した。 「塔矢?」 「もう…帰ろう、進藤」 踵をかえし、門の方へと戻り始める。 「なんだよ、どうしたんだよ」 慌てて追いかけてきた進藤は塔矢の腕を掴んだ。 「なんだよ、怒ったのか?」 「別に、怒ってなんかいないよ」 ふり返る塔矢の顔は確かに機嫌の悪いそれでは無い。 「じゃあ、どうして?」 「…汚してしまったなって思って」 「え?」 「あんなにきれいだったのに、キミとぼくとで汚してしまったじゃないか。だから…」 入らなければ良かったと思った。 踏み荒らしたりしてはいけなかったのではないかと。 「人が来るかもしれないし、もう行こう」 そして歩き始めた途端、塔矢の背中に何かがぶつけられた。 「進藤、なにやって―」 それは雪玉だった。やわらかく握った雪の玉を進藤は塔矢に投げつけたのだ。 「おまえさぁ」 屈み込み、二発目をにぎりながら進藤が言う。 「もしかしなくても…後悔してんの?」 「え?」 「おれとさぁ」 寝たこと、と言うと進藤は雪玉を投げた。最初から外して投げたのか今度は塔矢 には当たらずに、傍らに落ちる。 「まさか、そんなこと」 「そう? でもおまえ、いつもやった後しばらく眠らないじゃん」 進藤が言うのに塔矢はどきりとした。実際、肌を合わせた夜はなかなか寝付けなく て、起きていることが多いのだ。けれど、進藤がそれに気が付いているとは思わな かった。 「キミも…起きていたんだ」 「だって、すぐ後ろにおまえがいるのに、平気でなんかいられねーもん」 少し動いただけでも肌に触れる。それほどの近くにいて、どうして眠ることができるだ ろうか。 「だったら、どうして起きているって言わないんだ」 「おまえが後悔してるかもしれないのに?」 自分のすぐ後ろ、身じろぎもせずに天井をにらんでいる塔矢が、今し方のことを悔や んでいるのだとしたら…。そう思ったら声をかけることなどできなかったと進藤は言う のだ。 「後悔なんてしていない。するわけがない」 即座に塔矢は言った。 「ただ…」 間違っているのかもしれないという思いはずっとあった。 自分にとって、進藤にとって、それが正しいことなのか、正しくないことなのかわからな くて。 「だって、誰にも言えないじゃないか。ぼくらのことは」 親にも友達にも、知っている誰に口に出すこともできない。 「一生、こうしていることなんか出来ないのかもしれないし」 それでも、今、離れることなど出来ない。そう思う自分が怖かった。 それは自分の知らない自分。理性より感情を最優先にする。 「おまえ、外ヅラいいからなぁ」 ぼそっと言われて、塔矢の頬が赤く染まる。 「そういうことじゃなくて」 「そういうことだろ」 少しだけ突き放したような口調で言うと、進藤は塔矢をまっすぐに見た。 「キミは…不安になったり、怖くなったりすることはないのか?」 「そんなの、怖くなんかない」 きっぱりと、なんの迷いも無く言い切る進藤に塔矢は目を見開いた。 「おれが怖いのはさぁ…」 言葉を切り、少し考え込む。 「やっぱやーめた。おまえには教えてやんない」 「なんだ、それ」 かっと頬が紅潮する。 「なんでもいいだろ、とにかくおまえには教えてやんないって言ってんだよ」 「だから、なんで!」 詰め寄る塔矢から逃れるように、進藤は門に駆け寄るとやおら登りはじめた。 「進藤っ」 捕まえようと、塔矢が思わず服の背中を掴む。と、雪で滑りやすくなっていた柵から足 を踏み外して、進藤は下に落ちてしまった。 「わっ」 仰向けにひっくりかえり、大げさに顔をしかめる。 「ごめん、進藤、大丈夫か?」 「痛ーっ。頭打ったじゃんか。おまえ乱暴だなぁ」 「ごめん…本当にごめん」 ひっくりかえったまま、進藤は塔矢の向こう、空を見る。 「なんか…すげー、気持ちいい」 途端に塔矢がぎょっとした顔になった。 「キミ、そんなに強く打ったんだったら医者に診てもらった方がいいんじゃ…」 「違うって」 言って進藤は起きあがると、自分をのぞき込んでいた塔矢の肩をつかみ、後ろに引き倒 した。 「わっ」 ふいうちをくらい、雪の中に転ばされた塔矢は、怒った顔ですぐに起きあがってこようとした けれど、それを進藤が押しとどめる。 「上見てみろよ、なんか…すごく気持ちよくないか?」 家を出た時は一面灰色だった空が、雲が割れ、青空が広がり初めていた。 「ほんとうだ」 無彩色の中の青は、なんだか妙に染みるほど美しく見えて、塔矢はまぶしそうに目を細めた。 「きれーだよなぁ」 うんと言いかけて、進藤が自分を見て言っているのに気がつき「バカ」と言う。 「いや、マジできれいだなって」 身を屈め、そっと進藤がキスをする。最初はかするように、次はゆっくりと。 舌を差し入れられると力が抜けるような気がして、塔矢は切なく眉をひそめた。と、進藤が ぽつりととんでもないことを言った。 「このまま…やっちゃおーかな♪」 ぐっとのしかかってくる気配に、少なからず慌てて逃げ出そうとすると、進藤は「嘘だ」と言っ て苦笑した。 「冗談だって」 「キミの冗談は冗談に聞こえない」 拗ねたように言う塔矢の頬を進藤が両手でそっと挟んだ。 「進藤?」 何をされるのかと身構える塔矢の額にキスをして、真正面から目を見つめる。 いつの間にか、ふざけた表情は顔から抜け落ちていた。 「おれ、おまえのことが好き。すげー好き。だからおまえが嫌だって思うことはしたくない」 一度言葉を切り、それから思い詰めたように言う。 「だから言って…もし本当に嫌なんだったら、おれ、もうやんなくってもいいから」 「なんで、そんな」 「側にいさせてくれるんなら、おれ、それでいいから」 思ってもいなかった反応に驚いていると、進藤は手を離し、塔矢の胸に顔をうずめた。 「さっき言ったじゃん、怖いことって。…おれが本当に怖いのは」 おまえに嫌われること。 そうくぐもった声が言った。 「おまえを失くすのが一番怖い」 もしかしたら今なら、引き返すことができるのかもしれなかった。 進藤とは仲のいい友人で、でももう二度とと手をつなぐことはなく、唇を重ねることも無い。 共に過ごした夜の、あの熱を二度と味わうことも無く、一生を過ごす。誰に責められること も無く、後ろめたく思うことも無く。 「嫌だ」 ぴくりと、進藤が肩をふるわせる。 「そんなのは…嫌だよ、進藤」 ぱっと進藤が顔を上げる。 「何も無かったようになんか、もうできない」 「塔矢」 身を起こし、塔矢の方から進藤にキスをする。 「キミが好きだ。だれよりも」 それが間違っていたとしても、もうかまわないと思った。 責められても、ののしられても、誰を悲しませることになってもかまわないと思った。 「愛してる」 例えそれが罪でも。 自分で望んで、白い雪を汚したのだから。 ぎゅっと抱きしめ合い、もう一度キスをする。と、頭上からいきなりひやかすよう な声がした。 えっと顔を上げると、校舎の三階の窓に茶色く染めた頭が数人、こちらをのぞい ている。 「朝っぱらからいちゃついてんじゃねーよ」 誰かが怒鳴り、窓から缶やタバコの吸い殻を次々と投げつけはじめた。幸い、距 離があるので届かないけれど、ギャラリーがいたという事実に、かっと二人頬を染め た。 「いつからいたんだあいつら」 「さあ…」 たぶん夜のうちからいたに違い無い。投げつけられる缶にビールが多いのがそれを 物語っている。 「帰ろう」 手をにぎり、逃げるように門を乗り越える。と、まだはやしたてる三階に向かい、進藤 が怒鳴った。 「羨ましがって見てんじゃねーよ、バーカ」 そして側にいた塔矢を抱き寄せると、見せびらかすようにキスをした。 「ど、どうしてそういうことをするかな、キミはっ」 身を離すやいなや、塔矢は真っ赤な顔でくってかかった。 「いや、大丈夫だろ、この距離ならおまえが男か女かなんて向こう、わかんねーだろうし」 「そうじゃなくて、そんな挑発するようなことして、追って来たらどうするんだ」 「いや、来ないだろ」 それでもと念のために二人、走り出す。息を切らせ走り続けながらなんだか妙に幸せで、 声をあげて笑った。 手をしっかりとつないだまま。 |