手伝い籠



吉野に至る道の辻に、あやかしが出ると噂になった。

通りがかった人々が見るようになってまだ数日だが、昼と言わず夜と言わず怪しい光が漂っているので
気味が悪いと。


さしたる害は無かったが、そのままにしておくわけにも行かないので、何人かの陰陽師が向かったけれど
誰一人として祓えない。


這々の体で逃げ出した他の者と違って、倉田という陰陽師だけはさして動じもしなかったが、代わりに視
るなり大笑いをして、『賀茂明にやらせろ』とだけ言って帰ってしまったので、その言葉通り最終的に賀茂
に話が来たのだった。




「それはもう薄気味の悪い事で…ぼうっとした光が妙な呪いを唱えながら歩く人に絡みつくんですよ」

「ほう、それはどんなまじないですか?」

帝の信頼も厚い、都一の陰陽師である賀茂明はその整った顔で相手をじっと見詰めると、興味深そうに
話の先を促した。


「それが…意味の無いことと申しますか」

聞こえる声は、はっきりしているのだけれど、言葉として意味を為さないものばかりなので覚えにくいのだ
と言う。


「ほんの欠片も覚えている者はいないのでしょうか?」

「…手伝い籠」

「は?」

「手伝い籠と聞いた者がおります」

相談を持ちかけて来たのは辻を管理する役人の使いで、話ながらしきりに首をひねっている。

「他に、やづら川、二の泣き簾など…しかし一体なんのことやら」

「そうですか、二の泣き簾。わかりました、今夜辻に行って様子を見て来ます」

わけのわからない文字面が、賀茂には何やら納得が行ったようで頷きながらそう言った。

「ありがとうございます。賀茂明様が行って下さるなら安心です。どのような化物もきっと裸足で逃げ出す
ことでしょうとも」


そして顔を上げながら、ふと思い出したように尋ねた。

「今宵の化物退治にも、また噂の検非違使殿を連れて行かれるのですか?」

以前都に跋扈するあやかしを二人で一掃して以来、陰陽師の賀茂明と検非違使の近衛光は揃いのよう
に言われている。


「私はまだお会いしたことはありませんが、年若い割になかなかの手練れだと伺っております。お二人で
ならば更に安心、正に鬼に金棒ですな」


途端、氷のように整った賀茂の顔がほんの少し引きつった。

「…いいえ、今日はぼくだけで。彼は今、藤原様のお使いで遠方に出かけておりますので」

「そうですか。それは失礼しました。しかしそれでは―」

見た目非道く華奢に見える賀茂の外見に、一人で大丈夫なのかと尋ねかけて、使いの者は失言に慌て
て口を噤む。


「ご安心下さい。辻に迷い出て戯れ言を繰り返すような下等なあやかしに、この賀茂明、決して負けるこ
とはありませんので」


「それは心強い」

凛とした口調で言う賀茂に使いの者もそれ以上何も言うことは無く、黙って屋敷から去って行ったのだっ
た。





道の端では枯れ草が乾いた音をたてていた。

秋も深まったこの時期、厚手の上物を着てもまだ寒いくらいなのに、近衛はまるで寝屋にでも居るかのよ
うな薄物一枚纏っただけで、ぽつんと辻に立っていた。


(寒っ)

凍える程―では無いのは、きっとたぶん多少なりとも手加減をしてくれたのだろうが、でもそれでも寒いは
寒い。


近衛はこの姿のまま、もう幾晩もここに立っていた。

帰ろうにも縫い止めたようにこの場を離れることが出来ず、人に助けを求めたくても言葉が誰にも通じな
い。


近衛は術者に呪(まじない)いをかけられていたのだ。

『なよるがやしとこいどひ』

ぼそっと呟いてあからさまに顔を顰める。

近衛にかけられた呪は、喋る言葉が全て逆さ言葉になるというものだった。

だから幾ら話しかけてもそれは呪文のようになってしまい、誰にも聞き取ることが出来ない。しかもご丁寧
に、逆さ言葉の逆さは出来ないようになっている。


『かばのもか』

『よかのいなゃじきすとこのれお』

愚痴をこぼしても全て逆さまになってしまうので、まるで自分が阿呆のように思える。

『だんいなかきをしなはのとひてしうど』

何故こんなことになってしまったのか。

近衛は最愛の恋人にあらぬ疑いをかけられて、この辻に立たされているのだ。そう恋人―賀茂明に。



数日前賀茂の屋敷を訪れた近衛は、いつもの通り他愛無く話をして酒など飲んだ。

お互い忙しい身なのでなかなかゆっくり会う時間が取れないが、だからこそ会えれば嬉しくて、酔いのまま、
気がつけば腕の中に賀茂を抱いていた。


『近衛…』

耳を甘噛みされた賀茂がうっとりした目で近衛を見上げる。

ああ、本当にどうして賀茂はこんなに綺麗で可愛くてたまらないんだろうと幸せな気分で思った時、いきなり
すっとその賀茂の目が細められた。


『キミ最近、桜野様のお屋敷に通っているんだって?』

打って変わった詰問口調に近衛は驚いて一瞬言葉が出なかった。

『えっ? あ、いや、なんで?』

『随分噂になってるよ。聞けば以前から文を貰っていたというじゃないか』

なのにぼくには一言もない。つまりそれはそういうことなのだろうかと言われて近衛の顔から一気に血の気
が失せた。


『ちっ、違うって、確かに桜野様ん所には通ってたけど』

『ふうん、本当に通っていたんだ』

『ばっ、違うって! そういう意味じゃ…』

『問答無用!』

そして気がついたらこの辻まで飛ばされていた。

『…ののしよ、ここ』

呆然とした後呟いて愕然とする。お怒りの賀茂様は近衛からまともな言葉すらも取り上げてしまっていたから
だ。


いつもならあのまま睦言を繰り返し、甘い雰囲気の中寝屋になだれこむ算段であったのに。

『…うろやのあ』

恨めしく夜空を見上げてもどうにも出来ない。その日から近衛はこの辻に佇み、人にあやかしと呼ばれるよう
になったのだった。




(疲れた)

立ち続けているのにもさすがに疲れ、ぺたりと地面に座り込むと、近衛は子どものように膝を抱えた。

(あんなに怒らなくてもいいのに…)

ひとことも言い訳を聞いてくれなかった。それが悔しい。

確かに近衛はここしばらく、妖艶な美女として名高い桜野の姫君の屋敷に通ってはいた。けれどそれは賀茂
が思っていたようなことでは全くなかったのだ。


さる高貴な方が姫君の元に通われることになり、その方の警護をするために行っていただけだったのである。

ごくごく一部の者しか知らぬことであり、秘密にと口止めされていたので、近衛は賀茂にも打ち明けずに居た
わけだけれど、それでこんな事になるとは思わなかった。


(大体さー、桜野様は綺麗だけどちょっと色気ありすぎだし)

俯いてぶつぶつと胸の内で愚痴を吐く。

(気ぃ強いのは嫌いじゃないけど、あの人はお姫さまってよりもお姉様って感じだし、大体おれよりずっと年上
じゃん)


なのにどうしてそういう誤解をするのかなあと、むうっと頬が膨れてしまう。

(おれは賀茂のキレーなくせにクソ意地の悪い所とか、つんつんして冷たくて、でもその実すごく可愛くて甘え
たな所が大好きだし)


素っ気ないくせに独占欲が強い所も実は好きだなあと思う。

総じて自分の好み、理想は賀茂であるというのにどうしてそれが解らないのか。

(そんなにおれ、見境無いように見えるのかなあ…)

『にのなけだもか、はのなきす』

溜息交じりにぽつんと呟いた時、ふいに辺りの空気が震え、リンと涼やかな音が鳴った。

顔を上げると、いつの間に現われたのか目の前に賀茂が立っている。

「近衛」

座り込む近衛の顔を覗き込むようにして見つめる賀茂は、こんな夜の暗がりの中なのにぼんやりと姿が浮
かび上がって見える。


『か―』

言いかけて呪いを思い出し、近衛が口を噤む。その唇に指で触れて、賀茂は優しい声で言った。

「もう充分反省したかい?」

「って、最初の言葉がそれかよ!」

怒鳴りつけて、それから近衛は目を丸くした。

「…言葉が元に戻ってる」

「もともとそんなに強い呪いじゃなかったからね。放っておいてもたぶんもう数日で解けたと思うよ」

でも折角来たから解いてあげたんだと、にこりと言われて近衛は吠えた。

「そういう問題じゃなくて、おまえ非道い!」

おれは何にも悪いことしてないのに言い訳も聞かず、こんな所にすっ飛ばして放りっぱなしであんまり
じゃないかと近衛はもう泣かんばかりに食ってかかっている。


「だってキミ、文を貰っていたことをぼくに教えてくれなかった」

「あれはおれんじゃなくて、別の方への預かり物だったんだよ」

「通っていたのが仕事だということも教えてくれなかった」

「内密にってことだったから喋れなかったんだって!」

「そうでなくても桜野の姫君は美人で有名なのに…」

ぼくなんかより良くなってしまったのかと思うじゃないかと、賀茂は珍しく拗ねたような口調で言う。

「もし仮にそうだったとして、それでおまえの所に行くわけ無いだろ」

「二股をかけられたのかと―」

むすっと言われて、近衛が頭を掻きむしった。

「するか! おれが好きなのはおまえだけだって、ずっとそう言ってんじゃん!」

「うん……今日あやかし退治の依頼で来た人にキミの言葉を教えて貰ったからやっと信じられた」

きょとんとする近衛に賀茂はゆっくりと言った。


『手伝い籠』

『やづら川』

『二の泣き簾』

呪文のようだったあの言葉は後ろから読めばごく普通に意味が通る。

「ごかいだって、わからずや」

そして一旦言葉を切ってから最後の言葉を言って賀茂は微笑んだ。

「…すきなのに」

「だっ、大体おまえがっ!!」

近衛が真っ赤な顔で言いかけるのを賀茂がやんわりと止める。

「うん、ぼくが悪かった。藤原様に内緒で教えて頂いたんだ。キミは姫君の逢瀬の警護をしていただけなん
だって。嫉妬深く、怒りっぽくて本当に悪いとは思っている」


でもそういうぼくをキミはわざわざ選んだんだから自業自得でもあると思うよと、賀茂は苦笑のように笑って
言った。


「数日とはいえ、キミがうっかり退治されないよう、強力な護りで固めるのは大変だったよ」

唯一心配していたのは倉田だけれど、倉田はあやかしの正体と誰がそれをやったかに早々に気がついて
何も手出しをしないでくれた。


けれど万一、倉田以上に力がある陰陽師が存在して、その人物が先に近衛に近づいたら―。

居ないという前提で行ったことだけれど、もしもの時には賀茂は自分も死ぬつもりだった。

それくらい近衛の心変わりは(間違いではあったけれど)賀茂にとって深刻な出来事だったのである。



「…なあ、この体ってほんとの体じゃないんだよな?」

ぽつりと近衛が言った言葉に賀茂が答える。

「うん。キミの本体はあのまま、ぼくの家に居るよ」

賀茂を抱きしめていた腕も解かず、人形のように固まって寝所の奥に座って居る。

その頬に毎夜切なく口づけたのは決して伝えることの無い賀茂の心の中だけの秘密だ。

「戻ったら…あの続きをしてもいい?」

近衛の言葉に賀茂は少しだけ驚いた顔をした。

「いいけど、でもキミ、ぼくを怒っているんじゃないのか?」

「怒ってたけど、でもいいよ。散々愚痴ってやろうとか、文句も巻物に出来るぐらい考えたけど、でもおま
えの顔見たら吹っ飛んだから」


早く帰りたい。早く本来の体に戻っておまえのことを抱きしめたいと言われて賀茂の頬がほんのりと染ま
った。


「…随分寛大なんだな」

「寛大でなきゃ、おまえの恋人なんかやってらんないよ」

嘯いて、それから急かすように尋ねる。

「で、させてくれんの? くれないの?」

「…いいよ。もしキミが戻った後、まだその気持ちがあったなら」

大人しく悋気の罰を受けるよと、しおらしく言う賀茂に近衛はにこっと優しく笑った。

「じゃ、さっさと帰ろうぜ」

差し出した近衛の手を賀茂がそっと、でもしっかりと握りしめる。

近衛の手は温かくて、賀茂はその温もりにほっとした気持ちになった。家に居る近衛の抜け殻はとても
冷たかったからだ。


「少しだけ目を閉じて」

賀茂の言葉に素直に近衛が目を閉じる。

静かな声で賀茂が呪いを唱えるのを聞きながら、近衛はぼんやりと考えた。

帰ったら真っ先に賀茂のことを抱きしめようと。

(綺麗なこの顔に、もう嫌だって言うくらいキスの雨を降らせて解らせてやる)

自分がいかに賀茂のことを好きなのか、賀茂の姿形、内側をどんなに好ましく愛しく思っているのか。

もう二度と賀茂が心を揺らさないよう、実のある体に戻ったら、しっかりと耳の中に吹き込んでやろう
と思った。


『おれは絶対浮気なんかしない』

死ぬまでおまえだけを愛するよ――と。



リンとまた澄み切った音が辺りに響く。

その音の名残がまだ空気に漂っている内に、辻に居たあやかしは影も形も無く消え失せて、後には
ただ、しんとした闇だけが取り残されたのだった。

nohara.jpg


※焼き餅賀茂。いや、どんなに焼き餅妬いても賀茂はこんなことしないと思うんですが。力を私事に使っちゃだめだしね。
と言いつつ結構、近衛のためには使いまくりの賀茂でした。
そしてそして平安ですが、おばけつながりでこれが今年のハロウィンです。2012.10.31 しょうこ