Blue bird



「今日の夜、もしぼくがキミの屋敷を訪ねて行ったら、絶対に中に入れないで欲しい」

検非違使寮にやって来た賀茂は、近衛の姿を見つけるなり駈け寄ってそれだけを
言って去った。



「なんだ今の?」

同僚の加賀や筒井に尋ねられても、近衛自身さっぱり意味がわからない。

「なんか…今夜賀茂が来たら家に入れるなって言うんだけどさ」

それってどういうことなんだろうかと近衛は首を折れるのでは無いかと言うほど傾げ
て考え込んでしまった。


「逆だったらわかるけどな」

からかうように加賀が言う。

「今夜何か大切な用事があるから、おまえに邪魔されたく無いって言うならわかる」
「なんだよぅ、おれそんな迷惑な行き方して無いぞ」



いつぞやの妖怪騒ぎで知り合って以来、検非違使の近衛と陰陽師の賀茂は身分の
差を超えて親しく付き合うようになっていて、それは周囲の者もよく知っていた。


よくもまあ、あの知性の塊のような賀茂殿が知性のちの字も無いようながさつな近衛
と付き合っているものだと、笑いの種にはなっても妬まれたりいらぬやっかみを受け
たりしないのは、もともと近衛が人懐こくて人徳があり、人好きのする性格なのと、賀
茂がその真逆で人を周囲に寄せ付けない素っ気なさを身に纏っているせいなのかも
しれなかった。


宮廷一と噂される若い陰陽師と親しくなりたい、繋がりを持ちたいと思う貴族はたくさ
ん居るが、賀茂の性格は端正な顔立ちには似合わぬ冷ややかさを秘めていて、近
づきたくても近づけないのだ。


下手な追従をしようものなら、身分の差無く氷のような冷淡さで返される。

陰陽の術の確かさは皆良く知っているので、怒りを買って何かされても困ると、尊敬と
畏怖を同時に抱いているような状況だった。


なので近衛がその賀茂に近づいて行っても、さもありなん。あの変人ならばという扱い
方で納得されてしまうのだった。



「まあとにかく賀茂殿がわざわざこんなむさ苦しい所まで来ておまえに言ったんだから
逆らわない方がいいと思うな」


宥めるような筒井の言葉に近衛はまだ首を傾げたまま仕方なく頷く。

「うん・・・・まあそうするけど、でも本当に変なこと言うよなあ、あいつ」




そしてその晩、果たして本当に来るのだろうかと湯にも入らず待っていた時間に賀茂
は現われなかった。


「もしぼくが…って言っていたもんな」

もしかしたら行くかもしれないけれど、でも行かないかもしれない。曖昧極まりない言葉
だけれど、確証が持てなかったから賀茂はあんな言い方をしたんだろう。


「そしてやっぱり来なかったってことか」

じゃあもう待たないでもいいかなと、夜もかなり更けてから近衛はため息をつくと夜着
に着替えて床に就いた。


しんと静かな時間、暗闇で目を閉じてとろとろと眠りかけた頃だった。

何か遠くで声のようなものを聞いたと近衛は思った。


「…ん?」

反射的に枕元に置いてある刀に手をかけてそのままじっと耳を澄ませる。

「…近衛」

聞こえてきたのは賀茂の声で、どうやら門の前で自分を呼んでいるらしい。

(本当に来た)

「近衛…ぼくだ。夜分すまないが開けてくれないか」

門から寝所までは幾つかの部屋がある。けれどその隔たりをしても尚良く賀茂の声は
近衛の耳に響いた。


「近衛、頼む。夜着のままで来てしまったから寒くてたまらないんだ」
「夜着のまま?」


思わずがばっと近衛は起きあがった。

「こんな夜中になんで…」

賀茂は昼間、自分が訪ねて来ても決して入れるなと近衛に言った。どんなにおかしな事
でも理由の無いことを賀茂はしない。だからそれを違えるつもりは無かったけれど、下着
姿も同然の出で立ちで門の外に立っていると言われては、様子を見ないわけにはいか
なかった。


さらりと羽織っただけの夜着には確かに夜の湿った空気は肌寒い。

刀を手に立ち上がった近衛は静かだなとぼんやりと思った。

夜は人の行き来は無いし静かなことは静かだけれど、こんな風の音も葉擦れの音も虫の
声すら聞こえないような夜は今まであっただろうかとそう思う。




みしみしと廊下を歩き、そっと裸足のまま庭に出て門の前まで歩いて行く。

「近衛?」

ほとんど音をたてずに来たのに、門の向こう側の賀茂はすぐさま気が付いてすがるような
声で言った。


「ごめん、こんな時間にどうかしているとキミは思っているだろうけれど」

術に失敗したんだと、ぽつりぽつりと賀茂の声が言う。

「篠田様に頼まれて、かけられた厄を解こうとして逆に相手に飲まれそうになった」

命からがら逃げ出して来たけれど、屋敷には日が昇るまでは戻ることが出来ないと賀茂
の声は辛そうに言うのだった。


「でもおまえ―おまえを屋敷に入れるなって…」
「昼間キミにそう言ったけれど、でもあの時とは状況が変わったんだ」


篠田様は変化の出来るあやかしに取憑かれていたのでそのあやかしがぼくに化けてキミ
の所に来るかもしれないと、それでああ言ったのだと言う賀茂の話のつじつまは合ってい
る。


「キミは…ぼくの唯一大切だと言える相手だから…」
「だから人質にされるかもって?」
「…信じないよね、きっと」


キミはいつもぼくとした約束は違え無い。

だからきっと一晩中ぼくがこの門の前で露に凍えて立っていたとしても、最初にした約束
を守ってぼくを屋敷に入れたりはしないのだと、その声に意外にも恨めしさは無い。


「ごめん、勝手なことばかり言ってキミを惑わして…でもせめてここに夜明けまで居させて
貰っても構わないかな」


こんな格好だし、他にどこにも行く当ては無いしと言う賀茂の言葉に近衛は揺れた。

(もし賀茂の言っていることが本当だったら)

薄物一枚のあられも無い姿で愛しい恋人を外に立たせることになる。けれどこれがその
あやかしが変化したもので無いという保証も無いのだ。


「ごめん、やっぱり入れられない」

おまえが本当の賀茂でも偽物でも、それでも最初に賀茂とした約束をおれは守りたいか
らと近衛が言ったら、門の向こうはしばし静かになった。


(どう出る?)

もしあやかしならば腹を立て、正体を現すのでは無いかと近衛は思ったのだ。

「悪いな。おれ…もう寝るから」

朝になったら入れてやるから恨まないでくれと、だめ押しのように言って門にくるりと背中
を向ける。


その瞬間ぽつりと優しい声が言った。

「…おやすみ」

はっと近衛は振り向いた。

「…おやすみ、近衛」

朝日が昇るまでぼくはここでキミを待つよと、言葉と共に門の下からちらりと覗いたのは
近衛が見たことがある夜着で、それと共にぺたりと座る細い足と頼りない手も隙間から
見えた。


小さな子どものように門に寄りかかって座っているのだと、そう思った時に近衛の心は
決まった。


すっと息を吸い込んで大股に門に近寄ると、物も言わず門の閂を開ける。

果たしてそこに座っていたのは少し青ざめた顔をした賀茂で、近衛を見ると驚いたように
目を見開いた。


「…なんで?」
「なんでって、だっておまえがそんなふうに座ってんのにおれだけ温かく布団の中で寝ら
れるわけ無いじゃん」


一体どんなヘマやらかしたんだよと言うと苦笑したように笑って、賀茂はゆっくりと立ち上
がった。


「非道いな、ぼくだって人間だから失敗だってする」

そして人間だからこんなふうに恋人のキミに頼りたくなることもあると、そう言って賀茂は
冷え切った腕を近衛の体に回し、すがりつくようにして抱きついて来た。


「ありがとう近衛…ぼくを信じてくれて」
「信じてるよ、いつだっておれは」


おれはおまえのことだけをいつでも心から信じていると、言って強く賀茂を抱きしめた。

抱きしめたように――見えた。

けれどその瞬間、闇を切り裂くような悲鳴が響き、よろりと賀茂は近衛の体から離れた
のだった。


「なんで―――」

驚愕したような顔はまっすぐに近衛を見つめる。

「なんでこんな――」

賀茂の背には近衛の刀が突き刺さっていた。

「なんで! 近衛!」

大きく見開いた瞳には涙が溢れ、思いがけぬ仕打ちを責めるかのように何度も繰り返し
近衛の名前を叫び続ける。


「どうして、近衛、愛しているのに――」
「おれだって賀茂を愛してる。でもおまえは賀茂じゃないから―」


言いながら賀茂に近づくと、近衛はその背から刀を抜き取り、今度は正面から深く胸を
突いたのだった。


「近衛―――」

なんで、どうしてと繰り返し言う賀茂の胸からは赤い血が溢れ出して、白い夜着を朱色に
染めて行った。


「近衛――非道い――」
「非道く無い」


だっておまえは賀茂の姿を真似たからと、柄まで深く突き刺して、それから近衛は賀茂か
ら離れた。


「おれの―おれの大切な恋人の姿を盗んだんだ、それだけでも充分殺されるだけの罪に
なる」
「近衛―」
「賀茂の声を真似て、賀茂の振りをしておれにすがった」


それがおれには許せないんだと、近衛の声にはいつもの陽気さとは無縁の怒りと憎しみ
がこもっていた。


「近衛―ぼくは本当に―」

あやかしは殺されると術が解けて元の姿に戻ると言う。けれど血に染まった賀茂はいつ
までもそのままで、でも近衛は怯まなかった。


自分を呼ぶ賀茂の声が小さくなり、やがてぴくりともその体が動かなくなってもじっと見据
えたまま動かなかった。



そして――。

昇る朝日の中、ゆっくりと光に照らされる賀茂が大きな年老いた烏に姿を変えるのを見て
からようやく言った。


「賀茂はおれのことを恋人だなんて絶対に言わない」

愛してるなんて死んだって言ったりしないんだよと、そして言いながら傷ついた顔をして、
血に汚れた刀を烏から引き抜いたのだった。





「近衛―」

賀茂が検非違使寮に訪ねて来たのは昼を過ぎてからだった。

「近衛、夕べは―」
「夕べって?」


訪ねて来た賀茂に近衛は邪気の無い笑顔で言った。

「おれ昨日は疲れていたから早く寝ちゃったんでわかんなかったんだけど、何? おまえ
来たん?」
「いや――」


賀茂はじっと近衛の顔を見つめ、それからぽつりと呟いた。

「いや、いい。それならいいんだ」
「おまえは?」
「え?」
「おまえは大丈夫だった?」


何がとは言わない。

「別に、ぼくも早く寝たから」

昨日は変なことを言って悪かったねと、そしてそのまま大きく息を吐いた。

「近衛」
「ん?」


ちょうど朝と昼とで役目が代わり、皆出払っていて居なかったせいもあるかもしれない。

賀茂は昨日のようにすぐに出ては行かないで、それから思い詰めたような声で言った。

「もしキミは――」
「何?」
「もしキミはあれが本当のぼくだったとしたらどうしたんだ?」


何も無い、お互いに早く寝てしまったという割にはおかしな会話であったけれど、近衛も
また大きく息を吐くと、それから苦笑したように賀茂を見て言った。


「だってあれは絶対におまえじゃなかったし」
「でも、もし―」
「もし間違えたならおれも死ぬつもりだった」


もしおまえをあやかしと間違えて殺してしまったのだとしたら、その場でおれも死ぬつも
りだったよと眉一つ動かさずに言われて賀茂の表情は歪んだ。


「キミは―」
「でも別に夕べは何も無かったし」
「近衛…」
「おまえも何も無かったんだろう?」


にっこりと笑う近衛の顔には迷いが無い。

間違うつもりは無かったし、もし間違えたなら自分も死ぬつもりだと、いつだって自分は
そうなのだと近衛の目の奥の光が言っていた。


「キミのそういう所が怖い」
「そう?」
「だけど……」


嫌いじゃないと言って賀茂は一瞬ぎゅっと近衛の体を抱きしめた。

「もう二度とあんな失敗はしない」

キミを苦しめるようなことはしないからと、そして素早く離れて去った。


決して、決して好きだとは言わない。

愛してるとも恋人だとも言ってはくれない。


「でも―――」

でもきっと心はおれと同じなんだと思いつつ、近衛は賀茂を見送った。

凛として迷いが無い美しい立ち姿には、口には出せない賀茂の想いが滲み出ていた。


愛していると、誰よりも近衛を大切に想っていると。


「おれも好き」

おまえが大好きと呟くと、近衛は汚れた刀を磨くために検非違使寮の奥へと一人向か
ったのだった。


nukimi5.jpg



※こういうことがきっと近衛にはよくあるんじゃないかなと思います。賀茂と近くなるということはこういうことなんだと思います。
今回は賀茂だったけれど近衛の親しい友人の姿を借りて来ることもあるかもしれないし、親しい友人が敵になることもあるかもしれない。
そして賀茂を愛するということは例えそれが親しい友人でも斬らなければならなくなることもあると。
そのくらいの覚悟が無いと賀茂の側にはきっといられないんだと思いますよ。
2009.5.4 しょうこ