引っ越し




「おれ、ここに引っ越して来ようかなあ…」

夜具からそっと手を伸ばし、足の先に触れようとしたら、まだ指も届いていないのに
賀茂にぴしりと手で払われた。


「キミが? ここに?」

冗談じゃないと、一人先に起き出して乱れた髪を整えていた賀茂は振り返りもしない。

「そもそもキミとぼくとじゃ仕事の時間も違うし、生活も何もかもが違う」

キミにここに入り浸られているだけでも充分に迷惑なのに、住まれるなんて絶対に嫌
だと何もそこまで言わなくてもいいだろうと思う。


「でもさぁ、おまえとおれじゃ、それこそ中々会えないじゃん?」

今日だって実を言えば賀茂と会うのはひと月ぶりだ。

おれは最近跋扈するようになった夜盗のせいで都の警護が忙しく、賀茂は賀茂で宮中
の祭事が忙しくて重なる時間というものが無かったからだ。


たまに内裏で姿を見ても声をかけることも出来ず、その姿を目で追うばかりだった。

だから余計に久しぶりの逢瀬が身に染みて、共に住みたいなどと朧な夢のようなことを
口にしてしまったのかもしれない。


「もし一緒に住んだとして、殊更会える時間が増えるわけでも無いだろう?」
「別にいつも会えなくても、同じ家に居るってだけでいいじゃんか」


同じ家、同じ空間に好いた相手が居る。それだけでとても安心出来るじゃないかと言っ
たら賀茂はクスっと鼻先で笑った。


「安心? ぼくとキミが共に住んで?」

お笑いだと言う言葉にさすがに少々むっとする。

「なんでだよ、そんなにおれ、おまえにとって迷惑?」

「迷惑だよ。キミが来ればぼくは陰陽のことをすることが出来ないし、ばかげた色事
に時間を割かれる」


キミに食べるものを宛がわなければいけないし、湯も使わせてやらなければやらない。
洗い物もあるし、夜具も居るし、夜眠る時も拘束されて自由になれないと一気に並べ立
てられて閉口した。


「何? おまえそんなに不満だらけなんだ?」

そんなに嫌で、嫌なのにおれに遠慮して我慢してるんだ? と聞いたら「そうだよ」とまた
すぐさま返した。


「キミが来なければゆっくり休めるし、自分だけで時間を使える。それに…」

それにと言って賀茂は一旦口を噤んだ。

「なんだよ?」
「…キミが来なければ、キミの命の心配をすることも無い」


この屋敷は本当に安心な場所なんかでは無いのだと重ねて言う賀茂の声は低かった。

「それは…あやかしとか?」
「こんなことを生業としていると色々人の恨みも買うしね。ぼくの家だというそれだけで、
ここがどれだけ危険な場所になっているのかキミは本当にわかっているのか?」


いつぞや体を乗っ取られてしまったように、またいつ何時、誰に襲われるかわからない
のだと言われて目を見開いた。


「…なんだ」
「え?」
「なんだ、おまえ、おれのことが嫌じゃないんじゃん」
「どこをどう取ってそう言っている?」
「どこって全部」


もしおれがここに一緒に住むようになれば、今以上に賀茂に関わりのある者として危険
な目に遭うかもしれない。それを賀茂は心配しているのだとわかって嬉しくなった。


「なんだ、でもおれ、結構強いぜ?」

ずっと前、おまえと都のあやかし退治をした時よりもずっと腕も上がっているとおれは言
った。


「加賀にもしょっちゅう剣の相手をしてもらっているし、最近じゃ検非違使の中でも腕がた
つって評判なんだぜ?」
「…知ってる」


そんな噂くらいぼくだって聞いて知っていると、だったらどうして嘘でもいいから一緒に住
みたいと言うおれの言葉に頷いてくれないのだろうか?


「なあ…、おれ、そんな簡単に死なないぜ?」

傲っているつもりは無い。

もし本当にここで賀茂と住むならば、賀茂の負担にならないようにしなければならないこ
ともちゃんと承知している。


もし傲りで油断しておれが傷つくことになれば賀茂を苦しめてしまうし、何より賀茂を危険
に晒すことにもなってしまうとよくわかっているつもりだった。


「おれ、がんばってもっと強くなるし、なるべくおまえに迷惑かけないように自分のことは自
分でするし」


おまえが勉強したい時や、陰陽の仕事をしなければならない時には屋敷の隅でじっと大
人しくしている。もしそれでも邪魔ならばその時だけ外に出てもいいからと、そこまで言っ
ても賀茂はやっぱり振り返らない。


「それは随分な譲歩だな……」
「だろ?」


なんだったら庭仕事や、家周りのこと全部やってもいいよと言ったらほんの少しその肩が
頷くように俯いた。


「いいじゃん、賀茂。おれと住んじゃえよ」

おれのボロ屋敷に賀茂を囲うなんてことは出来ない。でももし逆がよければ賀茂が家に
来てくれるのでもいいと、言ったら賀茂はしばらく黙り、それからきっぱり「ダメだ」と言った
のだった。


「なんで? おれの身分が低いから? あんなおんぼろ屋敷に住むのは恥ずかしい?」
「まさか。キミの屋敷に何の不満もあるわけが無い」
「だったら!」
「でも、キミの屋敷では何かあった時に守りきれない。この屋敷も危険だけれど、方位や守
りを考えた上で建てられているから、まだこちらの方がマシなんだよ」
「じゃあここにおれが越してくるんでいいじゃん。あっちの屋敷は人に貸してもいいし、おまえ
がおれに居て欲しく無い時に帰るだけの別宅にしてもいい」


おれもおまえも他に一緒に暮す家族が居るわけじゃないのだから誰に気兼ねすることも無
いしと言うのに賀茂は再び黙った。


「なあ、賀茂」

今度の沈黙は長かった。

迷っているのだと、その背中から容易に知れる。

けれど随分経ってから賀茂の口からこぼれたのは先程と寸分たがわぬきっぱりとした断り
だった。


「やっぱりダメだ、キミと一緒には住めない」
「なんで? 検非違使風情と一緒に住んでるなんて知れたら外聞が悪いから嫌なのか?」
「―そんなこと思うわけが無い」


そもそもそんなことを気にするくらいならばこうして交わったりするものかと言う言葉に心な
し赤くなる。


「じゃあ、なんでだよ」

煮え切らない賀茂の態度に焦れたおれは、夜具から起き出すとそろそろと手を伸ばし、座
っている賀茂の足首に指で触れた。


賀茂は一瞬ぴくりと震え、でも先程のようにははね除けなかった。

「なあ、賀茂」

ぎゅっと握ると握りきれてしまうほど細い足首。

ああ、足首が細いと締りがいいって言うのは男女を問わずに本当なんだなとおれは賀茂の
足に触れながら、場違いなことを思ったりした。


「……………だ」
「え?」


薄闇の中、ふいにぽつりと賀茂の声が響いた。

「……は…………い」

でもその声はあまりに小さく、くぐもっているようでわからない。

「今、なんて言った?」

よく聞こえなかったと催促したら賀茂はまた長い間沈黙して、それから今度は先程より少し
だけ大きな声で言ったのだった。


「キミが…来なくなるのは寂しい…と言った」
「ええっ?」


わけがわからずに、おれは賀茂に尋ね返した。

「何…それ? 言ってる意味がわかんねーんだけど」
「だから!」


もどかしそうに言いかけ、けれどすぐに言いにくそうに賀茂は更に俯いて、それからまたぽ
つりと言った。


「こうやってキミが訪ねて来る。それを待つのがぼくは好きなんだ…」

明日は来るか、今日は来るか、時折内裏で見かける姿にそっと次の逢瀬を待つ。

来ると思えば来なくて落胆するし、来ないと思っていれば来てそれに胸溢れる程の喜びを
感じる。


「共に居れば共に居る喜びがきっとあるんだろう。でもぼくは離れているからこそ得られる
この時間を失うことが怖い」
「怖い?なんで?」
「わからないのか? キミは自分で来たいと思わなければここに来ないことも出来るんだぞ」


あっと思う。

おれが通うそれは、賀茂にとっておれが賀茂を想っている証でもあるのだ。

もし共に住むようになれば気持ちが冷めてもわからない。それが怖いと賀茂が言っている
のがわかって頬が染まった。


「笑えばいい。女々しいことを言っていると自分でもちゃんとわかっている」
「や、笑うなんて―」


むしろ自分のことを笑いたい。

こんなにも自分を好いてくれている賀茂の気持ちをほんの少しでも疑いかけた。そんな自
分を蹴り倒し、笑ってやりたい気持ちだった。


「近衛…だからキミの申し出が嬉しく無いわけでは無いのだけれど―」
「わかった」


うんと、言いながら腕を伸ばして賀茂を背中から抱きしめる。

賀茂は驚いたように一瞬足掻いて、でもすぐにされるまま大人しくなった。

「ごめんな。ありがとう賀茂」

耳元に囁くと賀茂の柔らかい耳朶がみるみる真っ赤に染まって行くのが見えた。

耳だけでは無い、項も背中もいつのまにか桜貝の色に染まっている。

「賀茂?」
「…情けない。こんな…」


誰かを好きになるだけでこんなにみっともなくなれるなんてと、賀茂は絞り出すように言っ
てから、いきなりおれを振り返った。


その顔はやはり耳朶や項と同じように染まっていて、でもその瞳はびっくりするほど真剣
に、精一杯おれを睨んでいた。


「だから、これからもキミはぼくの屋敷に通って来い」
「うん」
「昼でも夜でも、いつでもキミが来たい時に来てくれて構わない。だから…」


絶対に来るんだと命令口調で言ってから唐突に糸が切れたかのように声と瞳から力が抜
ける。


「もちろん、キミがそう望むなら…だけれど」
「望まないわけ無いじゃん!」


再び目を逸らし、俯いて逃げようとするその顔の顎を掴んでこちらを向かせる。

賀茂の顔は怒っているような、戸惑っているような、それでいて泣き出しそうなそんな様々
な感情が入り乱れていた。


困ったような、嬉しそうなような、けれど同時に恥じ入っているような。でも底にあるのは間
違い無いおれへの深い愛情だった。


「これからも来る。賀茂の所に通って来るよ」

引っ越して来られないのは残念だけど、こんなふうに賀茂が可愛くおれを待ってくれるなら
おれもその方がずっと良いと言ったら賀茂の眉ねが寄ったけれど、おれは構わずにその
唇に唇を重ねた。


瞬間、賀茂はやはり少しだけおれの腕の中で藻掻いたけれど、触れたらもう後はされるま
まで、絡めた舌にも舌で応えた。


甘く、体の芯までが痺れそうな口づけ。

なるほどこれはたまの逢瀬だからこそ味わえるものなのかもしれない。

恋しくて、恋しくて焦がれる程に想うからこそ、より相手がいとおしく思える。

「賀茂、好き、大好き」
「うるさい、黙れ」


言いながらそれでも、もう顔は背けない。

潤んだような賀茂の瞳を見つめながら、こんな顔を見られるならば離れて暮して幾らでも
通うさと、まだ少しだけ未練が残る引っ越しを頭の隅に追いやって、おれは与えられた愛
情という名の美酒を心ゆくまで味わうために、何度も何度も息が止まるほどに長く、深い
口づけを賀茂と交わしたのだった。

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※222222番のキリ番を踏んでくださったマルメさんからのリクエスト「コノカモで引っ越し」でした。
色々パターンを考えたのですが、この二人は一緒に住まない方がいいような気がして通い婚にしてみました。
マルメさん素敵なリクをありがとうございました。ちょびっとでも気に入っていただけたなら嬉しいです(汗)
2009.6.22 しょうこ