引紐
起こさないように静かに抜けだしたつもりだったのに、布団から出る足にそっと賀茂の指 がかけられた。 「どこに行く? …近衛」 朝というにはまだ随分早い。ほの見える空の色は暗くて、漂う空気もひんやりと湿って冷 たかった。 「ごめん、おれ今日は清掃の仕事があるからもう行かなくちゃなんだ」 だからおまえはまだ寝ていてと言う言葉に微かに頷く。 本来賀茂は早起きで、このくらいの時間には起きているのが常だったけれど、今日はし たくてもそうできない。体が辛くて動けないのだ。 「無理させちゃってごめんな」 屈み込み、近衛がそっと頭を撫でると不機嫌な声が「無理なんかしていない」とぽつりと 言った。 「謝られる覚えも無い。だからキミはさっさと仕事に行けばいい」 素っ気ないことこの上無い。 とても夕べ愛し合い、息を乱して抱き合った相手とは思えないような冷たさだった。 けれど近衛はそんな賀茂に腹を立てる風でも無く、ただ苦笑したように笑うと二度、三度 と重ねて優しく賀茂の頭を撫でた。 言葉と気持ちが一致しない、素直では無い賀茂の性質を誰よりもよく知っていたからだ。 「うん、行く。都の安全を護るのがおれの仕事だもの」 そして立ち上がると、周囲に脱ぎ散らかした装束を拾い上げ、ゆっくりと着替え始めた。 検非違使の仕事は主に都の警護だが、穢れを払うという意味で、早朝から都の清掃を 行うこともよくあった。 それは獣の死骸など、触れれば穢れがうつるものから人々を護るためで、皆が歩き出 すよりも先に片付けてしまわなければいけなかったからだ。 「おれ、たぶん今日はもう来られないと思うけど、明日はまた会いに来るから」 布団の中、寝そべっている賀茂は目を閉じていて返事をしない。 眠ってしまったのだろうと思った近衛はそれ以上話しかけず、黙々と一人着替えを続け た。 指貫を履き、狩衣を羽織り、帯を結んで前をたくり上げる。いつも、いつものことである が、装束をつけると気持ちもきゅっと引き締まる。 「それじゃ、行ってくるな」 今一度出かける前にと、近衛は屈み込んで賀茂の頬にそっと触れた。けれど賀茂は目 を開かず、本当に寝てしまったのだなと近衛は少しだけ寂しく思いながら、その安らか な寝顔に口づけた。 そしてくるりと身を翻して出て行こうとしたのだけれど、何故か足が止まってしまった。 何かに裾が引っかかったようで、くんと前のめりになったのだ。 「え?」 振り返って足元を見た近衛は驚いて目を見開いた。布団から伸ばされた細く白い手が、 しっかりと狩衣の裾を掴んでいるのを見つけたからだ。 「賀茂―」 呼んでも賀茂は目を開かない。けれどその白い頬は近衛の目の前でゆっくりと静かに赤 く染まっていった。 (あんなに素っ気なかったのに) やっぱりあれは本音では無かった。心では行かないでくれと願っていたのだと、そう思っ たらいじらしさで胸が痛んだ。 本当に賀茂は素直では無い。 意地っ張りで頑なで死にものぐるいで心の内を隠そうとする。 (でも可愛い) そういう賀茂が可愛くて愛しいと近衛は思った。 「―明日来るよ、絶対。だから待ってて」 おまえもおれのこと待っていてと屈み込み、握っている指をそっとほどく。 「寄り道も何もしないで真っ直ぐにおまえの所に戻って来るから」 だからと、それでもまだ言い足りない言葉を必死で探す近衛に、布団の中の賀茂がぽつ りと言った。 「―うん」 うん、待っているよと、キミのことだけを待っているからと、それは近衛が初めて聞く、冷 たさのカケラも無い愛情に満ちあふれた言葉だった。 「う――うん。待ってて!」 カーッと顔が赤く染まる。 近衛はうわずった声で「行ってきます」と叫ぶと、逃げるように賀茂の屋敷を飛び出した。 そして朝靄の中を飛ぶような速さで歩きながら、時々ふと反芻するように賀茂の言葉を 思い返しては幸福な笑みをその顔中に浮かべたのだった。 ![]() |