春のかたみ



水盤が揺れただけで心が揺れる。

ほんの少しの凶兆も見たく無くて未来を映す目を瞑る。


「…だから出会いたくなんか無かったんだ」

賀茂は小さく溜息をつくと濡れた袖に顔を顰め、それからそれを潔く脱ぎ捨てた。

『賀茂様?』

問うように声をかける式神に素っ気なく賀茂は「片付けておいて」と言う。

「清めて来る」

朝も早く、日も昇らぬ内から冷たい水で清めた賀茂は、まだ温みもしないその水に再び身を沈めに
行った。


屋敷の奥、水垢離のためのその部屋には地中深くから涌いて出た泉がある。

夏でもひんやりとするその水は、春の声を聞いた今でもまだ手足が痺れる程に冷たい。

「…破邪」

年の頃、十四、十五の幼さの残る顔で賀茂が勤めるのは陰陽で、都のために祓い祈ることを生業と
している。


整った美しい顔と、それを縁取る肩で切りそろえた黒い髪は、女の童(めのわらわ)のようだとよく言
われるが、眼差しはとても厳しい。


鋭くて先の先まで見通せるかのような聡明さに満ちている。

「うごなはりはべるみこたち、おほきみたち」

ぶつぶつと呟いているのは清めのための祝詞で、体だけでは無く、心に染みついた邪念を払おうとし
ているのだ。


「たかまのはらにかむづまります、すめむつかみろぎかむろみのみこともちて」

静かな部屋に賀茂の小さな声だけが響く。

「くにつつみと、いきはだたち、しにはだたち、しろひと、こくみ、おのがははおかせるつみ、おのがこお
かせるつみ」


そして一つ息を吸い込むと、吐き出すのと同時に言った。

「―はらへやれとのる」

ざぶりと音をたてて泉から上がる。

ぽたぽたと滴る滴は辺りを濡らし、けれど賀茂は気にしない。そのままその体で廊下に出ると元居た
部屋へと歩いて行った。


「さて、今一度水盤に問うてみようか」

しなければならないことは都貴族の婚姻の吉凶。

凶ならば祓うべきことと方角を。吉ならば結ばれるべき良き日を計る。

新しい着物に手を通し、けれどきちんとは着ずに水盤に向かう。

「たかあまはらにかむづまります―」

唇を開き、ゆっくりと唱え始めたその時に、ふいにからりと奥戸が開く音がした。

「賀茂」

呼ぶ声と、返事も待たずに近付いて来る足音に賀茂はきゅっと唇を引き結ぶと、水盤の前から退いた。

程無くして目の前の戸が開き、狩衣の若者が顔を覗かせた。

「賀茂―と、悪い。何かやっている所だった?」

若者は近衛光。都の検非違使である。

賀茂が唯一人心を許し、傍らに居ることを許す―恋人であった。

「ごめん、本当に。でもすんなり入れちゃったし、式も誰も止めないし」

だからいいのかと思って入って来てしまったのだと、慌てて閉めた戸の向こうでしきりに謝る。

「止めなかった? 誰も?」

「うん。どっちかって言うと、入れ入れって感じでさあ」

賀茂は大きく溜息をついた。

式神は賀茂の言うことを聞く使い魔であるけれど、それ故に主の気持ちを汲み取ることに長けている。

さっき賀茂は呪いの途中で雑念が入り、うっかり恋人の凶兆を読んでしまった。

都、強いては帝のために占うのが定めの身であるのに、どうしても心乱れ、会いたいと強く願ってしま
ったのだ。


(だから…清めたのに)

それでもまだ心の奥底では振り切ることが出来なかったらしい。式神はそんな賀茂の気持ちを察して近
衛を屋敷に招き入れたのだ。


「いいよ、もう。どのみち今日はまともに視ることは出来そうに無いから」

こんなに散り散りになってしまった気持ちをどうして元のように集められようか。

「怒ってる?」

そろそろと戸を開けて再び近衛が顔を覗かせる。少年ぽい顔つきではあるが、毒の無い顔つきに似合
わず、検非違使の中では腕がたつことで知られている。


「怒っているよ、当たり前だろう」

後で式神によく言い含めなければと思いつつ、けれど賀茂は自分が心の内では怒っていないことに気
がついていた。


良かったと。

近衛が来てくれて良かったと、ほっとしている自分が居る。

「…キミは明日、お勤めがあるの?」

「あるよ。藤原様に付き添って、吉野の方まで行くことになってる」

泊りになるかもしれないし、場合によってはしばらく帰れないかもしれない。だからその前に会いに来た
んだと言う近衛に賀茂はそっと目を伏せた。


「もし…」

「ん?」

「もしも明日、川に着く前に行く手を遮る黒い鳥を見たら迷わず切れ」

硬くなる声に我知らず肩を抱く。

「賀茂?」

「何も聞くな、何も言うな。でも絶対に約束してくれ。もしも明日、黒い大きな鳥に会ったら、躊躇わずに
それを切り捨てると」


近衛は少し驚いたような顔で賀茂を見ていたけれど、やがてすぐに真面目な顔になって静かに部屋に
入って来た。


「…おまえ、もしかして」

賀茂はけれど近衛を見ない。頑なに拒むように俯いて繰り返す。

「約束してくれ、頼むから」

「…うん」

近衛は賀茂の前に座ると、そっと指で触れてから賀茂の体を抱き寄せた。

「約束する。解った」

絶対におまえの言った通りにすると。その言葉に強ばっていた賀茂の体から力が抜ける。

「ごめんな」

「何が?」

「おれ、おまえに心配ばっかりかけてるんだな」

本当にごめんなと優しく背中を撫でられて、賀茂は危うく泣きそうになった。

「…別にぼくは心配なんかしていない」

「うん、うん、そうだな」

陰陽師が己が為に力を使うことは道に外れる。

視てはいけない。もし視ても決して何もしてはならない。

破ったことが知られれば死罪にもなる禁忌を賀茂はもう何度、近衛のために犯したことか。そして、そ
のことを近衛もまた、充分に理解していた。


「それでもおれ、絶対にヘマなんかしないから。ちゃんと元気でおまえの所に帰って来るから」

「当たり前だ」

短く言って賀茂は近衛の胸に顔を埋めた。

「台無しだ」

「何が?」

「全部」

キミと出会ったことでぼくの全ては滅茶苦茶だと言う言葉に近衛はゆっくりと尋ねた。

「だったらおれと―」

「出来ない」

もう出会ってしまったのだからそれは無理だと言う賀茂を近衛は強く抱きしめた。

伝わって来るぬくもりに、たまらず賀茂も近衛を抱き返す。

「絶対に…絶対に生きてぼくの元へ戻って来い。いつだって、どんな時だって、絶対にキミはぼくの元
へ」


帰って来なくちゃダメだと言う言葉に近衛は頷いた。

「――うん」


揺れる水盤。

先を見通す呪いは、見たく無い物も時に瞳に映し出す。

いつか不吉な黒い鳥が賀茂の腕から近衛を奪う日が来るかもしれない。そう考えるだけで身が凍え
た。


(もしも)

もしも、もしも、もしも。

出会わなければきっと楽に生きられた。

けれどその人生はどんなにか、味気なくつまらないものだっただろう。

近衛の居ない世界は賀茂にとって何の意味も価値も無い。近衛と出会って初めて、賀茂は生きるこ
との喜びを知ったのだから。


だから―。

(禁忌を破ることなんか怖く無い)

手も足も体も切り刻まれても構わない。いつかどんな罪でも、どんな罰でも受ける覚悟はとうにしてい
た。


「守るよ―キミを」

「おれもお前を絶対守る」

「…うん」

「命かけて絶対守るから」

愛し愛されることの幸せ。

耳元で近衛が言う言葉に頷きながら、賀茂はこのまま闇に堕ちたとしても構わないと思った。


※ひたむき賀茂。2011.3.23 しょうこ