禁呪
私心で占うことはいけない。 自分の力は都の人々を守るために使うべきで、個人の感情や思惑で無駄に使ってはい けないものだと常々思っていた。 けれど夜盗の類が多く出没して、お互いに一番よく会える時刻である夜に近衛の夜警が 多く入るようになって賀茂は密かに不満だった。 全く会えないわけでは無い。 昼間でも内裏に出向く途中で市井で警備に当たる近衛の姿を見かけることはあったし、気 がついて目で笑い合うこともあった。 尤も笑いかけるのは近衛だけで賀茂は胸が膨らむほど嬉しく感じながらも形式ばった会 釈しか返すことは出来ないのだが。 けれどそんな夜が続いたある日、ふと一人の時間を持て余した賀茂は占盤を覗き見た。 それは都の未来や政に使われるような大きな物では無くて、失せ物や病の人のその伏せ る原因を探したりする時に使う小さなものだった。 「そういえば、今頃近衛は都の警備にあたっているのだったな」 いつといつといつがダメでいつになったら来られるかもしれない。そんな甚だ当てにならな い予定を近衛はこの間慌ただしく賀茂の元を訪れた時に言っていたから。 「…最近の夜盗は質が悪いと聞くけれど」 大丈夫なのかなと思いながら何気なく手が触れた。 無意識に強く心に思っていたからなのだろう、占盤は怪しく輝き、気がつけばその中に賀 茂は近衛の姿を見つけていた。 都の入り口、四条河原で同僚の検非違使と共に見回りをしている近衛の姿。 はっきり姿が見えるわけではない。 朧に、でもそこに近衛が居るということがわかるのだ。 相変わらず元気で仲間と軽口を叩いている。その楽しげな心持ちまで伝わって来て賀茂 は少々むっとした。 (ぼくと会えなくても結構楽しげに過ごしているじゃないか) 『おまえに会えない日は辛い』 会えない時間はものすごく長く感じて寂しくてたまらないと、来るたびにそう言うくせに、では それは口先だけのものだったのかと疑いたくなってしまう。 ふうと賀茂はため息をついて触れていた占盤から手を引こうとした。 「こんなものを自分の個人の感情のためだけに覗き見てしまったからいけなかったんだ」 もう二度と自分のためには使うまいと心に決めた時だった。ふと占盤の上に違う景色が映 って見えた。 それはたった今見た景色と似てはいたが、近衛の隣に居る人物が違う。よく見れば近衛の 衣装も微妙に違っていて、翌日の景色だろうかと賀茂は思った。 (珍しいな、真剣に占おうと思って見たわけでは無いのに) こう幾つもの景色が見えることは滅多に無い。それほど自分は近衛に執着しているのかと 思ったら賀茂は苦笑してしまったのだが、次の瞬間はっと息を飲んだ。 景色は急にがらりと変わり、近衛が誰かを追いかけている映像に変わったからだ。 「これは―」 今都で噂になっている夜盗だと、思った時に近衛の後ろから近づく大きな影が見えた。 「近衛!」 ばっさりと背中から斬られて道に倒れる。その背中に更に何度も刃が突き立てられるのを 見て賀茂の顔色は紙よりも真っ白になった。 「近衛が―死ぬ」 自分は今恋人が死ぬ未来を見たのだと思った瞬間に、賀茂は立ち上がって湯殿に歩いて 行った。そして沸かしてもいない水を瓶から掬うと容赦なく頭から被った。 何度も、何度も凍える程冷たい水を浴びて、それからそれを拭きもせずに部屋に戻る。 そして息を整えると呪文を唱えた。 「祓戸の大神に申し奉る―――」 唱え終わると、じっと先程のようなのぞき見では無く真剣に占盤を見つめた。 そして半時ほどの後に、近衛が襲われるのは明日の子の刻、場所は朱雀大路の西寺の 近くであることがわかった。 「どうしよう…」 依頼されたものならば賀茂はすぐにでもその厄災を伝えただろう。けれどこれは全くの私 事で自分のために占盤を使って占ったものだった。 陰陽師が私心で術を使ってはいけない。それは賀茂がずっと固く心に誓って来たことだっ た。 増してやこんな情に突き動かされるようなことは―。 そして占いは必ずしも当たるとは限らない。ほんの僅かな出来事から、くるくると変わること もあるからだ。 でも殊、これに関して賀茂は外れるとは思わなかった。自分の近衛への執着が見せたも のならば尚更外すようなことは無いだろう。 けれどそれを伝えることは己の誓いを破ることにもなる。ただ胸に誓ったならばいいけれ ど、賀茂とて人である。万一それを自身で破った時にはそれ相応の『返し』が来るように自 らを戒めるために呪をかけてもあったのだ。 陰陽の術を全て失うかもしれない程のそれは強い呪だった。 (刺される所を見ただけだ) 近衛は死なないかもしれない。 (けれど死ぬかもしれないんだ――) 自分に唯一垣を作らずに近づいて来て、こんな頑なな自分を酔狂にも好きで好きでたまら ないと言う。 もし近衛がこの世からいなくなるようなことがあれば賀茂は自分も生きていられないと思 う。 けれど自らの力を全て失えば京の都を守ることは出来なくなる。 「どうしよう…」 どうしたらいい? 陰陽師としての賀茂の答は決まっていた。そして一人の人間としての賀茂の心は揺れて いた。 「近衛―」 どうして自分は心の内にあの男を入れてしまったのかと、今更思っても仕方の無いことを 賀茂はひたすら自問し続けたのだった。 翌日、賀茂は内裏に出向く用事があった。 いつもならまっすぐに寄り道もせずに行く所をわざと遠回りをして近衛が警備で歩いている 付近を歩いて向かう。 予想していた通りにやがて賀茂は近衛の姿を見つけ、近衛も同時に賀茂の姿を見つけて 手を振った。 「賀茂ーっ!」 にっこりと笑う嬉しそうな笑顔に、賀茂は自分が無意識に微笑んでいることに気がついた。 「なんだおまえ今日は出仕の日だったのか」 「ああ、色々最近物騒なことが多いみたいだからね」 「そうなんだよな、おれも…だからここの所出ずっぱりで」 正直ちょっと眠いんだと苦笑する近衛に賀茂は笑った。 「そんなことでは街の平和は守ることは出来ないぞ」 「わかってるって、そんなん」 でも本当のことを言えば早くこの夜盗騒ぎが収っておまえの所に行きたいなと、こそっと耳 打ちされて賀茂は赤くなった。 「こんな所で邪なことを耳に吹き入れるな!」 「邪じゃないよ。純粋にただおまえのことが好――」 他にも居る検非違使の手前、賀茂は思い切り近衛の足を踏みつけて黙らせた。 「くだらないことを言ってないで早く自分の仕事に戻った方がいい」 「わかってるよ。ちぇっ。久しぶりに会ったのに素っ気ないなぁ」 「素っ気なくて結構。ぼくがキミにしなしなとしなだれかかるようなことがあれば、それは天 変地異の起こる前触れだからね」 そしていつまでもぐずぐずと離れたがらない近衛の背中をぐいと押して引き離すと、自分は 内裏へと向かったのだった。 そして夜。 陰陽寮の中で一人、賀茂は占盤を見つめつつじっと座っていた。 (今夜近衛は夜盗に刺される) そして自分はさっきそれを告げなかった。もし未来を知っていたのにそれを教えなかった と知ったら、近衛は自分の冷たさに心離れてしまうかもしれない。 「でも仕方無い。ぼくは一人のために生きているわけでは無いのだから」 そしてそっと優しく占盤の表に手を置いた。間もなく子の刻が訪れる。 起こる全てのことを自分はこれから見守らなければいけないのだった。 占盤に映し出されたのは昨夜見たのと全く変わらぬ映像だった。 寒くなったからだろう。着ている物は少しだけ厚物になっていて、その色柄は夕べ見たもの と同じだった。 (やはり) やはり見たのは未来であったかと賀茂は深くため息をつく。 検非違使仲間だっただろうか、加賀とか言う者と談笑した後、近衛は一人別れて朱雀大路 に向かって行った。 そして西寺の近くで門を乗り越えようとしている人影を見つけたのだった。 ぴぃっと高く呼び子を鳴らし、それから近衛は人影を追った。大路を近衛は熟知している。 やがて一画に追いつめたかと思った時に背後にゆらりと大きな影が迫った。 「近衛!」 二度目であるにもかかわらず、近衛が刺された瞬間、賀茂は大きく叫んで立ち上がってい た。 膝に乗せていた占盤も床に落ち、大きな音をたてる。 「いかがなされましたか?」 物音に気がついた女房が戸の向こうから声をかけるのを賀茂は震えを押さえながら必死 で言った。 「なんでも無い。足元を鼠が通ったまでのこと」 つまらないことで騒がして申し訳無かったと告げると女房はそのまま静かに去って行った。 (近衛…ああ) 昨日見た通りなら、背後から近づいて来たもう一人に近衛はメッタ刺しにされる。 そしてそれが当たっていたならば間もなくそれがわかるだろうと、賀茂は息を整えるとまだ 青白い顔色で占盤を拾うこともせず床にじっと座ったのだった。 やがて、ざわっと遠くから騒がしい音が聞こえて来た。 夜更けであるにもかかわらず、一向に鎮まる気配の無いその騒がしさに、眠っていただろ うあちこちの部屋に灯りが灯り、やがて様子を見に行った女房の一人が賀茂の所にも告 げに来た。 「夜盗が掴まったそうにございます」 最近都を騒がし続けていた夜盗の一味が検非違使の力で掴まったのだと。 「でも…怪我人が出たようです。それで…こんな夜更けに申し訳の無いことですが、賀茂様 にその者を診ていただけないかという話なのですが」 検非違使風情、別に賀茂が嫌ならば断っても良いという含みがあったが、賀茂は即座にこ う言った。 「通してください。ぼくは別に構わないから」 「承知致しました」 怪我人は若者で、一人きりだと言う。 誰と聞くまでも無い、近衛だとわかっているので、賀茂は近衛が運ばれて来るのを待つの が苦しかった。 そして――。 「ごめん、夜なのに迷惑かけるな」 程なくして御簾をめくりあげるようにして賀茂の元へやって来たのは、誰あろう近衛光その 人だった。 「…捕り物があったそうだね」 「ああ、夜盗が西寺に入り込んで盗みを働いててさ、もう少しで逃げられそうになったんだ けど、なんとか無事に捕まえられた」 にこやかに言う近衛は、けれど狩衣のあちこちが刀傷で破れている。切っ先一枚で避けた のがわかる物で、賀茂は内心ひやりとした。 「それで…傷は?」 「これ、ちょっと最後でしくじっちゃって」 そう言って近衛が賀茂に見せたのは左腕で、袖をめくりあげた腕には結構深く刀傷がつい ていた。 「これは…非道い」 「まあ…でもこれくらいなら結構よくあることだから」 よくあることなのかとそれに驚きつつ、でも賀茂は黙って治療のための薬草と、そしてまず 傷口を洗うための湯を用意した。 「痛みは無いのか?」 「んー…痛い」 「そうなのか、あまり痛そうな顔をしていないから痛みを感じていないのかと思った」 「おれだって斬られたらそりゃ痛いよ」 苦笑しつつ言う近衛は、でも怪我を負った割には機嫌が良かった。 「なんだ?」 そっと傷口を湯で洗ってやっている賀茂の顔を近衛はにこにこと嬉しそうに見つめている。 「いや、別になんでもないんだけどさ」 おれ今日変なもの見たんだと、ぽつりと近衛は語り出した。 「西寺の所で夜盗を見かけたって言っただろう? それで追いかけて行ったんだけどさ」 意外に足が速くて一瞬その姿を見失った。けれど幾つか角を曲がり当たりをつけた場所で 近衛は妙なものを見たのだと言った。 「妙なもの?」 「うん、おれ自身」 近衛が見たのは自分より前を走る自分自身の姿で、そのもう一人の自分は上手いこと夜 盗を隅にと追いつめた。 「それで、どう見てもそれおれなんだけどさ。ああおれに手柄を持って行かれちゃうって馬 鹿なことを考えていたら」 ふいに現われたもう一人の夜盗に、そのもう一人の自分は斬られてしまったのだと。 「もう背中からばっさり。その上その後メッタ刺しにされてるしさー」 いくら自分によく似た誰かだと思っても気持ちの良いものでは無かったと近衛は言った。 「でもまあ、それで相手も油断していたから、そこで追いついてなんとか二人捕まえたんだ けど」 「へえ、それは良かったね」 「よくねーよ、だってその後、斬られたおれのそっくりさんは消えちゃったんだから」 近衛が吹いた笛の音でようやく検非違使仲間が集まって来た時には、倒れていたその姿 がかき消すように消えていたと―――。 「でさ、ようく見たらそいつが倒れていた当たりに髪が一本落ちてたんだ」 「へえ…」 不思議なこともあるものだねと言う賀茂に、近衛は顔色を窺うように見つめながら言葉を 続けた。 「そういうの…陰陽師がよく使うよな」 傷を洗い終わり、今度は薬湯で洗っていた賀茂は近衛の問いに応えずに、黙って傷口を 拭くと清潔な布で傷口を巻いた。 「はい、出来た。当分湯浴みはしない方がいいよ」 「って、おれに言いたいことそれだけ?」 「他に何が?」 「なんで今日の昼、わざわざ遠回りをしておれに会いに来たのかとかさ、あの時に髪の毛 一本持って行ったんじゃないかとかさ」 おれに言いたいことが何かあるんじゃないかと、重ねて聞く近衛の言葉を賀茂は無視した。 「さ、それじゃ薬茶を飲んで休むといい。今日はぼくしか居ないから詰め所に戻らず、ここに 泊って行っていいよ。キミは大活躍をしてとても疲れているみたいだから」 「あのさー」 「ぼくは宮廷仕えの陰陽師だよ? 帝や都の人々のために力を使うことはあっても自分自 身のために力を使うことなんか無い」 「そうか…」 近衛はふっと笑うと賀茂が手当してくれた傷を見た。 「そうだよな、天下の賀茂明がおれなんかのために術を使ったりはしないか」 「当たり前だろう」 そう言った時、賀茂の表情がほんの一瞬だけ引きつれたのを近衛は見逃さなかった。 「うん、そうだよな、当たり前だよな」 でもありがとうと、嬉しそうな笑みに賀茂の顔が赤く染まる。 「だからぼくは…」 「わかってるって! でもありがとう」 それくらい言わせてくれても良いだろうと重ねて言って、傷ついていない方の手で賀茂の手 に触れる。 賀茂の手は冷たくてまだ細かに震えていて、術以上に心の動揺が大きかったことを物語っ ていた。 恋人を失いたくない気持ち。 陰陽師としての自分の立場。 その間でどれだけ苦しんだことだろうか? 「あのさ……」 じっと、まだ青い顔をしたままじっと自分を見つめる賀茂に近衛は、ねだるように言った。 「今日おまえと手ぇ繋いで寝てもいい?」 「え?」 「もちろん怪我していない方の手にするから」 「なんでそうなるんだ?」 「うーん、よくわからないけど、取りあえずおれ刀で切られる程大怪我して大活躍したんだ し、それくらいご褒美を貰ってもいいんじゃないかなって」 「ご褒美だったら、後に特別に禄が出るだろうに…」 「おれにはいいの。こっちのが絶対断然いい」 それに手を繋いで寝た方が怪我の治りも早いような気がするしと言う近衛の言葉に、しか つめらしい顔をしていた賀茂もとうとう笑った。 「繋ぐのは逆の手だろう」 「それでも! 何らかの御利益はあるよ」 賀茂大明神様と、笑いながら言う近衛に賀茂もそれ以上文句は言わず、結局二人は小さ な子どものように手と手をしっかりと握りあって寝床に就いた。 (本当はぼくのためだったくせに) 不安のあまり血の気の失せた自分の手を温めるために、きっとたぶん近衛は言った。 そして動揺した気持ちを静めるためにも近衛はそう戯れ言のようにうそぶいて言ったのだ ろう。 おまえと手を繋いで寝てもいいか―――と。 (温かい) ぼんやりとまどろみにおちかけながら賀茂は思った。 (近衛の手はどうしてこんなに温かいんだろう) それは心が温かいからだと、人によってはそれを逆だと言う者も居るけれど、近衛に関し てだけは心の優しさ温かさが温もりとなって手に表れていると賀茂は思う。 (よかった………禁を破っても近衛を助けて) 幸せな気持ちで眠りに落ちる。 それから後、賀茂はさっそく自分でかけた呪の返しが来てしばらくの間まともに食べること も寝ることも出来なくなってしまったのだが、幸いなことには術を使えなくなるようにはならな かった。 そしてその辛い間ずっと、愛する人を守ったという幸福な気持ちで縛られて、賀茂は苦しみ を苦しいとすら感じることは無かったのだった。 |