禁忌鏡



物心ついた時、もう『親』という存在は側には無くて、人里離れた屋敷の奥で、世話をする何人かの
女房と共にぼくは暮らしていた。


今から思えばたぶんその女房達もぼくのことが恐ろしかったのだろう、必要最低限接するのみで、
後は放って置かれたような気がする。


だから最初に覚えたことは屋敷の梁を駆け回るネズミを捕らえて話をしたり、庭に舞い降りて来た
小鳥に粟をやる代わりに遊んでもらうといったことだった。


『友達』は、目に見えるものばかりでは無く、風に乗って来る者、花の影に潜む者も居た。己の影の
中に潜んで居た者と追いかけっこをしたこともある。


『ほら、気味の悪い。またああやって誰も居ない所で一人で話をして』

ひそひそと壁の向こうで女房達が話している声が、どうしてこんなにはっきり聞こえるのだろうかと
いうことすらぼくは長い間、疑問も何も思わなかった。


だってそれが日常だったから。

生まれた時からずっとそうだったものをどうして不思議と思うだろう。



『明様、今日からお勉強の先生がいらっしゃいますので』

しっかりとその方の言うことを聞いて学んで下さいと、ある朝唐突に言われてからは、その日常の中
に陰陽の勉学も混ざるようになった。


師となったのは老齢の陰陽師で、決して愛想の良い人では無かったが、少なくとも女房達よりはぼ
くのことを気にかけてくれたように思う。


『いいですか、これから学ぶことで一番大切なことは、覚え、出来るようになったことを決して己のた
めには使わぬということです』


返して言えば、使うことは許されないということだった。

『どうしてですか? 未来のことが解ったり、魔を払えるのは素晴らしいことでは無いですか』

まだ子どもだったぼくは、どうして己が出来ることを己のためにしてはいけないのかが理解出来な
くて師に尋ねた。


『明殿、私達が持って生まれた力は己のために在るわけでは無い』

人を助け、人々の暮らしの救いとなるために天から借り受けた力なのだから、私利に使うことは天
に背くことになるのだと、噛んで含めるようにして師は言った。


『それにもし、背いて自分のために使うようなことがあればその時から力は濁りまする』

良き力は悪しき力へ。

清んだ力は汚れた力へと。

水盤に落とした墨のようにそれは一瞬で広がって、二度と清くは戻らない。

だから決して己のために使わぬようにとぼくは師に誓わされた。

齢十にもならぬ頃。

師は八十を超していた。

『動物たちと言葉を交わすのは構いません、やがて式として使う時に役に立ちます故』

姿の無い者達を見るのも言葉を交わすのも悪いことでは無い。けれど決して遊んではならぬと、こ
れもキツく躾られた。


『彼奴等は大抵は害の無いものですが、時に命に関わる程害のあるものも在りますのでな』

心を交わすなら獣とだけしろと、その時の師の声音には厳しい中に一抹の不憫さが混ざっていた
ようにも思う。


『わかりました』

けれど幼い自分にそんなことが解ることも無く、ただ遊び相手が減ることを寂しく思っていた。

『明殿。あなたはこれから大きな試練に耐えなければならない時が来る』

『都で帝のために尽くす時にですか?』

『いや、それも大業ではあるが、もっと違う形でそれは来る』

陰陽師は孤独でなければならぬ。そう生きるのが運命で、家族や慈しみを持つ者を側に置いて
生きることは許されないと。


『大丈夫です。ぼくは生まれた時から家族はいませんし』

ずっと一人だったのだから今更一人を孤独に思うことがあるはずも無いと。

師はたぶん苦笑していただろう。己が弟子のあまりの幼さに。

『それでも、覚えておきなされ。陰陽の道を歩く者は決して人の情や温もりを欲してはいけないと』

『はい―』

それから何年が経つだろう。

老いた師はとうにこの世の人で無く、ぼく自身も田舎の屋敷から都に呼ばれ、帝に仕えるように
なっている。


『ほら、あれが賀茂様よ』

『なんでも側に寄るだけで浅薄な者は心の奥底まで見透かされてしまうとか』

『恐ろしや』

あな恐ろしやと、ひそひそ声がすることだけは田舎と変わらず、けれどただ一つ変わったことは
遠慮無くずかずかと近づいて来る者が出来たということだった。


「賀茂、今日おまえの屋敷に行っていい?」

時折顔を合わせる検非違使は、ぼくがどんなに邪険に扱ってもへこたれることなく話しかけて来
る。


「今日なんて、そんな急に言われてもわからない。もし上からの頼まれ事があればそれをしなけ
ればならないし」


「その時はその時でいいよ。今日は満月になるって言うからさ、一緒に李でも食いながら月見を
しよう」


ただ一度共に都を守るために戦った、検非違使の名は近衛光という。

子どものような無邪気な顔とそれに似合わぬ腕っ節が有名で、その才を見込まれて貴族の警
護につくことも多い。


「な、いいだろ?」

「別に―でも、ぼくはキミをまたないよ。勝手に来て勝手に帰ればいい」

「うん、充分。それでいいよ」

そしてぱっとまた駆けて行く。

駒鳥のようだなとちらりと思い、それから野を駆ける駿馬のようだと思い直した。

どちらも生き生きと風をきって走る。

人懐こいのはいいことだが、自分にはそれは騒々しくて鬱陶しいと、それ以上を考えそうになる
己の心に蓋をして暮らした。


けれど――。



『賀茂様、近衛殿が橋の袂で妖に切られ、川に落とされました』

在る夜、慌てたように式神が伝えて来た時、ぼくは血の気を失った。

『かなり深手を負っておられます。このまま流されては命が危ういかもしれませぬ』

そう言われた時、ぼくは迷い無く水盤に向かった。

己が心を映し出し、望む彼方を見ることが出来る力。

それを己のために使おうとしたのは初めてだった。

『よろしいのですか、賀茂様』

ちょろちょろと足元を走る式神が叫ぶ。

『それは禁忌になりやしませぬか』

「構わない――」

もしそれで濁り、堕ちて行くならばそれでもぼくは後悔はしないよと、気迫に押されて小さい声
はぴたりと止んだ。


(近衛…どうか死なないで欲しい)

どうか、どうか、ぼくを置いて逝かないで。

こんなに必死に何かを思うのは生まれて初めてのことだった。

「近衛を…連れて来る。だから皆はすぐに部屋から出てくれ」

気に当てられて散るやもしれぬと、それで走り回る影すらも全て消えた。

しんとした部屋の中、ただ一心に彼の人を思い、呪いを口にする。

師に禁じられた、決してしてはならぬということ。

『己の私利のために力を使う』

間違った使い方をすればそれは全て自分に返る。

煉獄の鬼にもなりましょうぞと、師の声は今も耳に残っているけれど。

(それでもいい。そのために罰を受けて堕ちることになっても)

今はただ水盤の向こうに映る影を救いたかった。

更にひとこと口の中で呪いを唱えると、りんと、水盤の縁の石が震え、水面にゆらりと影が映
った。


その瞬間を逃さず水の中に手を入れて、流れて行く近衛の衣の襟を捕まえる。

水を吸って重い衣ごと渾身の力で引き抜いた。

「近衛―」

引き出されてどさりと床に倒れた近衛の体はびっしょりと濡れて死人のように冷たい。

「近衛、近衛っ」

ようやく捕まえた体に手をかけて揺さぶると、近衛はぴくりと肌を震わせた。

(息がある)

そう思った瞬間、力が抜けた。

近衛の魂はまだちゃんと体に留まっていると、そのことにぼくは心の底から安堵した。

「良かった…近衛…」

気がつけばその体を抱きしめて、ぼくはただ泣いていた。



親も居ない、兄弟も居ない。

友も、唯一居た師も今は側に居ない。

孤独を孤独とも知らずに生きた、ぼくが初めて手に入れた「失えないもの」。

この日ぼくは禁忌を犯し、そして同時に人を愛するということを生まれて初めて知ったのだ
った。





※現在マイコノカモソング「A/mnes/ia」。志方さんの声はなんとなく、あどけなさの残る賀茂ちゃんの顔が浮かびます。
2010.8.28 しょうこ