魔滅打ち
ぱらぱらと顔に当たる感触に閉じていた目を薄く開いた。
「…なに?」
驚く程間近に在る賀茂の大きな瞳に尋ねられ、近衛は苦笑したように笑った。
「なにって、それはこっちのセリフだって」
今、何したのと言いかけて、再び髪にぱらりと何かが落ち、近衛はゆっくりと顔を巡らせた。
「豆?」
賀茂の白い指が、煎った豆を握っている。
そこからこぼれ出る豆の粒が当たっていたのだと解った。
「豆は魔を払うんだ」
それだけ言って、今度は体の上にもぱらりと豆をこぼして行く。
「キミ…随分邪気の多い所に行っていたんだな」
足先まで丁寧に豆をこぼしてから、溜息のように賀茂が言った。
「うん。まあ…藤原様の御用事は、きれい事だけでは済まないものも多いから」
「そう」
まだ年若いけれど、近衛は検非違使の中で剣も弓も抜きんでて上手い。
そのために近年は、危険な仕事に駆り出されることが多くなっていた。
妖が絡むものならば賀茂も同行することが出来る―というか、賀茂の護衛に近衛が指名
されることが多いのだが、殊、人間相手では賀茂の出番はあまり無い。
夜盗に山賊、企み事によるいざこざ等々、近衛は結構な荒仕事が多いのだ。
一度、賀茂は夜更けに戻って来た近衛を見たことがある。
たまたま陰陽寮で調べ物をしていて帰りそびれてしまったのだが、突然のざわめきに何事
かと立ち上がり、渡殿に出た所で庭に立つ近衛を見つけたのだった。
内裏に侵入しようとした賊と斬り合ったのだとは後で聞いた話だが、その時は何があった
のか解らなかった。
ただ片手に相手の亡骸を引きずり、もう片方の手にだらりと刀を下げた近衛は全身生々し
く血に汚れていて、賀茂は、はっと息を飲んだ。
「近衛…」
離れていても解る、むせ返るような血の臭い。
近衛自身は怪我を負ってはいないようだったけれど、ゆらりと体から立ち上る闘気は目に
見えるように激しくて、思わず一歩退いてしまった。
鬼が居る。
自分の目の前に居る近衛は、よく見知った相手ではなく、役目のために情けを捨てた、非
情で非道な鬼だった。
「近衛」
今度は意識して、はっきりと賀茂は近衛を呼んだ。
その途端、項垂れて切っ先からこぼれる血の滴を見詰めていた近衛がぱっと顔を上げた。
「賀茂―」
瞬間、闘気がかき消えた。
「なんだ、おまえも今日居たのか」
嬉しそうに笑う。
そこに居たのはもう既に、自分が愛し自分を愛する、いつもの、ただの近衛だった。
「本当は…キミのように情の厚い人には、こういう仕事は向かないと思うのだけれど」
ぱらぱらと残った豆を最後に禊ぎのように辺りに蒔いてから、賀茂は近衛の隣に寝そべ
った。
寄り添うように身を寄せて、そっとその広い胸に指を置く。
昨夜睦み合ったそのままに、近衛も賀茂も布きれ一枚身につけてはいなくて、けれどそ
の肌の感触が互いに嬉しい。
「何? おれってそんなに信用無い?」
まだそんなに危なっかしいかなあとこぼす近衛に、賀茂がゆるりと頭を横に振る。
「信用している。今、都でキミ程に、剣も弓も使える者なんかいないもの」
「だったら―」
「でも、だから人よりもたくさんの汚れをその身に受けることになるんだ」
いつぞやの夜に見た近衛の姿を賀茂は一度たりとも忘れたことが無かった。
あんなふうに血に濡れて、近衛は日々の役目を果たしているのだと、あの日賀茂は思い
知った。
賀茂が知っている近衛は、いつもお日様の匂いがして明るかった。
情に厚くて屈託無く、涙脆くて人に優しい。
けれどあの夜は、闇をその身に纏ったかのように、深く暗く冷たかった。
心の底まで凍えそうなその姿は、闇そのものだったと言ってもいい。
「鬼になんかなっちゃいけない」
唐突な言葉に近衛が訝る。
「何言ってんの? 賀茂」
「せっかく綺麗な魂を血で汚すことなんか無いって言っているんだ」
鬼になるのはぼくだけでいいのだからと、賀茂の言葉に近衛は黙り、けれどすぐに静か
に返した。
「それは―無理だな」
胸に置かれた賀茂の指が撫でるように動くのを握り取り、近衛は優しく口づけた。
「ごめんな。いくらおまえの頼みでもそれだけは出来ない」
「近衛…」
言い返そうとする賀茂の体を抱き寄せながら言う。
「だっておれは、おまえのために生きてるんだから」
検非違使になるにあたって、近衛は殊更に高い志を持っていたわけでは無かった。
ただ体を動かせればいい。自分に出来ることがあればそれをすればいい。それくらいの気
持ちで職に就いた。
それがしっかりと物を考え、都を守ろうと心に決めたのは、その都に他ならぬ賀茂が居た
からだった。
近衛よりずっと早く、幼い頃から陰陽師としての重荷に耐えて生きて来た、賀茂明の存在
は太平な近衛の人生をがらりと変えた。
華奢な体で、たった一人で立っている。賀茂の隣に己も立ちたい。
近衛は自分の全てを賀茂にと思い願うようになったのだ。
「…確かに、そうだな。都におれの好きな人達はいるよ。あかりや、佐為や、加賀や、うん。
倉田さんも、みんなとっても好きだと思う。でもその好きとおまえへの好きは違うんだ」
生きる意味。
強くならなければと切に思う、近衛にとってのたった一つの理由。
「生きる時も死ぬ時も、おれは賀茂と一緒に居たい」
そのためだったら幾らでも汚れるし、鬼にだってなれると近衛はきっぱり言い切った。
「殺めるのが好きなわけじゃない。でももしそれがおまえに害を為すものだったら、おれは
躊躇無く切れるよ」
例えそれが、たった今挙げた人々でもと。
「でも…嫌なんだ。それは、そんなことは…ぼくが嫌だ」
「解ってる。解ってるけど変えられないから、我慢して許してな」
これはおれの我が侭だからと、宥めるように言う近衛に賀茂は言葉を返さない。
もしも―こんな生まれで無かったなら、ごく普通に穏やかに、人の殺生に関わること無く近衛
も賀茂も生きただろう。
もしも生まれた世が今でなければ、もし―。
「おまえが鬼になるなら、おれもなるよ。おまえが嫌って言ってもダメって言ってもなるから」
だから汚れる時は一緒に汚れようと、囁かれて賀茂は近衛の胸に顔を埋めた。
「…賀茂?」
細い体が震えている。
泣いているのかと軽く揺すると、くぐもった声が胸元で怒鳴った。
「泣いて無い!」
「…うん」
「ぼくは泣いてなんかいないから」
でも、顔を上げたならば、もしかして涙がこぼれてしまうかもしれない。
だから、どうかしばらくこのままで居てとすがるように言われ、近衛は愛しさに胸を突かれなが
ら、ただひたすらに優しく、賀茂の髪を指で梳いてやったのだった。
※なんか…考えた時にはほのぼのした話だったんですが、書いたらなんだか痛々しくなりました。
なんでだ?(^^;怖い近衛を書きたかったのかも。2012.2.3 節分の日に しょうこ