爛漫
「最近は賀茂殿に会っていないのですか?」 ぱちりと白石を置いた後で佐為が言う。 「うん、なんかあいつ忙しいって、最近ちっとも顔見て無い」 近衛はしばらく碁盤を睨んだ後で左スミの白石にツケた。 「賀茂殿は宮廷一の陰陽師ですからね」 色々としなければならないことが多いのでしょうと優しく微笑んで、佐為は近衛がツケた 石を挟んで来た。それに再び近衛が黒石をツケる。 「光」 やんわりと苦笑したような声が響く。 「気持ちはわかりますが、碁は石取りでは無いと何度も教えたでしょう? 攻め合いなら ば良いですが私のたった一つの白石を取ることに集中しては他が疎かになる」 もっと盤全体を見渡しなさいと言って争いから離れると右にぱちりと白石を置いた。 「ほらこれで私はあなたの右の地に分け入ってしまいました。これで黒の地は二つに細 かく分かれてしまった」 これを挽回するのは難しいですよとにこやかに言われて近衛の口が尖る。 「ちぇっ、わかってたつもりなんだけどなあ」 どうしても近衛は目先の石に目がいってしまう。 元々が検非違使という都の人々の安全を守る仕事をしているからなのかもしれない。 頭で闘うというよりもまず体が動く感じで、だからわかっていても二手、三手先を見越し た打ち方では無くて今目の前にある危機に飛びついてしまうのだ。 「そのせっかちな癖を直せば光はきっと良い打ち手になりますよ」 「そうかなあ…」 「ええ、保証します。あなたの碁はあなたの気性そのままにまっすぐで快い。しかも大胆 で潔い碁でもある」 このまま打ち続けて行けば、そう遠くなく都でも抜きんでた打ち手になれましょうと優しい 口調に近衛は照れたように笑った。 「そ、そうかな。そうしたら賀茂にも勝てるようになるかな」 「賀茂殿……」 そうですねえと佐為は言ってそのまま黙り込んでしまった。 「なんだよその沈黙は、無理ってことかよ」 「いいえ、そんなことは一言も言っていません」 「だったらなんではっきり言ってくんないんだよ」 「いえ、賀茂殿は非常に頭が良い方です。一手打つにも考えに考えてこれしか無いとい う一手を打ってくる」 「うん、そうだろうな。賀茂は」 「でもそんな考えた末の碁と、あなたの本能のままに打っている碁はどこか似ているもの があるなとそう思ったものですから」 「おれと? 賀茂の碁が?」 近衛は思わず石を置くのも忘れ、素っ頓狂な声をあげてしまった。 「ええ、真逆のようでいてある意味とても似ていると私は思います」 「ナイナイナイナイナイナイナイナイ、おれとあいつの碁が似てるなんてそんなこと絶対 無い。大体それを賀茂に言ってみろよ、いくらおまえだって怒られるぜ?」 「賀茂殿はそんなことで怒ったりしないと思いますがねぇ」 優雅に微笑みながら佐為は近衛がようやく置いた黒石を一瞥した。 「光。だから言っているじゃありませんか。左を攻められたから左、右を攻められたから 右では中央ががら空きです」 「あーっ、もう、わかってんだよ。わかってるけどどーしても放っておけなくて置いちゃうん だよ」 「…そこがあなたのこれからの課題ですねぇ」 苦笑した後佐為はぱちり白石を置いた。それは近衛が苦労して繋ごうとしていた石を見 事に分断してしまった。 「はい、これでもう碁自体は終わってしまいました。どうします?最後までやりますか?」 じっと盤面を睨み付けた近衛は、はあと大きく息を吐き出すと「いい」と言った。 「ありません」 そして悔しそうな顔で持っていた石を碁笥に戻すと大きな伸びをしたのだった。 「あーっ、悔しいっ、ちょっとは上手くなったと思ったのにな」 「上手くなりましたよ。後は短気を直すだけです」 「そうしたら賀茂にも勝てる?」 「賀茂殿とはよく打たれるのですか?」 「いや…」 仕事柄、賀茂は内裏内の陰陽寮に閉じこもっていることが多い。屋敷に居ても人から頼 まれたまじないや相談事で忙しく、それこそ護衛という口実でもなければなかなかゆっくり と話は出来ないのだ。 「私はたまに打つことがあるのですけれどね…」 「いいなあ、佐為は」 「そうですね。賀茂殿は打っていて非常に楽しい方ですし…でも」 「でも?」 「でも賀茂殿はたぶん近衛と打ちたいと思っていると思いますよ」 「ええ?」 「打たなくても会いたいと思ってらっしゃると思います。言葉には出して言ったりしないと 思いますが」 佐為の言葉に近衛は拗ねたような顔になった。 「なんだよ、賀茂ってば佐為にはそういう話もするのかよ。会いたいんだったらおれに直 接言えばいいのに―」 「いえ、私も言葉で聞いたわけではありませんよ。ただ伝わってくるのです」 ぱちりぱちりと置く石からあの方のお心が伝わって来てしまうと佐為は言って微笑んだ。 「碁にはその人の感情が表れます。賀茂殿はあまりそれを現さないようにしている方で すが、どうしても私を見ると光を思い出すのでしょうね」 置かれた石に問いかけが揺れる。 『近衛は最近どうしているんだろう』 『たまには姿を見せてくれてもいいのに―』 「言わないよ、あいつがそんなこと絶対言うわけないじゃん!」 「言ってらっしゃいましたよ。そして少しだけ私に焼き餅を妬いてもいらっしゃる」 「賀茂が焼き餅ぃぃぃぃぃ?」 最もあり得なさそうな佐為の言葉に近衛はまたもや頓狂な声をあげてしまった。 「無いって、そんなこと絶対に無い」 「そうですか? 本当に光はそう思うのですか?」 含みのある佐為の言葉に何故か頬が熱くなるのを近衛は感じた。 「無いって本当に。おれが―ってのはあるけどさ、賀茂がってのは―」 「だったら今度賀茂殿と打ってみれば良いでしょう。きっと言外の言葉が聞こえてきます よ」 そして思い出したように佐為は言った。 「そうそう、そういえば今日は賀茂殿は内裏には来ておらずに屋敷の方に居るらしいで すよ」 「なんで? 病気?」 「いえ、なんでも今日は出かけるには日が悪いとかで外出を控えられているんです」 「へえー、陰陽師って大変だなあ」 「だから光が行って相手をして差し上げればとても喜ぶと思いますよ」 「賀茂が?」 「ええ、賀茂殿が―」 光も今日はもう仕事は無いのでしょうと言われて近衛は躊躇いつつも頷いた。 「昨日、夜警だったから………」 「だったら行ってらっしゃい。そして賀茂殿の言葉を聞いて来るといい」 頑ななあの方の心を石の合間に覗いてらっしゃいと言われて近衛はしばし考えた。 「どうします?」 「行く!」 置かれた石から賀茂の気持ちを読むなどということはたぶん自分には出来ないけれど、 それでも久しぶりに賀茂と会って向かい合って打つだけでも嬉しいと思ったからだ。 「途中で李でも買って言ってやろう」 あいつあんまり食べないけれど果物だけは好きなんだよなあとそわそわと今にも立ち上 がらんばかりの近衛に佐為が苦笑しつつ窘める。 「それでは検討は無しということで良いのですね」 「あ! ………うーん。ごめん、今日は無し!」 「いいですよ。もうそんな有様では検討をしても頭に入らないでしょうから」 どうか賀茂殿によろしくと佐為は笑って碁石を片付けると碁笥の蓋を閉めた。 「それではまた―光の仕事が空いた時に」 「ん。それじゃまたな、佐為!」 そして勢いよく立ち上がって行きかけた近衛は途中で立ち止まるとくるりと佐為を振り返 った。 「どうしました?」 「いや、うん、あのさ…」 らしくない煮え切らない言葉で口を濁す。 「さっき言ってたヤツ、本当にそうかな?」 「何がです?」 「打ったら賀茂の気持ち………わかるかな」 照れ臭そうな近衛の顔に佐為がおかしそうに笑う。 「わかりますよ絶対、光なら特にね」 あの方が光をどう思っているのか、どういう気持ちで光を見ているのかきっとわかると思 いますよと言われて近衛の顔は輝いた。 「わかった!がんばってくる」 そして今度は振り返らずに走るように部屋を出て行った。 遠ざかる元気の良い足音を聞きながら佐為は一人碁盤を見つめながら微笑んでいた。 「さて…石で気持ちがわかるということが光には本当に理解出来たのでしょうか?」 打てば確かに賀茂の気持ちが近衛にはわかる。 好きだと、好きでたまらないのだと隠しても隠しきれない感情はその相手である近衛に は囲碁の腕には関係無く、確かに届き伝わるだろう。 (でもそれは逆も有り得ることなんですけれどね) 賀茂の気持ちが伝わるということは石を通して近衛の気持ちも賀茂に伝わる。 増してや優れた打ち手である賀茂には近衛の真っ直ぐな好意が痛い程伝わることだろ う。 「賀茂殿が…どんな顔をされるか見てみたいような気もしますね」 もちろんそんな無粋をするつもりは無いが、まだ若い、その気持ちが意味する所のなん たるやを知らない同士が頬を染めながら打つのを見てみたいと人の悪いことを佐為は 思ってしまった。 「これが春ということでしょうか」 心浮き立つ人生の春。 爛漫に咲き誇る鮮やかな大輪の花々の最初の一片が、今ゆっくりと蕾を解こうとしてい るのかもしれない。 恥じらいながらも開き始めた『恋』という名の美しい花。 それをこれから自分は見るのだろうかと思いながら、佐為はまるで親のような眼差しで、 駆けていった近衛の後ろ姿を思い出しては静かに優しく微笑んだのだった。 |