水月
スイゲツ



「賀茂、この水盤、なんか変だぜ?」

いつものように仕事の後に賀茂の屋敷に立ち寄った近衛は、廊下に見慣れない物が
置いてあるのを見つけると、いざるようにして近寄った。


それは水を張った水盤で、本来花を活ける物だが今は花も葉も無く、ただ水だけが満ち
ている。


「…何か占いにでも使うんかな」

そう思いながらのぞき込んでふと近衛は違和感を覚えた。

(あれ?)

何かが変だ。

でも何がおかしいのかわからなくて、更にまじまじと水盤の中を覗いてやっと気が付く。

青みを帯びた水に映っているのが自分の姿では無くて賀茂の姿だったからだ。



「おーい」

賀茂はただ静かに水の中から近衛のことを見つめている。

「おーい、賀茂。この水盤なんか変なんだけど」

近衛の声に茶と菓子の用意をしに部屋を出ていた賀茂が戻って来る。

「なんだ? 騒々しい」

一体何事――と御簾をくぐって近衛を見た賀茂は一瞬凍ったようになって、それから鬼
のような恐ろしい顔になった。


「人の家の物に勝手に触れるなってあれほどいつも言っているじゃないか!」

この家には普通の人間が手を触れると危険な物もあるんだぞと怒鳴られて近衛は肩を
すくめた。


「ごめん…でも触ってなんか無いって。ただ中を覗いただけで」
「覗いた? その水盤を?」
「うん。でもなんか変なんだよな。水に映ってるのがおれの姿じゃないんだ」
「誰の…姿が映っていた?」


じっと賀茂は近衛を見据えたままゆっくりと言葉を選ぶようにして尋ねて来た。

「その水盤に一体誰の姿が見えたと言うんだ?」
「えー?」


剣呑な気配に居心地悪く、でも答えずには許して貰えなさそうなので仕方無く近衛は
口を開いた。


「賀茂。何でかわからないんだけどおまえの姿が映ってるんだ」

近衛が言うのを聞いた瞬間、ぺたりと賀茂はその場に座り込んだ。

「か……賀茂?」

怒り過ぎて具合でも悪くなったかと水盤から離れて近衛が駈け寄る。

「大丈夫か? おまえ」
「いや…ごめん。大丈夫」


そう言いながら賀茂の目は近衛では無くて廊下に置き去られた水盤をじっと見つめて
いる。


「見えたのか…水の中に」

キミが見たのはぼくの姿だったのかと、どこか虚ろな賀茂の口調に近衛は心配になっ
てしまった。


「おい、本当に大丈夫かおまえ?」

おれまた何か悪いことやった? かけていた術でも解けて、返しが体に来てしまったの
かと、それだったら本当に申し訳ないことをしてしまったと謝る言葉にもしばし反応が無
かった。


「賀茂、おい、賀茂ってば」

揺さぶられてようやく賀茂が近衛をじっと見た。

「術は確かにかけていたけれど…本当に見えるのだとは思わなかった」

ぼんやりと言って、それから目を伏せる。賀茂の長い睫が目の下に小さな陰を作る。そ
れが綺麗だなと近衛はそれしか思わなかったのだが、もっと気をつけて見ていればほん
のりと頬が染まっていたことにも気が付いていたはずだった。



「あの水盤は唐から伝わって来たもので、まじないの道具の一つなんだ」

満月の夜に水を張り、月の光に晒しているとその水に『未来』を見ることが出来ると言う。

「…ん? でも何でおれの未来で賀茂の姿が見えるん?」

不思議だなあ、すごいなあと近衛は水盤の奇矯さに気を取られてしまっていて、賀茂の頬
が更に赤く染まったことには気が付かなかった。


「―教えない」

賀茂はつっけんどんな口調で突き放すように言った。

「勝手に人の部屋を歩き回って人の物に触れた罰だ」

水盤の意味は絶対に教えてあげないと言われて近衛は情けない顔になった。

「えー? だって気になるじゃん」

もう絶対勝手におまえの部屋歩き回ってお前の物勝手にのぞき込んだりしないからと、だ
から教えてくれと言われても頑として賀茂は突っぱねた。


「ダメだ、キミは何度言っても全然人の言うことを聞かないんだから」

だから絶対に水盤の意味なんて教えてあげないと、やり取りの挙げ句結局その日は喧嘩
になってしまった。


「いいじゃんか、賀茂のケチ」
「ケチで結構。ぼくの屋敷で不作法を許す気は毛頭無いからね」


あわよくば泊まって行こうと思っていたのにあまりの賀茂の頑なさに腹を立て、近衛は足音
荒く自分の屋敷に帰ってしまった。


「まったく…なんだよあいつ…」

あんなに頑固に言わなくてもいいのに、本当に賀茂は可愛くないと文句たらたら帰った近衛
はずっと後になって、その時の賀茂が実はとても「可愛かった」のだと言うことを知ることにな
る。




「あの水盤はね――」

自分が一生番う相手の姿を映すものだったのだと。

何年も経った後に賀茂はやっと寝物語のようにして近衛に語った。

「本当は自分で使うために用意していたものだったんだ」
「…なんだ、だったら別にあの時に言ってくれても良かったのに」
「言えるか!」


キミのことが好きで自分の番う相手がキミだったらと思い詰めて、まじないを使おうとしたなん
て、そんなこと口が裂けても言えるものでは無いと言う賀茂の顔は、今でもあの時と同じように
ほんのりと赤い。


「…恥ずかしくて死にそうだった」

でもキミが見たのがぼくの姿だと知った時にはほっとして、幸せすぎて涙が出たと。
その涙を隠すために逆ギレのようにキツく当たったのだと告白されて近衛は思わず笑ってしま
った。


「…可愛いな賀茂」

昔も今もすんごく可愛いと、そして薄物だけを纏った体をぎゅっと抱き寄せる。

「大好き、賀茂」

意地っ張りで頑固で、口が悪くて素直じゃない。

「…悪かったな」
「でも好き。そういう所がすごく好き」


水盤の中に見えたのが賀茂の姿で本当に良かったと言う近衛は、あまりに「好き」を連呼され、
恥ずかしさに逃れようとする賀茂の体を更に強く抱きしめるとそっとその耳元にだめ押しのよ
うに「好き」と甘く囁いたのだった。



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※【水月】スイゲツ

水と月。
池や湖などの水にうつる月の影。 まぼろしのように実体のないもののたとえ。また、
人がらの清らかなたとえ。 くらげの別名。〈類義語〉海月。『水母スイボ』




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