宿世結び



世の中に理(ことわり)があるように、陰陽の世界にもまた理がある。

して良いこと、してはいけないこと、はっきりとした約束や時に暗黙の決まり事として
それらは守るべきものとして存在する。


例えば反魂―亡くなった人の魂をこの世に引き戻すようなことをしてはいけない。

陰陽を私利に使ってはならないし、殊更な理由も無く禍を招くようなこともしてはなら
ない。


そして宿世―前世から決まっている人、一人一人の命運を勝手に歪めることも決し
てしてはいけないのだった。





闇の中、ぴんと張った空気が一瞬何かに弾かれたように揺れた。

そよぐ風のような、けれど重くねっとりとした空気は、屋敷の外、ずっと遠くから忍び
込んで来ていて、けれど印を結び直したら生き物のように尻込みして賀茂から離れ
ていった。


「吐普加身依身多女」

賀茂の唇が微かに開き、凛とした声がまじないを唱える。

「寒言神尊利根陀見」

整った白い顔には目の前に灯されたロウソクの炎が赤く揺らぎ、その額には玉の
ような汗が浮かぶ。


「波羅伊玉意喜餘目出玉―」

素早く指を組み替えて、幾つかの印を結んだ後で最後に賀茂が細く長い息を吐き
出したら唐突に蝋燭の炎が消えた。


息で吐き消されたわけでは無い、揺らす程の強さも無いそれは微かな息だった。

けれどそれでも消えたのは、戦っていた「モノ」が賀茂の力に負けたからだった。

ふうと今度は普通に息を吐き、賀茂は額に浮き出た汗を拭った。

しんと静まりかえった屋敷の中に、もうあの重い空気は微塵も無い。

「…良かった、今度も連れて行かれずに済んだ」

ほっと安堵したような表情が浮かぶのは今宵の相手はなかなかに手強いあやかし
だったためで、もし少しでも賀茂に気のゆるみでもあったならば失敗していたかもし
れないからだ。


傲るつもりは無いけれど、賀茂は自分の力に自信がある。それでも年月を経て練れ
たあやかしの中には思いがけない程強い力を持つ者も在るからだ。



「良かった…近衛」

これでまたキミと居ることが出来ると、微笑んで賀茂はそのまま床に崩れた。

袖口からはゆっくりと赤い血が流れ、それが細く板の目に添って流れて行くのを賀
茂はぼんやりと目で追った。


「今日は随分すごいのと戦ったんだな」

でもどうか決して無理はしないでと、夢うつつ恋人を想って呟く。

宮廷仕えの陰陽師、賀茂明の恋人は都を守る検非違使だった――。






「賀茂ー、居る?」

どたどたと歩く音がして御簾がめくりあげられた時、賀茂はまだ床に伏して静かな
顔で眠っていた。


「賀茂? あれ? 何やってんの、おまえ」

声に気が付いてうっすらと目を開くと、見慣れた青色の狩衣の袖が目の前にあっ
た。


「どうした? 具合でも悪い?」

床に手をつきのぞき込んでくる近衛の顔はたまらない程心配そうで、ああ、そんな
に心配なんかしなくていいのにと思ってしまう。


「…なんでもない。夕べ夜更かしをしてそのまま眠ってしまっただけだから」

とろりと閉じそうになる目を必死でこじ開け、ゆっくりと立ち上がろうとしたその時に、
賀茂の体の下に赤いものが広がっているのを見て近衛が険しい顔になる。


「血―おまえやっぱりどこか悪くしてるんじゃ…」
「違うよ…一体何を見てるんだ。これは血なんかじゃない、ただの…花びらじゃない
か」


一瞬、床に広がる血だまりのように見えたのは、賀茂の装束の袖口からほとほとと
こぼれたたくさんの赤い花びらだったのだ。


「あ………でも本当に血みたいに見えた」

驚かすなよと怒ったような声で言うのは、それだけ心配したからなのだろう。

「おまえ、結構危ない仕事もするって言うじゃん。だからおれ…」
「夕べ頼まれたのはまじないはまじないでも、そういう種類のものじゃない」


人の縁を結ぶものだよと言ったら近衛の顔はぱっと興味深そうなものに変わった。

「へえ、何? 縁結びって言うやつ? 賀茂でもそんなのすることあるんだ」
「たまにはね…頼まれればそういうこともする」
「それ誰? 一体誰と誰の縁を結ぶように頼まれたん?」


ずいずいと興味津々迫って来る近衛に苦笑しつつ、賀茂はさり気なく手を庇いな
がら近衛を避けた。


「そんなこと…教えられるわけが無いだろう。縁結びに限らず、頼まれた仕事のこ
とを人に話すことなんか出来るわけがない」
「ちぇーっ、ケチ」


言いながら、でも気が付けば近衛もさり気なく右手を使わないようにしているのだ
った。


「近衛…キミ、夕べ怪我をしたんじゃないのか?」
「え? ええっ?してないよ、そんなの」
「そうかな、だったらその右の袖の下を見せてくれないか?」


ぼくにはぞんざいに怪我の手当をしてあるように見えるんだけれどと言ったら、観
念したように近衛は口を尖らせて言った。


「…ちょっと…やり合った時に引っかかれたんだよ」
「何に?」
「鬼…女の」
「鬼にやられて『ちょっと』、『引っかかれた』なんて随分腕に自信があるんだな」


勇敢なのか馬鹿なのかわからないけれど、ちょっと見せてごらんとしつこく言った
ら近衛は渋々賀茂に夜警で受けた傷を見せた。


「へえ、これが『ひっかかれた』傷なんだ」
「嫌味言うなよ、確かに結構大きいけどさ、でも思ってたよりずっと浅かったし」


そんなに血も流れなかったと言いかけて近衛はふっつりと黙った。

「あのさ…賀茂」
「何?」
「おれ、前から思っていたことがあるんだけど…」
「キミが何を思っていたのか知らないし、知りたくも無いけど、きっとたぶんそれ
は違うよ」
「おれまだ何も言って無い…」
「言って無くても通じてるじゃないか」
「だって…絶対おかしい。痛みも深さももっとあったような傷でも絶対深手になら
ないんだ、おれ」
「剣の腕が上達したんだろう」
「最初はそう思ってたさ…でも…」


でも絶対に変なんだ。こんなことあるはずはないんだと、近衛は唇を噛んで悔し
そうに言う。


「おれの腕は一番おれがわかっているから」
「そうか、だったら精々もっと稽古をしてその腕を少しでも上げるんだな」
「賀茂――」
「待っていて、その傷によく効く薬を持って来てあげるから」


それからキミの好きなお菓子もあるから食べて行くといいと、ほとんど近衛の言
葉を遮るようにして賀茂は立つ。


「待って、賀茂!」
「なんだ、しつこいな」
「もし本当に…本当におれの思い違いだって言うなら、その袖の下を見せてくれ
よ」
「え?」
「おれは昨日、鬼にやられて右手を怪我した。もしおれの思っている通りならおま
えも同じ所に怪我をしているはずだぜ」


じっと見詰める近衛の目を賀茂は眉一つ乱さずに見詰め返した。

「馬鹿なくせに疑い深い…」

そんなに気になるなら見せてあげてもいいけれど、何も無かったらもう二度と言
うなよと念を押して片袖を脱ぐ。


さらりと露わになった賀茂の右腕は、首筋から指先に至るまで傷一つついては
いなかった。


「………嘘」
「だから言ったろう、『違うよ』って」


にっこりと笑う賀茂の笑顔は鮮やかだった。まだほんの少し疑っている近衛に
二の句を継がせない完璧な程の笑顔だった。


「納得したならそこに座って大人しくぼくが戻るまで待っていろ」

くれぐれもあちこち触りまくったりするんじゃないと、まるで子どもに言い聞かせ
るように言って部屋を出て行く。


ゆっくりと廊下を歩き、それから奥の台盤所に向かう。

きしきしと床を踏み、もう近衛に聞かれる恐れが無い所まで行ってから賀茂は
壁に手をついて、そのままずるずると崩れるようにして床に崩れた。


壁についたのは右手。さっき近衛にはだけて見せたのは体の右側だった。

けれど左手。床に崩れて下になったその左側の袖からは今ゆっくりと赤いもの
が流れ出して来ている。


「術が甘かったか…」

もう少し眠っていればもっと回復していたのだろうが、近衛が来て起こされてしま
ったために中断されて、塞がりかかった傷が開いてしまったのだ。


「早く菓子を持って戻らないと…」

馬鹿だ馬鹿だと罵ってばかりいるけれど、実は近衛が決して馬鹿などでは無く、
逆に非道く敏いことを賀茂はよく知っている。


「戻らないと…近衛に知れてしまう…」

(ぼくがした身勝手なことを)

痛みで燃えるような左腕を庇いながら必死に壁づたいに立ち上がる。

脂汗を流しながら口の中で二言、三言まじないを呟くと、袖から落ちる血の雫は
先程寝所にあったのと同じ真っ赤な鮮やかな花びらに変わった。


「天清浄、地清浄、内外清浄」

ぱらぱらと花びらを散らしながら、賀茂はよろける足で台盤所に向かった。

「天清浄とは天の七曜九曜二十八宿を清め」

予め、近衛が来た時のためにと取ってあった饅頭を高杯に盛り、それをそっと両
手で持つ。


「地清浄とは地の神三十六神を清め、内外清浄とは家内三寳大荒神を清め」

まじないを唱えながらそろそろと廊下を歩き、けれど歩きながらいつしか賀茂の
額からは脂汗は消えていた。


「八百万の神等諸共に」

花びらはまだゆっくりと袖口から散っていたけれど、それもだんだんと少なくなっ
て止まった。


「小男鹿の八の御耳を振立て聞し食と申す」

まじないの最後の言葉を唱えた時、寝所にかかる御簾が見えた。



「待たせたね」

御簾をくぐり、再び近衛の待つ寝所に戻った時、賀茂はもういつも通りの賀茂に
戻っていた。


「人の部屋の中を勝手に触ったりはしなかっただろうね?」

念を押す顔はにこやかだけれど迫力のある笑顔が浮かんでいて、とてもさっき廊
下にくずおれていた人間のようには見えなかった。


「いじってねーよ、言われた通りじっと座ってたってば」

拗ねたような口調で言う近衛の前に賀茂はそっと高杯を置いてやる。

「キミ、これが好きだっただろう?」
「うん…好きだけど…薬は?」
「え?」
「薬も持ってくるって言ったじゃん」
「ああ、そういえばそうだったね」


賀茂は言うとにっこりと笑って近衛の後ろ、小棚の戸を開けると中から貝に入った
軟膏を取り出した。


「…って、ここにあったのかよ!」
「ごめん、仕舞った場所を勘違いしていたんだ」


塗ってあげるから腕を出してと促すと、近衛は素直に片袖を脱いで傷ついた腕を賀
茂の前に突き出した。


「ちょっと染みるよ」
「いいよ」
「本当はもっと染みる」
「それでもいいよ」


殊勝だなと、笑いながら言う賀茂をいきなり近衛が抱きしめた。

「賀茂―」

ぎゅうっとかなり強く抱きしめながら、でも近衛が自分の左側には力を入れないよう
にしていることに賀茂はすぐに気が付いた。


「縁結びの術ぐらいおれだって知ってる」
「近衛…」
「男女の仲を結ぶものなんかじゃない。陰陽師の使うそれがどんな術なのか、おれ
だってちゃんと知ってるんだ」


宿世結びとも呼ぶ、それは本来別々に存在する人と人との縁を陰陽の術で無理矢
理に結びつけてしまうというものだった。


運命を分かち合うと言えばいいだろうか。

賀茂はまじないで己の縁と近衛の縁を結び、一つの物に変えてしまった。それは例
えば近衛が死ねば賀茂も死に、賀茂が死ねば近衛も死ぬというものなのだ。


そしてそれは逆を返せば近衛がどんなに傷を負っても賀茂が死ななければ近衛は
絶対に死なないということにもなる。


この所、近衛がどんなに怪我をしても思った程深手にならないというのはそういう理
由からだったのだ。


「何で? …近衛」
「変だから…絶対に変だからそれとなく倉田さんに聞いたんだ。人の傷を共有出来
るような術ってあるのかって。そうしたらあるって…」
「そうか、倉田さんが…」


だったら仕方無いなと賀茂は息を吐きながら思った。同じ陰陽師である倉田の口か
ら聞いたのだとしたらもうそれは誤魔化しようが無い。


「せっかく鏡を使って体の逆に傷がつくように術をかけたのに…無駄になってしまっ
た」
「ごめん、賀茂」
「なんでキミが謝るんだ?むしろ謝らなければならないのはぼくの方なのに」


勝手にキミと縁を結んだ。親子や婚姻よりもずっと濃く強い縁を相手の合意も得な
いで一方的に結んでしまったのだ。


「こんな縁を結んではキミはこれから恋人を作ることも普通に結婚することも出来
ない」


嫌でもぼくと同じ運命を生きなければいけないのだからと、でもそれは近衛にとっ
て決して苦痛では無かった。苦痛なのはそのことによって賀茂が傷つくことなのだ。


「なんでこんな無茶したんだ、おまえみたいな冷静なヤツが」

好きだと気持ちを伝えてはあった。賀茂もまたそれに気持ちを返していた。けれど
普段は素っ気ないことこの上無く、近衛は本当に賀茂が自分を好いてくれているの
だろうかと悶々と悩むことすらあったのだ。


「怖かったんだ…もしキミを失ったらと、それが怖くてたまらなかった」
「おれを?」
「おかしいか? でも本当にぼくはキミを失うのが怖くて怖くてたまらなくなってしまっ
たんだ」


賀茂も近衛もどちらも命を賭けるような危険な仕事を生業としていることには変わり
はない。


けれど生身の体であやかしと対峙しなければならない近衛の方が傷を負う確率は格
段に高い。


言葉の悪い者の中には検非違使を「汚れ仕事」と呼び軽んじる者も居る。それくらい
危険が多い割には禄が少なく、穢れと触れ、自身が穢れる機会も多い。


若者が多いのはあやかしと戦うには体力が無くては無理だということもあるけれど、
それよりも年を取る前に死んでしまう者が多いということもある。だからこそ近衛を好
きだと自覚した時、賀茂は恐れたのである。


生まれて初めて愛し愛された相手を無下に失ってしまうということを―。



「キミを好きになんかならなければ良かったって思った。キミがぼくの目の前に現わ
れて、うるさいくらいにつきまとったりしないでくれたら良かったって」


非道い言いぐさではあるが言葉に含まれる響きは切ない。

「離れようかとも思ったんだ。陰陽寮に閉じこもってキミのことなんか知らないふりを
して忘れて生きようかとも思った」
「ひでぇ…」
「でも出来なかった。こんなに好きになる前だったら手放すことも出来たけど、でもも
うぼくはキミを手放すことも出来ない」


いっそキミが他の誰かを好きになってぼくを捨ててくれればいいと、本来の意味の縁
結びのまじないをやろうとさえしたのだと言われて近衛の眉が寄った。


「そんなこと…したら絶対に許さない」
「キミが怒ってもぼくを憎んでもやるつもりだった。でも途中で気が付いたんだ、キミと
他の人の縁を結ぶくらいならぼくとキミの縁を結んでしまえばいいんだって」
「賀茂…」
「キミが検非違使としてどんな危険な目に遭っても、ぼくが死にさえしなければキミも
死なない」


良かったよと言われて近衛は思わず噛みつくように言ってしまった。

「でも―その分、おまえがおれの傷や痛みを負うことになるんだろ?」

縁結びは、かけた術者の方に負荷がかかると聞いている。

本来守りたい相手を命を賭けて守るためのまじないだから。

「それでもキミが痛かったり苦しんだりする方がぼくは苦しい」

ぼくは弱い。そして狡いんだと賀茂は苦笑のように笑った。

「頼むから近衛、ぼくを許してくれないか」

そしてキミの痛みをぼくに分け与えてはくれないかと、かすれるような声で言う賀茂
に近衛は思い切り苦く険しい顔をした。


「解いてくれ…術を」
「嫌だ、絶対に解かない」
「だったら倉田さんや、他の人に頼んで解いて貰う」
「ぼくより力のある術者なんかこの都には居ない。それにもし居たとしてもキミはそ
れをその人に頼むことなんか出来ないよ」
「何故?」


近衛の腕に抱かれながら賀茂はうっすらと笑いながら言った。

「縁結びの術は禁呪だからね。陰陽に関わる者はそれを決して私利のために使っ
てはならない決まりがある」
「それで?」
「だからもしそれを使ったと知れたらぼくはきっと死罪になるよ。良くても都を追放
される」


それでもキミはぼくがかけた術を解こうと人に頼むのかいと尋ねられて、近衛はキ
ツく唇を噛んだ。


「おまえ…卑怯」
「だからさっき言ったじゃないか、ぼくは―とても卑怯なんだよ」


ごめんねと言って近衛の肩に賀茂は静かに顔を埋めた。

はらはらと左袖からは再びゆっくりと赤い血の花びらが散る。

その花びらを掌に受け止めると、近衛はこれ以上は無い程に辛い、辛くてたまら
ないという顔をして、ぎゅっとそれを握りしめたのだった。


「―おれは死なない」
「うん」
「もっともっと強くなって、絶対に死なないようにする」
「…うん」


おまえをこれ以上傷つけないように、おまえを決して殺さないように、おれも絶対
に死なないからと誓うように言われて賀茂は言った。


「死なないでくれ、近衛」

キミを愛しているからと、それは初めて聞いた賀茂からの愛の告白だった。

「うん…うん。絶対死なねぇ」

だからおまえも絶対死ぬなと言われて賀茂はこくりと頷いた。

はらはらと。

はらはらと左袖から散り続ける赤い花びら。

その花びらの真ん中に立ちながら、近衛と賀茂はいつまでも固く抱きしめ合って
いたのだった。





※賀茂強化月間最後の話です。実はこの話を最初に書いてから他の五つの話を書きました。
情の薄いように見えて本当はとても情の強い賀茂でした。2008.12.12 しょうこ