椿餅
‐つばひもち‐





柱の影から手招く手に、賀茂は溜息をつくと歩み寄って行った。


「こんな所で何をやっているんだ…近衛」

「あっ!  しっ、本当はおれ今ここに居ちゃいけないからさ」

「知ってる。今日は佐為殿が帝に囲碁の指南に来ていらっしゃる。キミはその警護で
来ているんだろう」


「うん、だけどおまえも居るって聞いたからさ」


ちょっとだけ抜けだして来たと言うのに賀茂は思い切り眉を顰めてみせる。


「内裏内だからって完全に安全なわけでは無いんだぞ、帝に直接お会いする立場に
在る佐為殿だからこそ常にお側に居なければいけないというのに」



お役目を疎かにする人間は嫌いだと言うのに近衛は紙にくるんだ何かを押しつける。


「これ、待ってる間に食えって言われて貰ったんだ。すごく美味かったからおまえにも
食わせてやろうと思って」


「…え?」

「椿餅って言うんだろ? おれ初めて食ったけどすっごく美味かった!」

「それで…これをぼくにくれるために抜けて来たって言うのか?」

「そう。あ、ちゃんと端っこ囓って毒味もしておいたから! 変な物は入って無いから
大丈夫だぞ」



そしてまだ躊躇っている賀茂の手にしっかりと紙包みを握らせると朱塗りの柱に囲
まれた雅な廊下を風のように走って去って行った。


煽られて翻る狩袴の濃紺が目に鮮やかで美しい。

残された賀茂は手の中にある紙包みを見て苦笑のように笑った。


「そんなもの、賀茂様には珍しくも無いのに近衛光はそんなこともわからないのでしょ
うか?」


気配を消して添っていた式神が嘲るように言った。


「しかも囓りかけを人にやるなど一体どういう神経をしているのか―」

「良い」

「え?」

「これはこれでいいんだ。だからおまえは何も言わなくていい」


きっぱりとした賀茂の言葉に式神の気配は再び消える。


(馬鹿だなあ)


確かに式神の言う通り、賀茂は立場上都の人々が普段口にすることが無いような
物を口にすることが多い。


だから確かに賀茂にとって椿餅は特別珍しい物では無かった。

むしろ近衛にとっての方が滅多に口にすることの出来ない贅沢品で、一人で食べ
てしまえば良かったのにと思う。



ゆっくりと開く手の中の包み。

白い紙の真ん中には、ぽっちりと端がかじられた椿餅が乗っていた。

たぶん近衛が食べたのはこの囓られた僅かな部分だけだろう。椿餅を貰って最初
に近衛は自分で食べるよりも先に賀茂に渡すことを考えたのだ。



「食いしん坊なくせに―」


どれほどの我慢をして一口で済ませたのだろうかと思うと愛しさがつのる。


「有難くいただくよ…近衛」


普段は絶対にしないこと。

立ったまま屋外でも物を口にするなどと、賀茂は生まれてから一度もしたことは無
かった。


けれど端の欠けた椿餅は、暗い陰陽寮の中で食べるには似つかわしくないように
思えたので、賀茂はその場で立ったまま行儀悪く椿餅を口に運んだ。



「美味しい…」


葛の甘さが身に染みる。

今まで何度も食べたことはあったけれど、こんなに美味しいと思ったことは無かった
ような気がする。


手を汚し、立ち食ったこの椿餅の美味しさを絶対に忘れないようにしようと思いなが
ら、賀茂は口の端についた菓子の屑を指で拭った。


そうしてから菓子を包んでいた紙を畳み、丁寧に胸元に仕舞い込む。


「まったく…人の口がついた物をお食べになるなんて―」

「いいんだよ、近衛なら」



もういいだろうと思ったのか再び口を挟んで来た式神に答えながら賀茂はふと赤く
なった。


そうか、そういうことにもなるのかと思いながら、でもきっと近衛はそんなこと考えも
しなかっただろうと思うと少しだけ悔しかった。



「今度はぼくが彼にあげよう」


柱の影から手招きして、一口だけ囓った椿餅を渡したら一体どんな顔をするだろう
かと想像すると楽しかった。



驚くだろうか?

喜ぶだろうか?

そして意味することに気が付くだろうか?

彼にはいらぬことを言う式神が居ないから気が付かないかもしれないけれど、そう
したらぼくがほのめかしてやってもいい。


ぼくの口がついたものを食べてもキミは平気なのかと―。


もしも彼が今の自分と同じくらい顔を赤く染めてくれたなら嬉しいなと、心から楽しそう
に笑いながら、賀茂は一人、静かな廊下を自分の向かうべき場所へとゆっくり歩いて
行ったのだった。





※賀茂強化月間第一段「椿餅」でしたー。
つくづくと時代の流れに逆行していく女ですヨ(^^;>自分


2008.11.8 しょうこ