露草



「賀茂、賀茂、ちょっと出て来て」

朝靄もまだ晴れていないような早朝に、屋敷の前で聞き慣れた声がした。

「賀茂ー、賀茂ー、賀茂ってば賀茂っ!」

知らないふりをしてしまおうかと思ったけれど、あまりにもいつまでも呼んでいる
ので仕方無く出る。



「騒々しいなキミは…こんな朝早くに来るなんて、一体ぼくに何の用事だ」

そもそもその前に、普通ならまだこんな時間は皆寝ているはずだろうと、そうキ
ツイ口調で言ってやったのに、声の主である近衛光は全く気にした様子も無い。


「だっておまえは起きてると思って」

前に朝早くから起きて、体をよく清めてから一日を始めるって言っていたのを覚
えていたからと、でも日によってはそうで無い時もあるし、ぼくだって具合の悪い
時もある。


そうよく言い含めなければと思ったのに、近衛はぼくが口を開く前にいきなりぼく
の左手を取って、それから袂を探って何かを取り出した。


「夕べ、夜警でさ。で…帰ろうと思って歩いてたら道端で咲いているのを見つけ
たから」


今頃咲いてるのって珍しいよなと言って近衛が取り出したのは露草だった。

「手折って来たのか、可哀想に」
「うーん…でもどうしても賀茂に見せたかったから」


そして握っているぼくの左手の一本の指に器用にくるりと露草を巻くと、それか
ら折らないように注意してそっと緩く結わえ付けた。



「…何?」
「ほら、やっぱり」


おまえにはこの青が似合うと思ったんだと、満足そうに言って近衛は青い花が
揺れるぼくの指をしげしげと見てから身を屈め、指の付け根にそっと口づけた。


「これ、萎れるまで取らないで」
「何をそんな勝手な…」
「約束、絶対に取るなよ」


そしてくるりと身を翻すと、明け始めた景色の中、走って去って行ってしまった。


「ぜーったいに取るなよ」

途中一度だけくるりと振り返り。

「絶対に絶対に取っちゃダメだからな」

それはおれがいつかおまえを貰うって印なんだからと勝手極まりないことを言っ
てそれから今度こそ振り返らずに消えたのだった。



「…何て身勝手なんだ」

人の都合も考えず、非常識な時間にやって来て、殺生をして手折って来た花で
ぼくの指を結んで帰った。


まるでつむじ風のような奔放さだと思った。

「取るなって…そんなこと…ぼくの勝手なのに」


でも取れない。

疲れて帰って来たその道すがら、本当は少しでも早く自分の屋敷に戻って寝た
かっただろうに、ぼくに似合うだろうからとわざわざ寄り道をした近衛をどうして
もぼくは不快には思えなかった。


それどころか嬉しい。

もし他の人間が同じことをしたならば、ぼくは情け容赦の無い言葉と無慈悲な態
度で接しただろうに。


(…あんなにずかずかと踏み込んでくる無神経な男のどこがいいんだ)

自らに問うてもわからない。

でも指に巻いてくれた凛とした青は間違い無くぼくも好きな色であったので、ぼく
は苦笑のように微笑むと、彼が口づけたのと同じ場所にそっと唇を押し当てて、
小さく「ありがとう」と呟いたのだった。


suzumushi2.jpg



※本当は夏の花ですが秋でも結構咲いていたりするもので。
指輪っぽく緩く結んだのを想像していただければと思います。平安エンゲージリング(笑)
ちなみにその露草は萎れた後も押し花にされてずっと賀茂に大切に仕舞われているものと思われます。


2008.10.27 しょうこ