食羅


溶けかけの雪を踏みしめながら、鳴いた鳥の声にふと顔を上げると、ちらほらと花のついた梅
の枝に、鶯に似た鳥のようなものが留まっていた。

ような―と思ったのは、近衛が覚え知っている鶯より幾分色味が鮮やかだったのと、次の瞬
間に嘴を開いて人の言葉を話したからだった。

『賀茂様がお呼びだ』

ほんの一瞬。

そしてぱたと飛び立って行った。

「賀茂のやつ…」

気付かずにぬかるみに足を踏み入れ、深沓が濡れてしまったことも忘れ、近衛は嬉しそうに
微笑んだ。

「久しぶりだ。久しぶりに賀茂に会える」

そしてさっきまでの凍えるような足取りとは裏腹に弾むように歩き出したのだった。




賀茂というのは、都随一の陰陽師である賀茂明のことで、近衛にとっては愛しい想い人であ
る。

尤も恋人と思っているのは近衛の方だけで、賀茂はつれなくただの友人だと常々言い捨てて
いる。

けれど『ただの友人』と言う割には側に寄ることを許すのは近衛だけで、過去に縁があったと
は言え、一介の検非違使如きに身分を越えて親しさを示すのは、やはりそれなりの気持ちが
あるからだと近衛自身は思っている。

(大体あいつ素直じゃないし)

好きも嫌いも顔に出さない。

感情というものをほとんど表に出さないので、内裏では『人で無き者』のように陰口を叩かれる
ことも多い。

けれど出会った頃よりはずっと喜怒哀楽が表情に出ることが多くなったことに近衛はちゃんと気
がついていたし、人に心を開かないのは開くことによってその相手に害が及ぶことを恐れている
からでもあると、付き合いを続けて行くうちに近衛は悟っていた。

人の恨みを買うことも多い陰陽師という生業のそれは孤独だった。

それ故に会って話す時も口から飛び出してくるのは辛辣極まりない言葉である事が多いが、ふ
とした時に見せる年相応の顔があまりにも無邪気で無防備なので、近衛はどんなに非道いこと
を言われても、賀茂のことを『可愛いなあ』としか思えない。





「賀茂」

近衛が一日の役目を終え、賀茂の屋敷を訪れた頃には、時間はもう夕に近くなっていたけれど、
まだ空は明るかった。

(随分日が長くなった)

もう春なんだなと思いつつ、慣れた風に門をくぐって屋敷に上がろうとすると、ふいに賀茂の声
がした。

「許していないのに勝手に上がるな」

見れば屋敷の横手に立ち、こちらを睨んでいる浅黄色の狩衣が居る。

「いつも勝手に入ってるじゃん」

ぬけぬけと言って近衛は愛しい人の前に駈け寄った。

「久しぶり、賀茂。なんか、ずっと会っていなかったよな?」

「祈年祭で忙しかったからね」
「うん、知ってる。遠くから時々姿だけは見かけていたから」

見てはいても安易に近寄ることは出来ない。それが辛い所だと近衛は思う。

「ぼくも…キミの姿は時々見かけていた。佐為殿に付き添って内裏に上がっているのを見かけた
し、この前、行洋様が出かけられる時にも警護役として付いて行っただろう」
「行洋様、なんかおれのこと気に入ってくれたみたいで、時々名指しで使ってくれるんだよな」

おかげで賀茂の姿を見る機会が増えておれは嬉しいと、近衛が言った言葉に初めて賀茂の表
情が緩んだ。

「ぼくもキミの姿を見る機会が増えるのは嬉しいと思っている」
「で、今日は何で呼んでくれたん?」

賀茂にとっては最大級の感情表現をあっさりとかわして無邪気に尋ねる近衛に、一度緩んだ賀
茂の表情はまた固くなった。

「別に…何か用があって呼んだわけじゃない」
「そっか、じゃあおれ帰るよ」

久しぶりに賀茂の顔も見れたしと、言って帰りかけるのを咄嗟に賀茂の手が掴んだ。

「…何?」
「あ…これは……別に」

らしくない行動を起こしてしまったことで慌てた賀茂はしどろもどろになる。けれどすぐに自分を
取り戻して、掴んだ手をそのままに近衛を中庭に引っ張って行った。

「そこに座っていて」

賀茂が指したのは屋敷の簀子で、言われた通り近衛が座って待っていると、中に引っ込んだ賀
茂が少しして戻って来た。

手にした折敷には湯気のたつ二つの椀と、そして皿に盛られた花形の菓子があった。

「まだ外は冷える。これを飲んで温まるといい」

目の前に置かれたのは麦湯で、式神も使わずに賀茂が手ずからいれてくれたのだと思ったら
近衛は非道く嬉しくなった。

「…熱」

一口含んだ途端に香ばしい麦の香りが口中に広がる。

喉が焼けそうな程熱い麦湯を息で冷ましながら少しずつ飲んでいると、賀茂は皿に盛った菓子も
近衛に勧めた。

「食羅だよ。食べたことはある?」
「唐菓子は何度か行洋様のお供でご相伴にあずかったことがあるけど、これは無いな」

薄い、花びらに似たその揚げ菓子は一口食べるとほんのりと甘く美味しかった。

「美味い!」

思わず声に出して言うと賀茂は微笑んで、自分もまた菓子に手を伸ばした。

「良かった。キミは餅菓子の方が好きなのかなと思っていたから」
「菓子はなんでも好きだよ。普段こんな美味い物食い慣れていないし」

貧しい物に慣れた口にはどんな物でも美味しいと、けれどそれは決して僻んだ様子では無く、素
直に思ったままを口にした言葉だったので、賀茂は微笑むともっと食べるようにと近衛に勧めた。

「こんなことを言ったら怒られてしまいそうだけど、ぼくはそんなに好きでは無いんだ」
「こんなに美味いのに?」
「普段からあまり味のついた物は食べないようにしているし、それでずっと過ごして来たから」

精進潔斎の時などは菜も断ち、水で濯いだ米だけを食べる。それを思い出して近衛は菓子が喉
に詰まったような顔になった。

「勿体無い」
「…うん、本当に勿体無いことだよね」

都の外には貧しさ故に都に入れず、野兎のような暮らしをしている者も多い。都の中でさえ、決し
て皆楽な暮らしをしているわけでは無いのに、菓子を好きでは無いなどと言ったら罰が当たると
賀茂は言うのだった。

「いや、それもそうだけどさ」

近衛の言いたいことは少し違う。

恵まれた立場に有りながら、その恵みを享受出来ない、そのことを勿体無いと思ったのだった。

賀茂は際だって美しく、整った顔立ちをしている。陰陽師としての才も抜きんでていて、賀茂に敵
う者は居ないとまで言われている。

けれど家族も持たず友人も居ない。その上、こんな貧しい舌にも美味いと感じられる菓子の甘さ
さえも感じられないのだとしたらそれはどんなにか寂しいことだろうか?

「……キミはすぐに感情が顔に出るね」

相変わらず菓子が喉に詰まったような顔をしている近衛の椀に、賀茂は苦笑しながら麦湯を注い
でやった。

「だって、だってさ」

おまえすごくカワイイし美人なのに勿体無いじゃんと、近衛は近衛で言いたいことが上手くは言
えない。

「別に勿体無くはないよ。こうしてキミが美味しそうに食べているのを見られるし」

何よりキミと一緒に食べていると、ぼくにもこの菓子が少しだけ美味しく感じられると、微笑まれて
近衛は赤くなった。

「それで呼んだんだ?」
「え?」
「菓子を食いたくなったからおれを呼んだんだろう」

手に持った残りを口に放り込みながら近衛が言う。

「せっかく珍しい菓子を貰ったんだから、どうせなら美味しく食べたいよな」

一人で食べるのでは確かに何でも美味しくは感じ無かろうと、解ったように頷く近衛の顔を賀茂
は睨んだ。

「違う」
「え?違うの?」
「ぼくは菓子が食べたくてキミを呼んだわけじゃない。『キミと菓子が食べたくて』キミをここに呼
んだんだ」

言ってからさっとその白い頬に赤味が差すのを近衛は見た。

「まだ雪は残っているけれど、梅の花も咲いたし、キミにはずっと会っていなかったし」

ぼくだってね、キミに会いたいと思うことはある。会いたいから、キミと菓子を食べたいから呼ん
で悪いかと言われて今度は近衛が赤くなった。

「いや…ナイ…です」

むしろ嬉しいありがとうと、近衛が言うのに賀茂の表情は益々険しくなる。

「そういうことを一々言わなくていい。キミは本当に無粋だな」

無粋だけれど大好きだと、心の中でそっと思う。

「そういえばこの菓子、梅の花びらに似てるよな」

ふと皿に目をやって近衛が言う。

「そうだね。春先に食べるために作られたのじゃないかな」

簀子から眺める庭には、三分咲きほどの梅の木が見える。

「おれ…また来ていい?」
「別に聞かなくてもキミは来たくなったら来るじゃないか」
「うん、それでもさ」

この梅の花が満開になる頃にまたここでこうして賀茂と花見がしたくなったからと、そしてつられた
ように梅の木を見上げる賀茂の顎を掴んで口づける。

「約束」
「―構わないよ、別に」

屋敷の戸はいつでも近衛のためにだけ開いている。

呪いであらゆる物を拒んでいても、唯一、賀茂は近衛の立ち入りだけは拒んではいなかった。

そのことを近衛自身は知らなかったけれど―。


「その時にはおれも酒でも持って来るよ」
「だったらぼくもまた食羅を用意しておこう」

薄甘い、花びらの形をした春の菓子。

今まで何度も口にしたことはあったけれど、それを美味しいと感じたのは今日が生まれて初めて
だった。

「後、二、三日ってとこかな?」
「七日はかかるんじゃないか」
「だったら三日後に一度様子を見に来るよ」

今度は式神なんか使わないでも自分で勝手に来るからと言う近衛に賀茂は笑った。

「だからキミは―」

いつでも勝手に来ているじゃないかと言う口を近衛が再び口づけで塞ぐ。

「これでも一応、遠慮してんだってば」

でもこれからはそれはやめる。本当に好き勝手に来るよと言いながら口づけを繰り返した。

「好きに―すればいい」

唇の離れた合間に息を継ぐように言いながら、賀茂はふと目の端に食べかけの菓子を見た。

うすら甘い、花びらの菓子は確かに美味く感じられた。

(でも…)

近衛との口づけの方があの菓子よりもずっと甘いと賀茂は思った。

(ずっと甘くて、体の芯からぐすぐずに溶けて行ってしまいそうだ)

愛しくて、胸の奥が痛くなるような幸福な甘さ。

けれどそれは絶対に近衛には教えてはやらないのだと、近衛の首に腕を回し、自分から口づけを
返しながら賀茂は心密かに思ったのだった。





※すみません、今年のバレンタインはコノカモオンリーです。いや、コノカモですみませんというとコノカモちゃん達に
大変失礼なんですが、ヒカアキ好きとコノカモ好きが必ずしも一致しない場合もあるかと思いまして(^^;
食羅(ひちら)は、平安時代の菓子の名前です。本当は落雁っぽいお菓子がいいなあと思っていたのですが、
調べたらそんな菓子はその時代には無いようでしたので揚げ菓子になりました。でも美味しそう。
ちなみに近衛は貰いものを出してくれたと思っていますが食羅も賀茂の手作りです。だってバレンタインだから←え?


2010.2.14 しょうこ