想い
‐愛人2‐
萩の花が咲いていた。 ヒカルの愛人が住んでいるというその家は、思っていた以上に大きな屋敷で、 手入れの行き届いた庭にはこんもりと小山のように萩の花が咲いていた。 潰れた油問屋の屋敷だったというその家はどう見ても一人きりで住むには広 く、日陰者には相応しくないと義高はため息をついた。 「まったく…若旦那も何が良くてあんなヤツにここまでしてやるんだか」 義高はヒカルから頼まれた文を届けに初めてここに来たのだが、愛人である アキラのあまりの愛想の無さにすっかり腹を立ててしまったのだ。 「ヒカルが伏せっている?」 「そう。ちょっと具合を悪くしていてな。それで当分来られないからって」 文と金を預かって来たんだと、懐から淡い色の結び文と手ぬぐいに包んだ金 子を渡したらアキラはその場で手ぬぐいを開き、一枚一枚丁寧に数えた。 そして額の確認までしたのに肝心の文は結び目を解くこともしないで胸元に仕 舞ってしまったのだ。 「ご苦労様」 「って、読まないのかよそれ」 「別に、どうせ大したことは書いていないだろうし」 間違いだらけの読みにくい文を今急いで読むことも無いと、あまりの言いぐさ に義高は思わず目を剥いてしまった。 (仮にも囲われ者ならば、主への礼儀として嘘でも嬉しそうに振る舞うもんだ ろう) ヒカルは老舗の大店進藤屋の跡取りで、若くして死んだ兄に比べて確かに頭 の回りは良いとは言えない。 なるほど文にもきっと間違いがたくさんあるに違い無い。 上品で学のあった兄とは違い、ほったらかしに育ったために立ち居振る舞い も粗野で、口さがない人々には進藤屋はヒカルの代でお終いだとまで言われ ているくらいだ。 (でもあいつ、すごく良いヤツなのに) 少なくとも義高はヒカルのことが好きだった。それは金持ちにありがちな傲り や嫌らしさががヒカルには欠片も無いからだった。 今でこそ丁稚と跡取りの若様という間柄になってしまったけれど、昔は泥だら けになって一緒に遊んだ仲でもあり、今でも使用人という枠を越えて友人のよ うに扱われることもあった。 だからこそ、男の愛人を囲うといった奇矯な行動にヒカルが走った時にも義高 は余計なことは何一つ言わなかったし、病の床からヒカルに頼まれて、仕方無 く忙しい店の仕事の合間を抜けてこうして愛人へ預かり物を届けに来たりもし たのだ。 なのにその当の愛人はヒカルの心遣いを有りがたがることも無く、金にしか興 味を示さなかったので非道く不愉快な気持ちになったのだった。 「なに? まだ何か?」 「返事を書くのを待ってやってるんだよ!」 「返事?」 別に何も書くことなんか無いよと、そのあんまりな言いぐさに義高の頬がぴくり と引きつる。 (あんなに貰っておいて礼の一つも返さねーのか) 「…少しは自分の立場をわきまえたらどうなんだ? うちの若旦那が居なかっ たらおまえは色子として客を取らされていたかもしれないんだぞ」 「お情けで囲われているという自覚はあるさ。だからそれに見合った働きはち ゃんとしている」 でも今ここにヒカルは居ないし、居ない相手に奉仕は出来ない。居れば笑顔の 一つも見せるし溜まった精を抜いてやることもするけれど、それはおまえ相手 にすることじゃないと、それこそ囲われている身でここまではっきり言い切る者 も珍しかったかもしれない。 「それともして欲しいのか?」 丁稚風情がヒカルの代わりになれるとも思わないけれどねと、見下ろすように 言われて我慢していたものがぶつりと切れた。 「そうやって巫山戯た態度で居ればいいさ。あいつが結婚したらおまえなんか 即お払い箱なんだから」 あいつにだって縁談話は降るように来ている、今にきっと目が覚めてお前なん か捨ててしまうに違い無い。その時に泣いてすがったって遅いんだぞと義高が 一気にまくし立てるのをアキラは黙って聞いていたが、眉一筋も動かさなかっ た。 「それで?」 「それでって…」 「囲われ者だという自覚はあるとさっき言ったはずだ。もしそんなことになっても みっともなくすがったりはしないさ」 泣きもしない。むしろ自由になれて嬉しいくらいだねときっぱりと言われて義高 は怒りのあまり自分がアキラに殴りかかる前に逃げるように屋敷を後にしたの だった。 「あーっ、悔しいっ。あいついつか絶対ぶっ殺す!」 何様だと思っていやがるんだと本人が目の前からいなくなっても腹の中で燃え たぎる怒りはいつまでたっても消えなかった。 確かにアキラは美しい。 整った顔立ちは美人と評判だった母親にうり二つだそうだし、元々はヒカルの 家にも引きを取らない大店の一人息子で生まれも良いのだ。 店が潰れた時に全てを失い、借金の清算と引き替えにヒカルの愛人になった ものの、そこらの大店の主が囲っているような遊び女とは明らかに毛色の違う 品の良さをアキラは持っていた。 しかも賢く、冷静で潔い。 遊郭に売られてしまう前にと、ヒカルが店の金を持ち出してまで愛人として囲い 込んでしまったのも無理は無いとその顔を一目見た時義高は思った。けれど 話をしてそれは変った。 (あいつ趣味悪っ、よりによってあんな冷たい高慢ちきな『男』なんか選ばなくて も良いじゃないかっ) 金持ちや僧の中には愛人として男を囲う者もいないでは無い、けれどヒカルは 元々は別にそういう嗜好では無いのだ。 「その気になればよりどりみどりなのに…」 明るく気さくなヒカルの性格は人を引き付けたし、普段構わないでいるので目 立たないが、よく見れば顔立ちだってかなり良い男前なのだ。 しかも大店の跡取り息子である。先程アキラに言ったことは腹立ちから出た 言葉であったけれど満更嘘というわけでも無かったのだ。 なのに何故わざわざあんな性格の悪い男を愛人に囲ったりなどしたのか、ど うしてもヒカルの気持ちが義高には理解出来なくて、くさくさとした気持ちは晴 れなかった。 それから何度か義高はアキラの元へヒカルの文を届けに行った。 病はかなり良くなってはいたものの大切な跡継ぎということで、完全に体調が 元に戻るまでは家を出てはいけないとヒカルは両親にきつく言い渡されてし まい、部屋から一歩も出ることが出来なかったからだ。 「本当にご苦労なことだね」 いつものように義高から文と金を受け取ったアキラはこれもまたいつも通り、 文は読まずに胸元に仕舞い、金だけをちゃんと確かめた。 「もう随分貯まったんだろうな」 「え?」 ひいふうみと数えるアキラに思わず嫌味で言うと、アキラは少しだけ驚いたよ うな顔になってそれから「まあね」と笑った。 「若旦那のお陰で良い生活をさせていただいています……とでも言えばいい のかな」 「いいご身分だな。働きもせずに日がな一日ごろごろとして、聞けば近所の年 よりと碁を打つばかりの毎日だそうじゃないか」 「仕方ないだろう『お勤め』をしたくてもヒカルが来ないんだから」 それくらいの暇つぶしをしても罰は当たらないはずだと言われて、義高は当て られるものならおれがこいつに罰を当ててやりたいと本気で思ってしまった。 自分など、朝日も昇らない頃に起き出して掃き掃除や拭き掃除、店の仕度の 手伝いとメシを食う暇もろくに無い。 それ比べたらアキラの毎日などはお大臣様のようにしか思えなかったからだ。 「あいつどうしてた?」 帰ってから義高が文と金を確かに届けたことを部屋に報告に行くと、ヒカルは 布団の中から顔だけ出して待ちかねたように尋ねた。 「元気だった? 何か不自由はしてなかった?」 具合は良くなったとは言うものの、やはりまだ波があるらしく、今日のヒカルは 朝から少し熱があって変な感じに頬が赤い。 呼吸も苦しそうで、なのにそんな苦しい息の下からまず尋ねることがアキラの 心配だったので、義高はなんだかやりきれない気持ちになってしまった。 (なんてお人好しなんだこいつ…) 「大層お元気でした。そして何不自由無く暮してもおいででしたっ」 「そうか、なら良かった」 憎らしい澄まし顔を思い出しながら義高が嫌味たっぷりに言った言葉に、でも ヒカルは素直に嬉しそうに笑った。 「もう随分顔見て無いからなあ。相変わらず美人だった?」 「存じません」 「いくら幼なじみでもあいつは譲れないから絶対に絶対に手ぇ出したりするな よ」 (誰が!) あいつに手を出すくらいなら鬼か蛇とでも交わった方がまだマシだと義高は 心からそう思った。 「それでさ、もう結構調子良いんだけど、医者がまだもう少し寝てろって言うか らさ、申し訳無いんだけど、来週またあいつん所に行ってくれる?」 そして次に行く時にはぜひどこそこの菓子を持って行ってやってくれと言うの を聞いて義高はたまらずに言ってしまった。 「…あんなヤツ、そんなことしてやる価値なんか無いって」 「え?」 明らかに使用人としては出過ぎた言葉だった。でもあまりにヒカルを省みない アキラに義高は我慢出来なくなってしまったのだ。 「おれ、おまえがどうしてあんなヤツ愛人にするのかわからない。囲うにしても 他にも幾らでも良い女が居るじゃんか。男だってあいつより素直で情に厚いの がきっとたくさん居るはずなのに」 どうしてよりによってあんな冷たいヤツを大切にするのだと押さえたつもりでも 声の最後は震えてしまった。 「…あいつ、いつもおまえが書いた文を読みもしないんだぜ? なのに金ばか り大事そうに数えて…、きっと絞れるだけ絞り取ったら出て行くつもりなんだ」 こんなに何度も訪ねて行っているのにヒカルの様子を尋ねようともしない。そ れが自分はどうしても許せないのだと義高の言葉をヒカルはじっと黙って聞い ていた。 「あいつ、お前が死んだら絶対にこれ幸いにって出て行くよ」 金の切れ目が縁の切れ目とはよく言うが正にそれはあいつのためにあるよう な言葉だと、言いながら悔しくて涙が滲んで来そうになる。 「あんな…あんなおまえの気持ちがわからないヤツなんか…」 「別にさ、がめついとかそういうんじゃないよ」 しばらく黙ってからヒカルはぽつりと呟くように言った。 「あいつ、自分の家が商いに失敗して潰れちまったじゃないか。だから金子を 例えどんな僅かでも疎かに扱うことが出来ないんだ」 ましてや自分で働いて得た金では無い施しの金である。それを十二分に理解 しているからこそ何よりまず間違いが無いように最初に金額を確かめるのだ ろうとヒカルは言った。 「あいつ必ずおまえに聞くだろ? おれに持たされた金はこれで間違い無い かって」 「え…ああ。……うん」 「おれに貰った金だから一分の間違いも無いようにってあいつたぶんものすご く神経使ってんだ」 「でもそれにしたって!」 それならばそれで囲ってくれる主のことをもう少し気に懸けてもいいのでは無い かと義高は食い下がった。 「どんな薄情な金目当ての女だってお義理で一応は主の容態くらいは聞くぞ。 時には見まいや文だって返す。でもあいつは一度だってそんなことしたこと無 いじゃないか」 「…遠慮してんだよ。うちの親が嫌がるから」 それにすごい意地っ張りだからと笑うのにあいつがそんな可愛いタマかと義高 は思った。 「そんなの…おまえが都合良く解釈してやってるだけだ……」 あいつ絶対におまえが死んだって涙一つこぼさないと思うと言うのを聞いてヒカ ルは一瞬目を見開いた後、苦笑したような笑みを浮かべて「そうかもな」と言っ た。 「そうかもなって!!」 「…おまえにはヤな役目をさせちゃって悪いと思ってる。でもさ、それでも他のヤ ツには頼めないし、出来ればまた文を持って行って欲しいんだけど」 「嫌だ! おれはもっとおまえのことを大事に扱ってくれる相手じゃなきゃ何にも してやりたくなんか無いっ」 頼むから今からでもあいつは切り捨ててもっと気持ちの温かい女を囲い直して くれと、義高が言うのにヒカルはただ苦笑を浮かべたまま同じことを繰り返した。 「ごめん、それ無理。あいつじゃなきゃダメなんだ。おれ、あいつのことが好きだ から」 好きで好きで仕方が無い。だから囲ったんだよとまで言われては義高ももうそれ 以上何も言えなくなってしまった。 「だから悪い。嫌でもまた文を持って行ってくれよ」 「…わかった。いや……わかりましたよ若旦那。必ずお相手に届けさせていただ きます」 「悪いな、ごめん」 でも助かるよと、心底ほっとしたようなヒカルに義高は諦めの大きなため息をつ いたのだった。 ところがそれから店の仕事が急に非道く忙しくなり、義高は中々アキラの所に行 くことが出来なかった。 ヒカルの部屋に様子を見に行くことさえままならず、やっと行けた頃には月の半 分が過ぎてしまっていた。 「良かった、今日おまえが来なかったらおれが自分で行こうかと思ってたんだ」 ヒカルはもうすっかり顔色が良くなり咳も出なくなっている。食欲も増してほとん ど以前と変らぬ様子だったが、それでもまだもう少しと部屋に閉じこめられ続け ていたのだ。 「まったく、以前だったらおれが熱出して寝込んでようと、鼻垂らして外走り回っ ていようと無関心だったのになあ」 「それは…今はもう将来店を背負って立つ御身ですから」 今までは兄のことばかりで気にもかけなかったのに今はこんなにも過保護にな っている。 それをヒカルは本当は皮肉りたい気持ちで一杯だっただろうが両親相手に言う ことは決してし無かった。 構ってくれているだけでもマシと、早世してしまった兄と、兄を失った両親の嘆き を思いやってそう無理矢理にでも思い込もうとしているのだろうと義高は思って いる。 「それじゃ今日はこれ、よろしくな」 そう言って手渡された文はいつもよりも厚く、金子の重さもいつもよりずっと重 かった。 「こんなに…」 文はともかく金はいくら間が空いたからと言って与えすぎだとそれが顔に出て しまったのだろう、ヒカルは苦笑してそれから言った。 「大丈夫。あいつ、自分のためにはほとんど使ってないから」 「え?」 「長屋に出入りしてんのおまえも知ってるだろ? 一人暮らしの年寄りとか金 が無くて困ってるヤツにみんな渡してしまってんだよ」 「だって、貰った金だから疎かには扱えないって…」 ヒカルは確かにそう言ったはずだった。 「だから大切に使っている。自分のためには決して使わずにそれを必要とし ている人々に分け与えているんだ」 だからこそ間が空くと困るんだよとヒカルは言った。 「自分の食う分まで平気で人にくれてやってしまうからさ。だからあいつもの すごく痩せてるだろ?」 ほっそりとしたアキラの容姿を思い浮かべ、確かにそんなに良い身なりもし てはいなかったと思い返しつつ、けれどどうしてもアキラがそんなことをする とは義高には信じられなかった。 「菓子だってきっと近所の子どもらにあげちゃうんだ」 「なのに…なんで買って届けるんだよ」 「おれがあいつのこと想ってるって、それがちゃんと伝わるように」 いつも想っている。いつも気に懸けている。それを伝えるためにわざわざそう しているのだと言われて義高は意外さに驚きを隠せなかった。 「あいつの…機嫌を取ってるんだとばかり思ってた」 「アキラは菓子や物なんかで機嫌良くなったりしないよ。おれと会って碁を打つ ことが何よりの楽しみなんだから」 「そんなこと…」 「本当はさ、毎日だって文を送ってやりたい。元気だって心配するなって言って やりたい。でもおまえにそんな迷惑もかけられないから」 せめて間は空いてしまっても定期的に文や物を届けることでそれをあいつに伝 えたいんだと言われて義高は殴られたようなショックを覚えた。 「あんなヤツ……そこまでしてやらなくったって平気だよ」 「平気じゃない」 妙にきっぱりとヒカルは言った。 「平気な顔していると思うけど、あれですごく寂しがりなんだあいつ」 絶対に死んでも口に出したりしないけど、おれが行かないとものすごく寂しがる んだよと、言われて、でも義高はそれでも半信半疑でアキラの元に向かった。 言われた通りの菓子を買い、もう今では通い慣れてしまった道を歩く。 木戸を開け、玄関に立って名乗って待つ。 けれどいつもはすぐ玄関先に出てくるアキラが今日は何故か出て来なかった。 「出かけてるのかな…」 久しぶりの来訪である。今日来るとはアキラも思っていなかったはずで、ならば また長屋で碁でも打っているのかもしれない。 (でもせっかく来たんだし) 菓子を無駄にするのも何だからと義高は念のため縁側の方に回って見た。 日当たりの良い南向きの庭には萩と入れ違いに木犀が開き始め良い香りが漂 っていた。 けれど小山のような萩にもまだそれなりに花は残っていて、風に枝が揺れるたび にぱらぱらと花びらが地面に散っていた。 そして呼んでも返事を返さなかったアキラはその萩の下にひっそりと蹲っていた のである。 「お―」 おいと義高は声をかけようとした。ヒカルのこともあり、てっきり具合を悪くしたの かと思ったからだ。 けれど木戸を開け、駈け寄ろうとした瞬間、義高は自分の勘違いに気がついた。 具合が悪くて蹲っているのでは無い。アキラは泣いていたのである。 「嘘だろ…」 思わずぽろりと言葉がこぼれてしまったけれど、アキラはそんな義高にも気づか ず肩を震わせて泣き続けていた。 「もう…来ないのか…」 顔を覆う指の合間から微かに細く漏れた声は義高には確かにそう聞こえた。 もうキミは、ぼくの元には来ないのかと。 (あいつ…) 静かに声を殺して泣くアキラの回りには萩の花びらがたくさん散っていた。否、 それは膝からこぼれたのだろう、今までヒカルがアキラに送った文で、間違い 無く自分が届け続けたものだった。 それらが花のように地面に散らばっている。 アキラはきっと文が来るのを毎日待ち続け、それでも来ないので外で待つよう になったのだろう。 今まで貰った文を読み返し、新しい文が届くのを待った。 けれどそれはふいに届かなくなってしまって、アキラは堪えきれなくなってしま ったらしい。 (こんなふうに泣くのか…こんなふうに一人で…) 散らばった文と蹲るアキラの姿はいつもの憎たらしい姿ばかり見慣れていた 義高には驚きだった。 何を言っても木で鼻を括ったようなことしか言わない、可愛げの欠片も無いと 思っていたその整った綺麗な顔の下にこんなにも脆く弱々しいものがあった とは。 「そうか……だから……」 だからヒカルは自分に文を届けてくれと頼んだのかと、この時になってやっと 義高はヒカルが言った言葉の意味を理解したのだった。 あいつ、きっと寂しがっている。 いつも気に懸けているのだと、それを示すために文や金や物を送るのだと。 もしこれが普通の恋人同士ならばきっとこんなにも不安にはならないのだろ う。 けれど金で囲った者と囲われた者という繋がりはあまりにも儚く、ある日突然 何の予告も無く切り捨てられることも有り得る。 ヒカルはそんなことをする性格では無いが大店の一人息子。自分の意志だけ ではどうにも出来ないことだってきっとあるだろう。 アキラはそれを覚悟して、でもいざ実際そうかもしれない事態になった時、耐え きれず崩れてしまったのだ。 「こんなの…卑怯だ」 憎らしい、鼻持ちならないヤツと思っている方が義高にとっては気楽だった。 いつか捨てられてしまえば良いと腹の中で笑い続けたその方が間を取り持つ 身としては気に病まなくて済んで良かった。 少なくともアキラの側に愛は無い。そう思っていたのに実はヒカル以上にアキ ラはヒカルのことを愛している。 真剣な恋なのだと解ったことは義高には非道く痛かった。 「まったく…やってらんねぇな…」 大店の跡取りと男の愛人。 こんな関係がいつまで続くとは思え無い。そう遠からず自分は別れを告げる ヒカルからの文を同じようにしてアキラに届けに来る日もあるのかもしれない。 そう思ったからだ。 そしてアキラは常と変らず冷ややかに眉一つ動かさずそれを受け取るのだろ う。 (そして後で一人で泣くんだ) 「あーっ、もうっ、畜生っ」 義高は頭をかきむしりたくなる衝動を抑えると、そっと後ずさるようにその場を 離れ玄関先に戻った。そしていきなりドンドンと強く木戸を叩き、声を張り上げ るようにして何度も「御免」と叫んだのだった。 「進藤家からの使いだ、留守なら帰るぞ!」 泣き止んで出て来い。いつもの通り小憎たらしいその顔を見せやがれとやけ くそのように怒鳴り続けたらやがてようやく足音が近づいて来て、義高の目の 前でからりと戸が開けられた。 「なんだ、騒々しい」 そこに居たのはいつもの無表情に近いアキラで、それを見た瞬間義高はほっ とした。 そうだ、アキラはこうで無ければいけない。 「騒々しいっておまえが出て来ないのがいけないんじゃないか。おれだって忙し い身で来てやってるんだぞ。これからはもっと早く出て来い」 「ぼくだって暇なわけじゃない。奥で手の放せない仕事をしていたんだ」 「へえ…」 そんなことを言ってどうせ昼寝でもしていたんだろうと義高が言うのにじろりと 睨み返してアキラは文と金を受け取った。 「ご苦労様」と、素っ気なく文は胸元に入れ、丁寧に金の勘定だけはしたけれ ど、その顔色が出て来た時よりずっと良くなったのに義高は気がついた。 「間違い無く届けたぞ」 そうしてから渡すものがもう一つあったのに気がついて慌ててヒカルに言われ て買った菓子を差し出す。 「これもあいつから。お上への献上品に使われることもある上菓子だ。心して 食えよ」 「…こんなもの、別にいらないのに」 「いらないなら持って帰るぞ」 「甘いものは嫌いなんだ。でもせっかくの山田屋の菓子だからね、大切に食べ させて貰うよ」 そしてそう言いながら自分では食べず、近所の子どもらにくれてやってしまうの かと、義高は改めてしげしげとアキラを見つめた。 「まだ何か?」 「いや、これだけだ」 さあ帰れと言わんばかりの態度にやはり腹は立ったけれど、それがもし寂しさ を気取られたくないアキラの精一杯の虚勢なのだとしたら印象は変る。 「どうせあいつ宛の文なんて無いんだろう」 だったらもう行くからとくるりと背を向けたのにアキラが何か言いかける。 「あ…」 「なんだ?」 「いや、文は無いけれど…」 ちょっと待ってと奥に引っ込み、それからアキラは萩の花を一枝持って戻って 来た。 「今年最後の萩だ。どうせ伏せっていてろくに見てもいないんだろう」 散りかけのほんの僅か揺らしただけでも全て片が散り落ちるような花枝は見 舞いの品としては不釣り合いだった。 けれどさっき泣いていた姿を見た義高にはなんとなくこれを持たせるアキラの 気持ちがわかるような気がした。 待っていると。 こんなふうに花の全てが落ちるまで、いや花の全てが落ちてしまってもぼくは キミを待っているのだとそれには筆で書いた文字よりも余程はっきりと気持 ちが込められていた。 「…まあ、喜ぶかどうかわからないけど一応渡して来てやるよ」 「ありがとう」 初めて礼らしい礼を言われて義高は驚いた。 なるほどこれがヒカルが愛した相手なのかと、まいったよ、恐れ入ったよと誰 に思うでも無く一人ごちる。 「じゃあ、おれはもう帰るぞ」 くるりと義高が踵を返したその瞬間にアキラがそっと胸元を押さえて微笑んだ のが見えた。 その笑みに自分でも思いがけず義高は衝動的に振り返ってしまった。 「なに?」 「…あいつ…若旦那はもう大分具合が良いから、来週には自分でここに来ら れると思うぜ」 驚いたような表情がアキラの顔に浮かんだ。 「そう…そうか。ありがとう」 素っ気なく、冷たく言おうとしても表情は輝き、声音には溢れださんばかりの 喜びがあった。 「ま、精々捨てられないように優しく尽くしてやるんだな」 「そんなこと重々承知している」 貰った金子に見合う程度には尽くさせて貰うさと、言うことは小憎らしく素っ 気ない。 けれど体全体から滲むものがたまらないほど切ない「幸せ」だったので、この 日から義高はアキラを少しだけ嫌いでは無くなり、自ら進んで二人の橋渡し役 をやるようになったのだった。 |