EVERYDAYS−KISS
唇に落ちたキスはとろけるように甘かった―。 「遅くなっちゃったね」 夕方というよりは、もうほとんど夜に近い午後、待ち合わせた市ヶ谷のカフェに行くと、 先に来ていた塔矢はおれを見てにっこりと笑った。 「どうだった?」 何を言うよりも先に聞いてくるのが「らしい」と思いつつ、「中押しでおれの勝ち」と答 えると、納得したように頷いた。 「相手は…平野九段だったっけ」 「そ、初めて当ったから結構きんちょーした」 椅子を引き、腰掛けながら言うと、「嘘をつけ」とあっさりといなされてしまった。 「今日、負ける気なんか無かったくせに」 ぼくはキミが負けるとは欠片も思っていなかったよと真顔で言われ、おれは顔が赤く 染まるのを感じた。 「うん、まあ…確かに、今日は絶対勝つつもりだったけどさ」 富士通杯予選B、去年は最後の大詰めでうっかりと見落としをしてしまいここ止りと なってしまったので、なんとしても今年は勝ちたいと思っていたのだ。 「でも、ちょっとマジ苦しいとこもあったんだ。中盤で左辺を消しに行ったんだけど、 ハネるかノビるかで迷ってハネて、そしたら切り違えられちゃってさ」 「そんなの容易にわかっただろう?」 「んー、でも守りに出ると思ったんだよな」 そういう所がキミは甘いんだよと、いつの間にか塔矢はテーブルにコップの水滴を 使って線を引いている。 「どこでどうしたって?」 「だからさ、中央に厚みが出来たからじゃあ左って思ってさ」 人が見たらなんだと思うだろう。何も無いテーブルの上を男二人が顔突き合わせ ながら、ああでも無い、こうでも無いと指を動かしているのだから。 「左下の二子を取ることは取れたんだけど、利かされた気分であんま気持ちよくな かったな」 「だったらどうしてその前にツケていかなかったんだ」 飲んでいたグレープフルーツジュースのグラスに何度も触れながら、塔矢はテーブ ルの上に指を走らせる。 「ここでポンヌキを許さなければ、連絡は完璧だったろう?」 「いや、だからさぁ」 ほんのちょっとのミスや、手の甘さを絶対に許さない、こいつとの検討はいつも半ば 喧嘩になってしまうのだけれど、今回は途中で水で引いた線が混ざり合ってしまい、 わけがわからなくなってしまったのでそこまで行かなかった。 「あーあ、なにやってんだろうな、おれ達」 気がつくと二時間ばかりを窓際の席で過ごしてしまっていた。 「おまえ、ジュース、氷が溶けきってるぞ」 まだ三分の一ほどしか口をつけられていなかったグレープフルーツジュースは、途中 から棋譜を書くためにしか使われなくなったために、すっかりと氷が溶けて、上部に 水の層が出来てしまっていた。 「キミなんか、何も注文してないじゃないか」 塔矢がおれの前のがらんとした空間を指して笑う。 「ぼくたちはあんまりいい客じゃないね」 窓際の一番いい席をジュース一つで長っ尻する。確かにそうだとおれも苦笑してしま った。 「何時?」 時計を見たのに塔矢が言う。 「八時…十三分かな」 「もう?」 今更だと思うのに、おれが言った時間に塔矢は少し慌てたようだった。 「ごめん、どうしよう、この時間からだと映画は間に合わないね」 「や、いいよ。対局後だし、疲れてるし、メシだけ食って帰ろう?」 「でもそんな…せっかくのキミの…」 キミの誕生日なのにと、思い詰めた顔で言われてもう十分と思ってしまった。 「んー、でも本当にいいんだって。検討、何時に終わるかわかんなかったし、その後 で行くのはギリギリかなと思ってたし」 見たいなと思う映画があって、だからそれを見て食事をしようとデートの予定をたて てはいたものの、そこまで無理に実行したいとは元からおれも思っていなかった。 「っていうかさ、おまえ居てくれるじゃん?おれ、そんだけで十分満足だからさ」と、言っ たら塔矢の頬が、さっと桜色に染まった。 「き…キミは安上がりだな」 「そう?」 「そうだよ、プレゼントは何もいらないって言うし、せっかくの誕生日なのに、待ち合わ せて食事するだけでいいって言うし」 でもその、待ち合わせて食事ってのがいいんだけどなあと言うと、塔矢は「バカだ」と言 って、でも少し笑ったようだった。 「じゃあ食事?」 「ん。おまえ何食べたい?」 「ぼくは別になんでもいいけど…出来れば和食がいいかな」 「おっけ、和食ね。こないだ和谷達と行った居酒屋がさ、居酒屋のくせに海鮮美味くてさ」 地酒もいいのがあるからそこに行こうと言うと、塔矢は少し考えてからこくりと頷いたのだ った。 「さっき何考えてたん?」 駅から十分ほど歩く居酒屋までの道のり、ふと気になって尋ねて見ると塔矢は一瞬黙って からため息をついたのだった。 「いや、キミの誕生日なのに、結局ぼくの好みで店を決めているなと思って」 「なんで?美味い店だっておれ言ったじゃん」 「でも本当はキミは、洋食や、もっとボリュームのあるものの方が好きだろう?」 なのにぼくに合わさせてしまっていると申し訳ない気分になったのだと塔矢は言うのだった。 「誕生日くらいキミの好きなもので良かったのに」 ラーメン屋でもなんでも付き合うのにと塔矢にしてはものすごい譲歩をされて、思わず笑って しまった。 「別に―嫌いじゃないって言ったじゃんか。酒も魚もおれ好きだよ? おまえと付き合うように なって好きになったの」 にぎやかな店でラーメンをすする。それも確かに好きだけれど、塔矢と向かい合い、うまい肴 を前にしながら一献傾ける、それもいいなと最近は本当に思うのだ。 「年くってきたってことなのかもしんないけどさ」 「まだ二十歳だろう?キミ」 同い年でそんな老け込んだことを言われたくないなと苦笑されてしまった。 「今日から二十一だよおれ。おまえよりか一歳お兄さんです」 そう言ったら、じゃあキミの奢りだと返されてしまった。 「誕生日だし、本当はおごってあげようかと思っていたけど、年長者に甘えさせてもらおうかな」 「いいぜ、その代わりちゃんとプレゼントはくれよな」 「プレゼントはいらないってキミが―」 「そうじゃなくてアレだよ」 忘れちゃった?と言うと、塔矢はしばらく黙った後にみるみる赤くなって言った。 「忘れられるわけ無いだろう?」 一年前の誕生日、何かくれると言う塔矢におれはキスをねだったのだった。 「キス?それだけでいいの?」 「うん、その代わりこれから一年間毎日して」 「毎日?」 おれを好きって気持ちで毎日必ずキスをしてと、そう言ったら塔矢はそんなものでいいのかと 呆れたように笑って、でも優しくキスをしてくれたのだった。 それから一年、手合いの関係や途中で一緒に住みだしてからは喧嘩なども加わり、本当に毎 日のキスでは無かったけれど、それ以外は塔矢はおれにキスをしてくれたのだった。 「ってことで、だから…しよう?」 「ここで?」 「そ、だからわざわざ人通りの少ない道を選んだんじゃん」 居酒屋への道は、微妙に大通りを外れている。会社関係が多いので昼は人通りが多いけれど 、夜になるとほとんど歩く人の姿は無くなってしまうのだった。 「それで和食でいいって言ったんだな!」 「んー、まあそれもちょっとある」 だってどうしても今日、おまえからキスをもらいたかったんだもんと口を尖らせて言ったら子ども かと言われた。 「…もう、こういう時のキミの用意周到さには負ける」 実際、この瞬間も人通りは無く、塔矢は諦めたように大きくため息をつくと、追い越してしまった おれの背を恨むように少しだけ背伸びをして、それからちゅと優しく頬にキスをしてくれたのだった。 「…満足?」 「ん、満足。これ…320回目くらいのキスかなあ?」 会えなかった時間は、もしかしたらもっとあったかもしれないけれど、気持ち的にはそのくらいして もらってきたような気がする。 「…365回目のキスだよ」 けれど塔矢はそんなおれに薄く笑むと、どうしようか迷うようにためらった後言ったのだった。 「キミと喧嘩した時も、お互いに対局があって会えない時も、ぼくはずっと心の中でキミにキスをし ていたから」 だから365回だよと、言われた時には意味がわからなくて、でも、わかった瞬間幸せで死にそう になった。 「え? 嘘っ!マジ?」 「正しい日本語を話せ!」 「だって、だって、だって、おまえがそんな嬉しいことしてくれてたなんて」 信じられねー、嬉しいと、繰り返すおれを怒鳴ろうと殴ろうか塔矢は迷ったようだった。 けれどそれのどれもせず、ただ優しく微笑むと、さっきとは反対側の頬にもキスをしてくれたのだ った。 「366回目」 くすりと笑いながら言う。 「キミが望むなら、これからの一年も、十年先でもずっとキスをしてあげるよ」 「百年でも?」 「うん」 「死ぬまで毎日してくれる?」 「死んでも、生まれ変わってもしてあげるよ」と言われて、天にも昇りそうな気持ちになった。 「う…嬉しいけどおれ、どうしたらいいだろう」 こんなにも幸せなプレゼントをもらってしまって、でも何も返すものが無い。 「何か欲しいもんない? おれ、おまえになんでもしてあげたい」 今だったらおれ、おまえの奴隷になったっていいよとそう言ったら、塔矢はこんな我が儘でお おざっぱな奴隷はいらないと笑いながら言った。 「じゃあ…そうだな。ぼくはキミにキスを送るから、代わりにキミもぼくに毎日キスをすること」 365日、毎日ぼくを想いながらキスをして欲しいと言われておれの思考は一瞬止ってしまった。 「え…?そんなんでいいの?だってそれじゃ、おればっかいいじゃん」 毎日塔矢にキスしてもらえた上に、塔矢にキスをしてもいいだなんて、おれにばっかりおいしく て申し訳ないと、そう言ったら塔矢は笑って「違うよ」と言った。 「キミにキスをして、キスを返してもらえる」 ぼくの方がおいしい思いをさせてもらえるんだと言われて、かあっと全身が火照り、もう何も考 えられなくなった。 「そのくらいぼくはキミが好きなんだよ」 知らなかっただろうと言われて、指先まで熱くなった。 「お…おれもおまえが…好き」 大好きデスと、かすれた声で言いながら、おれは溢れてきた想いに突き動かされるように塔矢 をぎゅうっと抱きしめていた。 痛いと言われても離せないほどに、愛しくて愛しくてたまらなかった。 「キス…してもいい?」 耳元に囁くように言うと、あいつの耳もさっと赤く染まった。 花が散るように肌に広がった赤い色は、色っぽくてとてもキレイだった。 「…いいよ」 返事が返るより先に、こめかみにちゅとキスをすると、塔矢は軽く睨むようにして、でもそれはす ぐに幸せそうな笑みに変わった。 瞼に、頬に、鼻に、そして唇に降らせるキスにあいつはくすぐったそうに、嬉しそうに笑い声をあ げた。 「愛してる…進藤」 唇が離れた時、逆にぎゅっとあいつの腕がおれを抱きしめてきた。 「愛してる、大好き」 少しだけうわずったような声で言うと、今度はあいつの方からキスをしてきた。 「一生、キミだけが好きだよ」 キミだけをずっと愛しているよと、深く、深く合わされる唇は甘くて、とろけそうなぐらいに幸せ な味がした。 367、368…370と途中まで回数を数えていたけれど、途中で面倒くさくなってやめてしまった。 「こんな所…人に見られたら大変だ」 そう思いながらも、おれ達はもう止められなくて、道の端、気が遠くなるまで甘いキスを繰り返 したのだった。 |