供花



ぼくが喪主として祭壇の前で弔問客に挨拶をしている時、進藤は門の外で他の人達と一緒に、来た人が
迷わないよう誘導してくれていた。



「この度は誠にご愁傷さまで―」

「ありがとうございます。長患いではありましたが最期は家族に見守られながら穏やかに逝く事が出来ま
した」


何十、何百という人達に同じような言葉を返し、深く畳の上で頭を下げる。

「いつか絶対負かしてやろうと思ったのにこんなに早く逝っちまいやがって」

門下の人達と一緒に来てくれた森下先生が父の写真を見ながら男泣きに泣いたのには少し驚いて、でも
とても嬉しかった。


塔矢門下と森下門下は犬猿の仲と言われていたけれど、この人もまた父の若い頃からを知る良いライバ
ルだったのだと改めて知る。



「進藤がついてるから平気だと思うけど、あんま気ぃ落とすなよ」

喪服に身を包んだ和谷くんが複雑な顔で、でも気遣ってくれたのも嬉しかった。

「おれ達もこのまま手伝いに回るから、なんでもやることあったら言ってくれよな」

「ありがとう。裏方はほとんど芦原さん達に任せてしまっているからそっちで聞いて貰えるかな」

「解った」

白川先生と冴木さんと伊角さんに混じって越智君や本田さんもいて、ぼくに向かって無言で静かに頭を下
げた。


座間先生や一柳先生、芹澤先生も早くから来て下さっていて、緒方さんがずっとその相手をしてくれている。

桑原先生は数年前に亡くなってしまっていたけれど、いればきっと誰よりも早く駆けつけてくれたんだろうと
思う。



父は多くの人に慕われていた。

尊敬され、恐れられてもいた。

それが今日の通夜でよく解った。


「アキラさん、興福寺のご住職様がいらっしゃいましたよ」

親戚の叔母が部屋の隅から声をかける。程無くして金糸を織り込んだ立派な袈裟を着た禿頭の僧侶が入
って来た。


「ご無沙汰しております」

「いやあ、行洋さんも逝ってしまわれましたか」

父とは昔からの付き合いがあった住職は写真の父を見上げながら大きく一つ溜息をついた。

「最期にお会いしたのはいつでしたかな。少しお痩せにはなったが、まだまだ元気でいらっしゃるものと思っ
ていたのに」


「父もご住職と打つのを楽しみにしていました。病室でもまたそちらに伺いたいと言っていたのですが実現し
ませんでした」



海外から来てくれた人もいる。

中国棋院や韓国、台湾。父が海外で過ごすようになってから親しく付き合っていた人ばかりだ。

『皆とても残念がっています。塔矢先生はこちらでも随分活躍されていましたから』

『ありがとうございます。来年の棋戦には参加するつもりで調整もしていたのですが…残念です』

母はぼくのすぐ隣で黙って一緒に頭を下げている。

時折かけられる言葉に感謝の言葉を返してはいたものの、ほとんど挨拶はぼくに任せ、悲しみの重さに一
人じっと耐えている。


ただ一度、進藤のご両親が来てくれた時には薄く涙を滲ませながら受け答えをしていたけれど、それ以外は
口を開くことも無かった。


この半年で母は随分痩せた。父の前では明るく気丈に振る舞っていたけれど、内心かなり辛かったのだろう。
削げるように細くなった体が見ていてとても痛ましい。


やがて読経が始まり、ぼくは母と共に静かに頭を垂れると、よく通る声が父の戒名を読み上げるのを様々な
感情が押し寄せるのを感じながら聞いた。


清めの席で、母は親交があった人達と父の思い出話を始めた。ぼくはビールを片手に座る人々の間を周り、
改めて挨拶をして回った。



「本当に残念なことだけど、こんな立派な息子さんがいるんだから行洋さんも安心ね」

「いえ、親不孝ばかりしていましたから」

「そんなことは無いでしょう。会うといつもアキラくんの自慢ばかりしていましたよ」

父はとても子煩悩だった。

表立っては滅多に褒めることはしなかったけれど、愛されているのは知っていたし、よく人から父の親馬鹿っ
ぷりも聞かされていた。


「そういえば…あの方来ていらっしゃるの?」

おずおずと聞かれてはっとした。

「はい、彼には今外周りを手伝って貰っています」

「そう? そうよね。いくら入籍されたとは言ってもこんな場にはね…」

言葉を濁して去って行ったけれど、他にも何人か同じような質問をぼくにした人がいた。

『別にいいじゃないか、母も居て欲しいと言っているし、父だってキミのことを息子だと思っていると言っていた』

『そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、でもきっと面白く思わない人もいると思うよ。こんな時につまらないことで
お義母さんを悩ませるのも嫌だし、先生には静かに旅立って欲しいから』


だから自分はずっと裏方仕事に回ると進藤は最初にそう言っていた。

ぼく達は一昨年籍を入れて結婚していた。

もちろん日本に同性同士の婚姻を認める法律は無い。だから実際はぼくが彼の養子として入籍したのだけれ
ど、ぼく達はそれを結婚だと思っている。


そうなるまでには双方の家族を巻き込んで随分長い話し合いがあり、一時、縁を切られたこともあったのだけ
れど最終的には許して貰った。


元々父は子どもの頃から進藤のことを気に入っていた。だから頑なな心がほぐれてからは実子のぼくと同様に
彼のことを扱っていた。


臨終の際、立ち会った中には進藤も居たし、彼は最期に父と何か話をしていた。

何を話していたのかは知らないけれど、きっとぼくや母のことを頼むという内容だったのではないだろうかと思っ
ている。


手を握り、ゆっくりとベッドから離れた時の進藤の顔をぼくは今でも忘れない。


「おまえ、まだ着替えて無かったんだ」

進藤がぼくに声をかけたのは夜の十二時近くなってからで、彼は通夜と明日の葬儀のために遠方から来てくれ
た父方の親類を駅前のホテルに何度も往復して連れて行ってくれていた。


「ついさっき、最後のお客さんが帰られた所なんだよ」

まだ通夜だというのに強かに酔っぱらってしまった人が数人いて、一室に布団を敷いて寝かせていたのだけれ
ど、やっと全員の目が覚めて無事に帰宅の途に就いたのだ。


「それは解るけどさ、おまえ一昨日から一睡もして無いじゃん。明日も早いんだからちょっとでも寝ないと持たな
いぜ」


「それはキミも同じだろう」

「お義母さんは?」

「先に床に就いてもらった。ぼくはもう少しお父さんと話しをしていたかったから」

祭壇の前、線香立てに線香を一本たててぼくはじっと座っていた。

置かれている棺の中には父が居て、顔を見ることも出来たけれど、なんとなく写真の方の父を見てしまってい
た。


「線香番もやるつもりかよ。そんなのおれがやるからおまえ風呂にでも入って来いって」

「だから、それはキミも同じだろう?」

むっと軽く彼を睨んで、でもふいに気が抜けてその胸の中に崩れるようにもたれる。

「…疲れた?」

「うん、ちょっと」

普段これほど長い時間、これほど多くの人に拘束されて過ごすことは無い。それに少し神経が疲労したのだ。

「マジでちょっとだけ安めよ。三十分でいいから寝てくれたら後はもう文句言わないから」

「本当だな?」

「うん、本当」

じゃあお言葉に甘えてと、ぼくはそのまま彼に抱かれて体中の力を抜いていた。そんなに気を張っていたつも
りは無かったのに、途端に強い睡魔が襲い目を開けていることも出来なかった。


「眠れよな?」

「…うん」

そしてそのまま眠ってしまった。

不自然な格好でスーツのままで寝ているものだから熟睡は出来なかったけれど、でも彼の腕の中はとても安
心出来て穏やかで、温かかった。


夢に近いようなものもちらほら見たけれど、どんなものだったか内容までは覚えていない。


次に気がついたのは母の声がしたからで、でもまだ朝にはなっていなかった。

「あら」

頭上で声がした時に起きなくてはと思ったけれど体が言うことを聞かなかった。

「寝かせてくれたのね、ありがとう。アキラさん喪主だからってずっと頑張り過ぎちゃって眠る気も無いみたい
だったから」


「お義母さんは寝たんですか? ここはおれが見てますから、朝までゆっくり休んで下さい」

「ええ、そうさせて貰うわ。明日はもっとたくさんの方がいらっしゃるでしょうし、お墓の方にも行かなくちゃいけ
ないから」


「朝になったら親戚の皆さん迎えに行って来ます」

「ありがとう、私もアキラさんも動けないから助かります」

緒方さんや芦原さんも明日また早く来てくれることになっている。弔問客が多いので手伝ってくれる人達には
心から素直に感謝していた。


本当は親類にやって貰えばいいようなこともあったけれど、名ばかりで本当に親しい付き合いをしている者は
一人も居なかったのだ。


けれどそんな親類でもこんな時には出しゃばって来る。それを嫌って母は広いこの屋敷に誰を泊めることも無
く、わざわざ金を出してまでホテルに泊めることにしたのだった。


「進藤さん、今日は誰にも苛められなかった?」

母の声にぼくの頭を撫でていた進藤の手が一瞬止まる。

「んー、苛められるってことは無かったですね。でもちょっと、そうだなあ珍獣みたいには見られたかな」

「嘘おっしゃい、志賀のおばさまに行洋さんの寿命を縮めたって嫌味を言われていたじゃないですか」

「あれ? 見てたんだ」

「見て無くても聞こえます。あんな大きな声で言われては」

それはぼくも聞いていた。弔問客の半分程が驚いて振り返るような大声だった。

大袈裟な程に涙を流した叔母は、門の外から玄関口での受け付けに回った進藤を見つけてこれみよがしに言
ったのだ。


『図々しいわね。あなたが行洋さんを殺したようなものじゃないの』

進藤はそれに何も答えず、ただ静かに申し訳ありませんと頭を下げて居た。

「あの人、十年くらい前に借金をお断りしてから疎遠になっていたのに、まるで自分だけが行洋さんの味方みた
いに振る舞うんですからね」


呆れちゃうわと母が苦笑のような笑みを漏らしているのが気配で分かる。

「でもそんなものじゃないですか。それにあっちから見たらおれは部外者だし、なのにこんな席に居るのは不愉
快なんじゃないかと思います」


「それでも―あなたは私達の家族なんですから、居て下さって当たり前なんです」

「明日はもう少し目立たないようにしてます。側に居て支えられないのは辛いけど、でもその方がいいと思うん
で」


「進藤さん、今日より目立たなくなったら本当に居るのだか居ないのだか解らなくなっちゃってよ?」

小さく母が笑った。父が逝ってから初めて聞く母の笑い声だった。

「お義母さんも辛いのになんですが、こいつのことよろしく頼みます」

「それはこちらのセリフよ。アキラさんのことよろしく頼みますね」

あまり無理しないように、適当な所で今みたいに休ませてあげてちょうだいと、一体この二人はぼくを何だと思っ
ているのかと思ってしまった。


「…そろそろ寝るわ。後はよろしくお願いします」

「はい、おやすみなさい」

そして再び辺りはしんと静かになった。

「こら、狸寝入り」

少しして進藤がぼくの頬に触れながら優しい声で言った。

「いい加減本当に眠らないと朝になっても起こさないぞ」

「…狸寝入りなんかしてない。喋っている声で…起きたんだ」

「そっか? 悪かった。じゃあもう一度寝ろよ、本当に三十分で起こしてやるから」

「…嘘つき」

三十分で起こすつもりなんか無いくせに。

「ん?」

「いいよ、眠る。気持ち良くて実際起きられないんだ」

「そうか、おれは寝心地良いのか」

「うん」

ぎゅっと抱きつくようにして再びしっかり目を閉じる。

父と母と三人で過ごした家。その家に今は母とぼくと進藤の三人が居る。

一人欠けて一人増える。

父の不在は寂しくて、とても心細い気持ちになったけれど、進藤が居るので安心出来た。

『お父さん』

とろとろと眠りながら祭壇に居る父に呟く。

『どうかもう、心配しないで』

薄目に見た父の写真は少し笑ったように見えた。ずっとずっとぼく達をその大きな手で守ってくれた父。

『ぼくもお母さんも、彼が居るので大丈夫です』

何か言ってくれたらと願ったけれど、写真の中の父は何も答えてはくれなかった。


※この話を書いたのは数年前で、出す機会を見計らっているうちにそのままになってしまっていました。
内容がこうですし、これを今出すことを不謹慎だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、なんとなく今年、そして今年の最後の日である今日かなあと。
皆様の来年のご多幸を祈りつつ。2013.12.31 しょうこ