目隠しの国‐after‐
「塔矢くんは初恋の人っているの?」 そう聞かれたのは、「週間碁」の編集部でのこと。 前の週に行われた天元戦の予選のことで少しコメントをと言われて立ち寄ったら、 ふいにそんなことを聞かれたのだ。 「それも記事にするんですか?」 碁と全然関係が無いじゃないかと思いつつ、天野さんに尋ねると「いや、単に個人 的な好奇心なんだけれどもね」と言われた。 「これと言って、そういう人はいないですね」 「小学生の時に同じクラスの女の子とか好きにならなかった?」 「いえ、あまり話もしなかったし」 「気になって仕方無い子とか…」 「そんな人いませんでした」 答えつつ、小学生の進藤がぱっと頭に浮かんでしまい、違うだろうと自分で苦笑し てしまった。 「強いて言うなら」 碁でしょうかというと、今度は天野さんが苦笑した。 そのことだけをいつも考える、それを恋というのなら、間違いなく自分は囲碁に恋 をしているのだと思うのだが。 「本当に君は碁のことしか考えていないんだね」と少しだけ呆れたように言われた。 個人的な質問と言っていたくせにどこでどうなったのか、その答えは雑誌にそのま ま載せられてしまい、しばらくの間、人に会う度に、からかわれることになった。 「なーなー、あの記事読んだ?」 和谷が話しかけるのを塔矢が聞いたのは、ちょうど六階にあがりかけた時のことだっ た。エレベーターがなかなか下りて来ないので階段を使い、上り切ったところで声が聞 こえた。 「この間の週間碁のあれ」 一歩踏みだそうとした所で耳に入り、ぴたりと足が止まる。そっとのぞいて見ると、自動 販売機の前でコーラを飲みながら、和谷や進藤など見慣れた顔ぶれが集まって話をし ていた。 「記事って塔矢の初恋がどうとかってやつ?」 冴木が言うのに、そうそうと和谷がうなずいて、塔矢は出るに出られずに二段ほど下り て様子をうかがうことにした。 「なあ、あれってマジかな」 興味津々と言った感じで和谷が言う。 「さあ、でもいかにもって感じじゃないですか?」 そう答えたのは意外にも越智の声で、それを受けるように奈瀬も口を開いた。 「でもあの顔で幼稚園の先生とか言われると、すごい変な感じがするかもぉ」 「なあ、本当の所はどうなん? あいつマジで初恋の人っていないの」 「ってどうしておれに振るかなあ」 それまで黙っていた進藤が急に喋ったので、塔矢はどきりとした。 「おれ、あいつとそーゆー話、しないもん。あいつがそうだって言うんならそうなんじゃ ないの?」 意外なほど素っ気ない反応に、塔矢はほっとして、でも同時に少し寂しい気持ちにも なった。進藤はその程度の関心しか自分に持っていないのかと思ったからだ。 「えー、つまんねぇの。一番塔矢のことに詳しいのおまえだから、それで聞いたのにさ」 「だって知らねぇもんは知らねぇもん」 そんなことより、みんなの初恋っていつ?と進藤が逆に振って、話題は突然それぞれ のことに変わった。 「おれは幼稚園の時かなあ。同じクラスでカワイイ子がいてさぁ」 和谷が言うと、競うように冴木も言った。 「おれは中学の時の先輩。すごい美人でさ、スタイルもよかった」 「ヤったの? 冴木さん」 ぼそっと進藤が聞くのに、冴木はコーラを吹き出したようだった。 「そんなんじゃない!! 単に憧れてただけだっ! それより進藤、そんなこと言って おまえはどうなんだ? 初恋の人って…」 「いるよ」 あっさりと進藤が言うのを聞いた時、塔矢はまたドキリと心臓が鳴るのを感じた。 そうか進藤には初恋の人がいたのかと、別に不思議でもなんでもないことに動揺す る。 「えーっ、それ初耳、教えてっ」 奈瀬が飛びつくように言い、和谷も「おれも知らねぇ、教えろよ」と促した。 「んーと、中学ん時かなあ、余所の中学の創立祭で一目惚れしたんだよなぁ 「年は?」 「たぶん同い年」 「美人?」 「美人、美人、もう最高美人」 なんかレースがすげーついたびらびらの服着てて、長い黒髪にやっぱりレースのリ ボンがついていて。と、ここまで聞いて塔矢はぎくりとした。 なんだかどこかで聞いたような…。 「名前は?」 「えーと、確か…ビクトリアだったかな?」 なんだガイジンかぁ?と驚いたような声が上がる中、塔矢はそっと後ずさって階段を 下りた。 (まさか覚えていたなんて) 気が付けば手のひらに汗をかいていた。 数年前、姉妹校の手伝いと言って無理矢理させられた女装碁のことは、永遠に忘れ られない記憶の中の汚点となっている。 あの時、偶然出会った進藤が自分に気が付いたのか気が付かなかったのかは今も わからないけれど、今まで一度もそのことを言わないので忘れているものとばかり思 っていた。 あの時、最後に進藤に詰め寄られて―。 キスをされたことを思い出して無意識に唇を指でなぞる。 思えばあれも初めてのキスだったのだと考えたら、信じられないくらい鼓動が早くなっ てきて、とても平気な顔で皆に混ざることなんか出来ないと思った。 (少し時間をずらしてから行こう) せめて話題がまた別のことに変わってから行かなければと、思いつつ一階に降り立っ た時だった。 「遅ーい」 にっこりと笑って進藤が目の前に立ちふさがった。 「キミ…なんでっ」 心臓が本当に止まるかと思った。 「だって、六階に…」 慌てふためく塔矢の腕をつかむと、進藤は有無を言わさずエレベーターに乗り込んだ。 「最初におまえが階段で上ってきた所、見てたもん。でその後ずーっと立ち聞きしてた のも知ってた」 六階とボタンを押して、塔矢を振り返る。 「それでもって逃げたのもわかったから、ちょうど来たこれで追い掛けて来たんだ」 さすがにボロでもエレベーターの方が早いなと言って人の悪い笑みを浮かべる。 「なんでおまえ、いつも逃げちまうの?」 「だってそれは…」 言いかけてはっとする。 「やっぱりキミ…あの時、気が付いて」 かーっと顔が赤く染まる。 あんな、あんな恥ずかしい格好をした自分を覚えてなどいて欲しく無かったのに。 「大丈夫だって、あん時も、今もおまえすげー美人だから」 耳元にささやくように言うと、進藤は塔矢の頬にキスをした。 それからじっと目を見つめ、ゆっくりと唇を重ねる。 あの時と同じ。 あの時よりもずっと。 甘い―甘いキスを―。 がくんと軽い衝撃と共にエレベーターが六階に着く。 はっとして身を離すその前に、一瞬ぎゅうっと進藤は塔矢を抱きしめて「大好き」 と言った。 「あの時、一目惚れしたっての本当だから」とそう付け加え、先に皆が待っている 場所に行ってしまう。 一人残された塔矢は降りようとして、でもボタンを押してドアを閉じた。顔が真っ赤 にほてっているのが自分でわかったからだ。 (こんな顔で皆の前になんか行けない) バカみたいだと思いつつ、また一階に下りて隅に行き、階段の最後の段に腰掛 けた。 ひんやりとした空気の中、両手で頬を覆い、ため息をつく。 (これじゃまるで、あの時と同じだ) 胸がドキドキして、苦しくて息が出来ない。 あの時はそれが何かわからなかったけれど、今の塔矢は知っている。 「もしあれがキミの初恋だって言うのなら…」 ぼくの初恋の相手もキミだよと、塔矢はほてった頬を押さえながら、一人、ぽつり とつぶやいたのだった。 |