直会‐なおらい‐
(鎮魂花3)
最後の客が帰ると部屋の中は急にしんと静かになった。 昨日からずっと慌ただしく、何を考える間も無く立ち動いてきたけれど、こうして一人になってしまうと、 もうこの次に何をやっていいのかまるっきりわからなかった。 振り返る部屋の奥、音も気配も何も無くて、せめて時計の針の音でもしていてくれたら良かったのにと 思う。 長らく使っていた掛け時計はつい一ヶ月ほど前に壊れてしまい、次のものを買う時にあいつが静かなもの がいいと言ったのでそうしたのだった。 『だってその方が、キミの気配をいつも感じていられるからね』 歩く音や吐く息、何気ないしぐさをいつも感じていたいんだよと、あいつは出逢った頃からほとんど面影 の変わらない整った顔で照れくさそうに言った。 『それに、静かな方が集中出来るし』 それって碁かよ、どっちだよと言ったら真っ赤になって怒っていたけれど。 「こんなことなら…あいつがなんて言ってもウルサイやつにしときゃ良かった」 そうすれば今、こんなにも思い知らされるほどの静寂に取り残されることは無かっただろうに。 何もすることが思いつかないので、取りあえず茶でも入れるかと台所に立った時、ふいに携帯が鳴った。 家の電話は客が帰ったのと同時に線を引き抜いていたけれど、こちらの電源を切るのはうっかり忘れてい た。 「―はい」 『あ、おれだけどさ』 カウンターの上に置きっぱなしにしてあったのをほとんどほとんどひったくるようにして開く。一瞬、本当 に一瞬、期待してしまったために、聞こえてきた和谷の声に信じられないほど落胆した。 『進藤?』 「ん?…ああ、なんだよ」 『いや、やっぱおれそっち行こうか』 心配だから一緒にいるよと言われて大丈夫だと答える。 「今やっと誰もいなくなって、ちょっとしたら寝ようかと思ってた所だし」 『それ、本当にフツーに眠るんだよな?』 念を押されてしまうほどにおれはダメっぽいのかと思い、苦笑してしまった。 「ああ、大丈夫。マジで本当にただ寝るだけだから」 おれここ数日寝てないからさと言うと、和谷はしばらく黙り、それから『そうだったな』と言った。 『まあ、じゃあいいけど起きたら連絡いれろよ? 一緒にメシ食いに行こう』 おまえほっとくとなんも食わなさそうだからと言われれて「ああ」と答える。でも、もしかしたら声は、虚ろだ ったかもしれなかった。 電話を切った後、やかんに水を入れ、湯を沸かす。 沸くまでの間、なんとは無しに携帯を手の中で弄び、そういえばここしばらくメールをチェックしていなかった ことを思い出して受信ログを見てみた。 いちいち開く事はせず、件名だけを見ていく中、呆れるほどたくさん届いていたメールの一番下にあいつか らのメールが入っているのに気がついて、おれは心臓が止るかと思うほどドキリとした。 慌てて開いてみると、どうやらそれは先週、地方対局に行った時におれに寄越したものらしくて、旅館で食 べた名物と地酒がおいしかったので買って帰ると簡潔な文章で書かれていた。 「なんだ」 ほっとしたような、がっかりしたような。でも素っ気ない報告文のようなそのメールの最後が「愛してる」と、「 早くキミに会いたい」と、そこだけ気持ちが溢れた言葉で締めくくられているのを見て、おれは胸を突かれた ような気持ちになった。 「…なんで、気がつかなかったんだろう」 たぶん少し遅れて届いたのだろう。このモデルの携帯はたまにこんなメールの遅配をすることがあったので。 この対局から帰ってくる途中、あいつは倒れてそのまま入院してしまったから、おれはメールを見ることが無 かったのだ。 (どんな顔してこれ打ったんだろう) 自分の好きな、照れくささを必死でこらえるようなあの顔で打ってくれたんだったら嬉しいなと思った。 「えーと…」 返信を選んで、メッセージを作る。 「お、れ、も、は、や、く」 おまえに会いたいですと。そう打って祈るように送ると、しばらくして襖の向こうで着信音がした。 いつもなら、5分と開けずに返ってくる返事はいつまでたっても返って来ないので、仕方なくまたメールを 打つ。 「お、ま、え、が、い、な、い、と、さ、び、し、い、で、す」 早く帰ってきて抱きしめさせてと、再び送信するとまた和室で着信音がした。 待っても待っても塔矢からの返事は返って来ない。 そうわかっていたけれど、もしかしたら返ってくるのではないかと思ってしまって、おれはそれから何回も 何十回もメールを送ってしまった。 やがてちゃんと充電していなかった携帯が電池切れになってそれは止ったのだけれど、そうでなければ 一晩中でもメールを打っていたかもしれなかった。 「湯が…無くなっちゃったな」 取憑かれたようにバカなことをしている間にせっかく沸いた湯は皆蒸発してしまっていて危うく空だきにな る所だった。 『だからそうやって何かをしながら何かをするのはやめろっていつも言っているだろう』 何度言ったらわかるのだと、怒鳴られたような気がして思わず顔を上げる。 でも、当たり前だけど部屋には自分一人しかいなくて、思わず大きなため息が出た。 沸かし直すのも面倒くさく、ウーロン茶でも無かったかと冷蔵庫を漁ると、見慣れない箱が入っていた。 取り出してよくよく見ると、それは倒れた時にあいつが持っていたもので「要冷蔵」と書かれていたので 持って帰ってきた時に何も考えず冷蔵庫に入れたものだった。 改めてラベルを見るとそれは「冷酒」で山形の有名な酒蔵のものだった。 (これか) メールであいつが書いていたのはこれのことだったのかと今頃思った。 酒を飲むのもいいかもしれない。 思い返せば一昨日くらいから自分は水も食べ物も何もとってはいなくて、でも不思議と飢えも乾きも感じ ない。何も摂る気持ちにならないからだったけれど、酒なら喉を通りそうな気がした。 酒の瓶と切り子のグラスを二つ持ち、奥の和室に向かう。 「せっかくだし…打つかな」 飲みながら打とうかとふと思いついて、部屋の隅に片しておいた碁盤を中央に運ぶ。 白い祭壇のちょうど前に来るように置いて目をあげると、笑ったあいつの顔に出逢った。 「おまえも飲むよな?」 ささやきかけても返事をしない。でも思ったほどそのことにショックを受けなかったのでおれは少しほっとし て、二人分の酒をグラスに注いだ。 手書きのラベルが貼られたキレイな淡い桜色の瓶からはワインに似た芳香が漂って、ああ本当にいい酒 なんだなと思った。 おれはどちらかと言えば、ビールやワインの方が好きでそればかり飲んでいたのだけれど、塔矢と暮らす ようになってからは日本酒もよく飲むようになった。 「…おまえ、美味い酒をよく知ってたもんな」 清廉潔白なくそ真面目な印象があるくせに、実は塔矢は結構な呑兵衛で、しかもかなり強かった。 下手をしたらこちらの方が先につぶされてしまうので、飲む時は用心しいしい飲んだものだったけれど。 「じゃあこれおまえのだから」 そっと畳を滑らせるようにしてグラスを置いてやり、それから碁笥の蓋を取る。 「…おれが握るんでいいんかな」 じゃらとひとつかみ白石を取ると、碁盤の上に広げる前にもう片方の手で、今度は黒石を二つ取った。 ゆっくりと広げた白石は七つで、おれの先番だった。 「…いつのにする?」 黒の碁笥をこっちに、白の碁笥を向こう側に置くとおれはあいつの写真に向かった囁いた。 「本因坊戦、決勝がいいか? それともNEC杯にすっか?」 もっと前、ガキん時の碁でもいいぜとつぶやきながら、中学の時の名人戦1次予選第1回戦にしようと思っ た。 「だってあれはおれとおまえの思い出の一戦だもんな」 佐為がいなくなった後、初めておれ自身があいつと向き合って打った、忘れることなど絶対に出来ない思 い出深い一局。決めてみるとそれは今日並べるのには一番ふさわしいように思えた。 (でも飲みながら並べたりしたら怒るかなあ) 『不真面目だ』と怒るだろうか? 怒るかもしれないし、怒らないかもしれない。 厳しいようでいて、あいつは非道くおれに甘かったから。 「―お願いします」 姿勢を正すとおれはあいつの写真に向かって頭を下げた。 一人だけの声が響く、それが寂しかったけれど、おれは振り切るように頭を振ると、一手目を置いた。 ぱちり。 固い音が響いた瞬間、なぜかすっと安堵するような気持ちになった。 数日前からの悪夢、それが全て現実ではなくて、今ようやく日常が帰ってきたようなそんな気持ちがしたか らだ。 あいつと おれがいる、二人の日常。 「行ってくるね」とキスを交わし、まさかそのままあいつが家に戻ることが無いとはおれは思わなかった。 ずっと嫌な咳はしていたけれど、風邪が長引いているだけだとやはり心のどこかで軽く考えていたのか もしれない。 もっと真剣に考えていればとあいつが倒れたと聞いた時からもう何回思ったことか。 「引きずってでも医者に連れていけばよかったなあ」 もう二度と亡くすのは嫌だと思ったのに、おれはまた大切なものを失ってしまったのだと、一人で石を並べ ながらそう思う。 『キミは…ゆっくりおいでね』 でも、キミだけを待っているからと、ベッドの上で最後にあいつはそう言った。 『大好きだよ』と。『キミを愛しているよ』と、あの瞬間、あそこで時間を止められたなら良かった。 そう思いつつ、でもそんなことが出来ないことは自分でよくわかっている。 愛してる こんなに。 でも会えない 二度と。 それもまたよくわかっていた。 こんなにもこんなにもこんなにもこんなにも愛している相手と別れることがあるなんておれはこれっ ぽっちも思って無かった。 なんてバカだったんだろうとそう思う。 もっと、もっとあいつを大切にすればよかったとそう考えると息が詰まり、上手く呼吸が出来なかった。 「…っと終わり、おれの負けー」 じゃらと石を碁笥にもどし、それからまだ口をつけていなかった冷酒を喉に流し込む。 甘口が好きではないあいつには珍しく、どちらかといえば甘い飲みやすい酒だった。 「最後まで、んな気ぃ遣うことないのに」 たぶん飲んで、自分の好みではなくおれの好みの味を優先して買ってきたのだと、そう思ったら胸が 熱くなった。 「うまいよ、これ」 整地をするわけも無く、石を片づけて、それから次の棋譜を並べる。 何千何百と打つと、そう心に決めた数には届かなかったけれど、あいつとおれは数え切れないほど 打った。その一つ一つを全て覚えているから、おれはまだもうしばらく持ちこたえられると思う。 「これからも打とうな」 おれたちと、写真に向かって言い、新しい一手を置いた瞬間に涙がこぼれた。 「これからもずっと…ずっと…」 おれはおまえと打ち続けるよと、空いたグラスに酒をつぎ足しながら、そうつぶやく。 「永遠におまえのこと…愛してる」 もう自分では止めることが出来なくなってしまった涙を拭うことなく、おれはあいつとの一局を幾つも 幾つも繰り返し並べた。 いつか全て並べ終えてしまった時にどうなるのかはわからなかったけれど、今はもうこれだけが、お れとあいつを繋ぐただ一つのものだったから。 「塔矢…」 「塔矢ぁっ」 一度名を呼ぶともう耐えられなかった。 「塔矢っ…なんで」 何度も何度も何度も何度も、あいつの名を呼びながら、おれは碁盤の上に涙を落とし、嗚咽をあ げた。 共に暮らし初めて二十と少し。 ただ一人の恋人を失った日に、おれの人生は終わったのだった。 |