姑の心得
「だから進藤さん、嫁なんてものは最初どんなにしおらしく可愛く振る舞って居ても、
そのうち本性を現すものなの!」
四丁目の本橋さんは悪い人では無いけれど、うわさ話と少しばかり愚痴が多い。
「どんな子だって結婚して何か月か過ぎればどんどん図々しく人を人とも思わない態
度に変っていくんだから」
特にお宅のヒカルくんのお嫁さんは男の方だって言うから、余計に気をつけた方がい
いわよと回覧板を回しついでに言われて少々閉口する。
「そうかもしれませんけど…アキラさんは今時の子にしてはお行儀も良くて、とても素
直ないい子なんですよ」
そう、ちゃんとしたご両親に厳しく躾られた塔矢くんは自分の息子であるヒカルに比べ
、立ち居振る舞いも上品で話していても意地の悪い所やひねくれた所がない。
綺麗な水だけで育てられた植物のようで、むしろあまりに素直過ぎて心配になってし
まうくらいだ。
「本当にどうしてがさつな雑草みたいなうちの子を好いてくれているのかわからない
くらい良い子なんですよ」
容姿も端麗、囲碁も強い。そんじょそこらの女の子には負けませんよとつい貰って
もいないのに『嫁贔屓』な気持ちになってしまう。
「あらぁ、うちの長男の嫁だって、最初挨拶に来た頃はそりゃあもう素直ないい子だ
ったのよ。『お義母さん』『お義母さん』って可愛くてねぇ」
それがどうよ、いざ式を挙げ新居に落ち着いた途端に態度が豹変して、口調までぞ
んざいになったのだと言う。
「そりゃね、嫁姑ですからね。いくら気を遣ったって実の親子のようにはいかないわよ、
でもこっちもそれを承知の上で少しでも楽に居られるようにしているって言うのに、滅
多に顔も見せに来ないで、たまに遊びに行けばあからさまに邪魔者扱い。早く帰れっ
て人の顔に書いてあるのを私は初めて見ましたよ」
「それは……」
「それだけならまだしも、自分のご両親のこととか自慢を始めて、挙げ句に私達のこと
を貧乏人呼ばわりよ、まったく『お義母さま達みたいな暮らし、私はとても出来ません』
なんて、一体どこのお嬢様だって言うのよねえ」
具体的には持って行った手みやげが安物だと罵られたり、珍しく遊びに来た時に料理
を振る舞ってやれば味付けが下品だのもっといい物が食べたいの文句の言い通しらし
い。
「ヒカルくんのお嫁さんも、良い家のお子さんなんでしょ? だったら危ないわよぉ」
今はいいけれど、そのうちガラッと態度が変るからと、でもどうしてもそうなるとは思え
なかった。
「とにかく、良いのは最初のうちだけなんだから、今のうちにちょっと締めておいた方が
いいわよ」
「締め…る?」
「優しく物分かりがいいことばかり言っていると舐められちゃうから、だから最初のうち
に少し意地悪に接しておく方がいいのよ」
甘く見てかかるな、一筋縄ではいかないのだと、最初にガツンとやっておけば後は生
意気になることも無いと、素直には頷けないことではあるけれど息子さんを三人も育
て、三男の嫁と同居している人の言葉はそうそう無下にも出来なかった。
「とにかく、騙されたと思ってやってみて! 進藤さん絶対私に感謝するから!」
そうは言われてもあんな良い子にわざわざ意地悪なことをするのは気がすすまない
なと思った。
塔矢くんが訪ねて来たのは本橋さんとそんな話をしてから1週間ほどたった頃だっ
た。
買い物から帰り、そろそろ夕飯の仕度でもしようかと台所に立とうとしたら、チャイム
が鳴り、出てみたらそこに塔矢くんが立っていたのだった。
「こんにちは。ご無沙汰しています」
柔らかく微笑んで頭を下げる、塔矢くんはやはりとてもお行儀が良い。
「あらこんにちは。今日はまだヒカルは帰っていないんだけど」
「あ、違うんです。今日はお義母さんに……母から言付かりまして」
言って渡されたのは湯島にある有名な干物屋の干物で、美味しいけれど高いので滅
多に買うことが無いものだった。
「まあ、赤丸商店さんのじゃない。私ここの金目鯛の干物が大好きなの。ヒカルも魚は
あまり食べないんだけど、ここのカマスは好きなのよねぇ」
「そうですか、良かった。たくさんいただいてしまって、うちだけでは食べきれないもの
ですから」
「良いものをありがとう。後でお母様にお礼の電話をしますけど、帰ってからも喜んで
いたとお伝えくださいね」
「はい。それでは―」
そのまま帰って行こうとするのを慌てて引き止める。
「せっかく来たんだから上がってらっしゃいよ。ヒカルももうすぐ帰ってくると思うし」
「でも直にお夕飯の時間ですしお邪魔になってしまいますから」
確かに夕飯の仕度をしようとは思っていた。けれど折角来てくれたのにそのまま帰す
のは躊躇われた。
「そうだ。じゃあもし良かったらお夕飯作るのを少し手伝ってくれないかしら。それでそ
のまま家で食べて行きなさいよ。頂いた干物も出すから一緒に食べましょう」
「でもご迷惑じゃ―」
「って、もうじき家族になるんだからそういう遠慮はしないで。…ね?」
言った瞬間、躊躇っているようだった顔がぱっと桜色に染まり、それから嬉しそうな笑
みが広がった。
(可愛い…)
思わずそう思ってしまうくらい、それは素直な可愛い表情で、うちの馬鹿息子とは偉い
違いだと思わずにはいられなかった。
「じゃあ、本当にお邪魔で無ければ家に電話してみますから」
「そうして。塔矢くんに会うの久しぶりなんですもの。たまにはゆっくりお話しがしたいわ」
家の改築の話もしたいしと言うと染まった頬が更に赤く染まり、今時こんな純真な子、
女の子でもいないわとしみじみと思った。
「何をすればよろしいですか?」
貸してあげたエプロンを身につけて塔矢くんが少し恥ずかしそうに台所に立つ。
うーん、後もう少ししたらこれが日常の風景になるのねえと思うと感慨深いものがある。
もちろん男同士の結婚であるし、どちらが夫でどちらが妻という役割分担は無いのだと
思う。
でもなんとなく雰囲気的に塔矢くんは『嫁』であり、だからこんなふうに二人で家事を出来
ればいいなと思ってしまった。
「そうねえ、何が出来る?」
「あの……あまり料理は得意では無くて」
でもお米を研ぐのとおみそ汁くらいは出来ますと言うのに微笑ましく思いながら「じゃあお
みそ汁を作ってもらおうかしら」と頼んだ。
眺めていると慣れない台所にもかかわらず、教えられ渡された材料で手際よく出汁を取
り、みそ汁を作り始めている。
「お家でもよくお母様のお手伝いはしたりするの?」
「いえ、一人の時は少しは自炊もしましたが、家ではあまり…父が囲碁だけしか頭に無
い人なので、母は棋士はそういうものだと思っていて、家事など煩わしいことはしないで
いいってそういう考えなんです」
「そう。お父様、元名人でらっしゃるんですものね」
今だに息子が身を置く世界がよくわからなかったりするのだが、とにかく名人というのが
囲碁を志すものがなりたくてなかなかなれないものなのだということだけはよくわかって
いる。
「今はもう海外に行かれたりは?」
「弟も生まれましたし。たまに父だけ行くことはありますが、以前のように海外を拠点にし
てという感じではなくなりました」
「そう。だったら塔矢くんは嬉しいわね」
いくら成人したと言ってもご両親がお留守なのは寂しいでしょうからと、言った言葉に一
瞬黙り、それから塔矢くんは恥ずかしそうに言った。
「いえ、寂しくないと言ったら嘘になりますが、でも…」
「ああ、ヒカルが居るから?」
あんな馬鹿息子でもあなたにとっては大切な人なんですものねと苦笑しつつ答えたら静
かに首を横に振った。
「今はあの……お義母さんが居らっしゃるので」
以前のように両親が海外で暮らしたとしても寂しいことは無いと、でも言って恥ずかしくな
ったらしい、せっかく元に戻った顔色がまた可哀想なくらい赤くなってしまった。
「すみません。まだ……結婚もしていないのにこんな図々しいことを」
「いいのよ、さっきも言ったけれどもうすぐ本当の親子になるんだから、だから今でもいつ
でも本当の母親だってそう思ってくれていいのよ」
そうでなくてもヒカルなんか子どもの頃から家にちっとも寄りつかなくて居るんだか居ない
のだかわからない。
塔矢くんの方が私にとっては余程『息子』に思えるのよと言ったら照れながらも嬉しそうな
顔になった。
「進藤は…そんなに家に寄りつかなかったんですか?」
「寄りつかないどころか、学校から帰ってくるでしょう?そうしたらもう暗くなるまで帰って来
ないし、中学でもそうよ。どこに行って何をしているんだか一度なんか帰って来ないと思っ
たら碁会所の知り合いの方と広島まで行っていたのよ」
本当に心配ばかりかけられて来たわと言うと塔矢くんも静かに苦笑していた。
「碁会所の方と広島に……連絡も無しでですか?」
「夜になってからかけて来たわよ。忘れていたんですって。もうどれだけ人が心配したこ
とか」
それだけで無く、小さい頃もしょっちゅう友達を連れて冒険だの探検だので飛び回ってい
たから、もう途中で諦めてしまったのとため息をつきつつ言う。
「あれは私が産んだけれど、きっと私の子どもじゃないんだ。きっと野良猫か野良犬かそ
んなものなのよって」
「確かに少しだけ、犬っぽい所はありますよね」
「そう。あるのよ。家にはエサを食べて寝るためだけに帰ってくるのよ失礼しちゃうわよ
ね」
でもそんな野良犬暮らしでもこんな良い人を見つけたんだから褒めてやらなくちゃと言
ったら塔矢くんの頬はまた更に赤くなった。
「あの……こんな感じでいいでしょうか?」
出来上がった大根と油揚げのおみそ汁を味見と塔矢くんが小皿を出してくる。
「うん。いいんじゃないかしら。少しだけ薄い気もしなでもないけど」
「薄かったですか?」
「うちはもう少し濃い目だけれどおみそ汁の味は家それぞれだから」
「いえ、出来ればお義母さんの味付けを教えてください」
「ええ?」
「棋士としての仕事がありますからあまりお手伝いは出来ませんが時間がある時はぼく
も食事の仕度などしたいと思っているんです。それで、出来たらこの家の味を覚えたい
と思っているので」
「あなたの味でいいのよ」
「いえ、ぼくは……ぼくはこの家の家族になるんですから、この家の味が知りたいです」
だから教えてくださいと言われた時には嬉しいのと同時に感動してしまった。
(いい子だわ、この子。本当にいい子なんだわ)
けれどその瞬間、唐突に本橋さんの顔が思い浮かんだ。
『最初はどんな素直に可愛く振る舞っていてもやがて図々しくなってくるんだから、最初に
ガツンとやってしまいなさいよ』
(そんな片手間で覚えられるほど簡単なものでは無いわよとでも言った方がいいのかしら
…)
でもそう言った時の塔矢くんの悲しそうな顔が思い浮かんで思わず首を横に振ってしまっ
た。
「無理…」
「え? ダメですか?」
思わずこぼれた独り言に塔矢くんが悲しそうな顔をする。
「あ、違うの違うの。ちょっと思い出したことがあって。おみそ汁のことじゃないのよ。そう
ね、じゃあもう少しだけお味噌を足してもらおうかしら。それで葱ももう少しだけ入れてみ
て」
「はい」
ぱっと笑顔になり素直に言われた通りにする。
何をどんなに考えても塔矢くんが本橋さんの言うように図々しく人を人とも思わないような、
そんな振る舞いをするとは考えられなかった。
(そうよ、だってこの子本当にいい子なんだもの)
人間だから欠点だってあるだろう。一緒に暮らすようになったら意見の違いや習慣の違い
で衝突することもあるかもしれない。
でもどんなことがあってもこの子は決して今のままで変らない。素直さと可愛さだけは変る
ことが無いと、それだけは確信に近くそう思えた。
(何よりヒカルに我慢出来るんだから)
親でさえもてあました馬鹿息子の手綱を取り、野良犬のような生活から抜け出させ、家犬
のように家に落ち着かせた。それはきっとこの子の影響であると思うから、男ではあるも
のの、本当に出来た嫁だとそう思う。
「あと、干物は何を焼きましょうか?」
「そうね、金目鯛とカマスと後あなたの好きなものを」
確か鰆だったわよねと言ったら嬉しそうに微笑んで頷いた。
この笑顔がいつまでも続くものならば、我が家に嫁と姑の争いは絶対に起きない。起こる
わけが無い。
(ごめんなさいね本橋さん。せっかく忠告してくれたけど)
あれはうちには必要無いものだった。
(本当に今更だけど…)
ヒカルは良い人を見つけてくれたものだわと、どう考えても不幸にはなりそうに無い未来を
思い浮かべ、隣に立つ『嫁』を見つめながら、溢れて来る笑みを押さえきれずに、つい顔中
で笑ってしまったのだった。
※えーと、これは全て美津子ビューだということを頭に置いて読んでいただければ嬉しいです。なので本来のプロキシの
アキラより幼い感じになっているし、これでもか!というくらい素直で可愛くなっています。いや、実際まだ遠慮もあるだろ
うし、こんなものじゃないかなとは思うのですが。
本当はもっとがんばってアキラに意地悪をしようとしては挫折する美津子ママを書きたかったのですが、私内では美津子
ママの好みはヒカルと酷似しているので意地悪なんかできっこないんですよね(汗)
それから蛇足というか『嫁』扱いになっていますが、どちらが嫁とかそういうものでは無いということは美津子ママももちろん
理解していますので〜。 2007.4.12 しょうこ