愛ゆえに
ヒカルが謹慎処分をくらった。
一ヶ月の自宅待機と(もちろんその間にあった対局は延期では無くヒカルの不戦敗になる)半年分の獲得賞金の返還という厳しい措置。
何故そうなったかというと、初段の棋士三人を棋院内で殴り、その内の一人に顎骨にひびが入る重傷を負わせたからだった。
『まったく、前代未聞だ』
ヒカルに処分を告げたのは緒方で、苦り切った顔で言ったと言う。
『どこの世界に初段を殴る本因坊が居る』
けれど本来ならもっと重いペナルティを科せられてもおかしくは無い事態だった。それがこの程度で済んだのは、その三人がそもそもアキラに怪我をさせたからなのだった。
生まれも良く容姿も良いアキラは幼い頃から妬まれることが多かった。成長してからはそれに囲碁の強さも加わり、段位に関係無くアキラを好ましく無いと思う者は囲碁界に多く居た。
初段三人も同様で、彼等曰く馬鹿にしたような態度を取られて腹が立ったということなのだが、もちろん誤解でアキラに他意は全く無かった。無いどころか三人を三人として認識してすらいなかった。
しかし一旦そう思い込んだ彼等は日々見当違いの恨みを募らせて、このトップを突っ走る先輩に一矢報いようと思い立ったらしい。
時折アキラがエレベーターでは無く階段を使うことがあるのを知って、中程の階で背後からアキラを突き飛ばしたのである。
無様に転げ落ちた所を写真に撮って晒し、笑ってやろうとその程度のつもりだったようだが、落ちたアキラは運悪く壁に頭を打ち付けて失神してしまった。
救急車が来る一大事となってしまったのである。
『てめえら、何やってんだ!』
最初に駆けつけて来たのはヒカルで、倒れているアキラを見るや否や呆然と立っていた三人を片っ端から殴り倒した。
それだけでは気が収まらなかったらしく、馬乗りになって殴っている所を駆けつけた他の棋士や職員に取り押さえられた。
結局、やって来た救急車にはアキラの他に三人も乗り込むはめになり、ヒカルは理事達にキツイ灸を据えられたのだった。
『言い分も聞かずに殴るとは何事だ、おまえはヤ○ザか!』
緒方に恫喝されてもびくともしない。
『謝らないからな、おれは! 塔矢に何かあったらあいつら全員殺してやる』
手の付けられない荒れっぷりはアキラが意識を取り戻すまで続き、ヒカルは和谷達に引きずられるようにして家に帰された。
結局、アキラは一時的な軽い脳しんとうを起こしただけで小一時間ほどで気がつき、様々な検査の結果も何も問題は無かった。
元凶の三人は一人を除いて軽傷で、顎にひびの入った一人も通院で大丈夫とのことでその日の内に帰宅した。
『まったく、手の掛かるクソガキ共が』
後に緒方が漏らしたひとことが皆の全ての気持ちを代弁している。
内々で処理したために警察沙汰にもならず、無事に事件は収まった。
ただ一人、ヒカルだけがペナルティを負う形で。
「キミね」
病室に現れたヒカルを見て、アキラはため息まじりに言いかけた。
「なんだよ、馬鹿でもアホでも何でも言えよ」
ヒカルが処分をくらったことはアキラも聞かされて知っている。
本当に馬鹿だと心の中では思っていたが、それが自分が傷つけられたことに対する怒りから来たことなので責める気にはなれなかった。
「別に……キミこそいつもの毒舌はどうしたんだ、幾らでも言えばいい、鈍くさいだの運動神経が無いにも程があるだの」
「言わねーよ」
ベッドの側のパイプ椅子に座るとヒカルはじっとアキラを見た。
階段の踊り場で倒れていた横顔を思い出すと今でも胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。
「でもほんと、おまえマジでもう少し運動した方がいいと思う」
「そうだね、キミの行っているジムにぼくも通おうかな」
「えー? 無理無理、あそこちょっとハード目だもん。それより地味にウォーキングぐらいから始めろよ」
ぽんぽんと会話のやり取りをして、ふいに二人して沈黙する。
「あのさ―」
言いかけたヒカルの言葉を遮るようにしてアキラが言った。
「待ち合わせの場所を変えた方がいいみたいだね」
「お?……おう」
「折角、人があまり来なくていい場所だったのに残念だ」
「ばあか」
さらりとアキラの前髪を手で持ち上げて、整った額にヒカルがちゅっとキスをする。
それから唇を滑らせて片方ずつ瞼に口づけて、鼻先をかすめて唇と唇を重ね合わせた。
「人目につかない場所なんか、他にも幾らでもあるって」
あの時、アキラが階段を下りていたのはヒカルに会うためだった。
お互いに棋院で研究会や手合いがある時などに二人はそうして密かに会っていたのである。
棋院の建物は古くて当然監視カメラの類も無い。だから安心して抱擁し合い、キスをしてまた各々の場所に戻って行っていたのだ。
だからこそあの時、異変を察したヒカルが真っ先に駆けつけることになった。
「おれがまた、絶対誰も来ないような所見つけるから、今度からはそこで落ち合おうな」
「キミ、当分は行くことが無さそうだけど」
「あるよ、森下先生の研究会とか」
「そうだね、忘れてた」
「忘れんなよ、馬鹿」
ヒカルの言う『馬鹿』には愛情が込められている。
「ごめん、そしてありがとう」
そっと伸ばされたアキラの手がヒカルの手を取るとぎゅっと握った。
「キミがぼくのために怒ってくれて嬉しかった」
「うん」
「でも出来るなら、もうこんな真似はしないでくれ」
「無理、何度でもきっと同じことするよ」
「ぼくも馬鹿だけど、キミも本当に馬鹿だよね」
愛してると、囁くように言われてヒカルはアキラの手に顔を寄せると大切そうに頬ずりした。そして瞼を閉じるとため息のように小さく「おれも」と愛情を込めて呟いたのだった。
※アキラのことになると情けも容赦も無くなるヒカルが好き。そしてヒカルのことになると冷静さの欠片も無くなるアキラが好きです。
2015.8.9.しょうこ