雨傘
マンションの前に誰かが立っていた。
土砂降りの雨の夜、その誰かはこちらに背を向けていて、姿は斜めに差し掛けられた傘
でほとんど見えなかったけれど、それでもそれが塔矢だと何故か一目見ただけでおれに
はわかった。
「塔矢!」
走って行って呼びかけるとゆっくりと傘が動いて、その下から見慣れた顔がこちらを見る。
「どーしたんだよ、今日来ることになってたっけ?」
「いや、でもなんとなく会いたくなって待っていたんだ」
「だったらなんで電話するなり、メール寄越すなりしないんだよ!」
そっと触れた塔矢の手は驚くほど冷たくて、一体いつからここに居たのだろうと思ってしま
う。
「だって、ぼくが一方的に会いたくなっただけだし、もしかしたらキミは都合が悪いかもしれ
ないじゃないか」
「おまえが会いたいって言ってんのに、おれの都合が悪いことなんか絶対に無いって」
きっぱりと言い切るおれの顔を塔矢はじっと見詰めた。
「…なんかあった?」
「いや?」
「それとも誰かになんか言われた?」
「別に何も…」
何も無いよと言いながら、どこかその輪郭には切なさが漂う。
ずっと前、やはりこんなふうに不意打ちでおれを訪ねて来た時には、塔矢先生達と将来の
ことで揉めた後で、今日も何かあったのではないかとおれはぼんやりと思った。
「何も無いならいいけどさ、だったらとにかく早く入ろう」
「いいのか?」
「え?」
「中でキミを待っている人は誰も居ない?」
ああ―と思った。
「居ない! おれを待っているヤツなんておまえの他にこの世に誰一人居ないって!」
「そう」
ぽつりと言ったその後にほんの少しだけ頬に赤味が差した。
(一体どこの誰が)
こいつに余計なことを吹き込んだんだろうと思う。
外見からか性格からか、ちゃらちゃらしていると思われているおれは、生活態度も悪いと思わ
れているらしくて勝手な噂をよくたてられる。
取っ替え引っ替え女と遊んでいるとか、取材を受けた女記者とはその後必ず会う約束を取り
付けるとか挙げて行けばきりがないけれど、面白半分なその噂は時々思いがけない程に塔
矢を不安定にさせた。
「おれ…そんなに信用が無いんかなあ…」
「なんのことだ?」
頬の赤味がさっと消え、固い表情で塔矢が言う。
「なんのことでも無いよ! あーもうっ! とにかく早く入ろうっ、早く!」
そして風呂に入って温まって、そのまま家に泊まって行けとぐいっと傘を持たない方の手を引
いたら、塔矢はムッとしたような顔をしておれの手を振り解いた。
「泊まるか泊まらないか、キミが決めることじゃないだろう」
頑なな。
本当に憎らしい程頑なに引き締められた唇には、何も無しには入ってやらないという意志が確
かに見える。
何度も何度も不安にさせて、それでただで済むと思っているのかと、そのキツい瞳はおれに問
うていて、答え次第によってはこのまま帰ると思っているのもよくわかった。
「これ―」
おれは溜息を一つつくとポケットに手を入れて、取り出した鍵を塔矢に握らせた。
「家の鍵。前から渡そうと思ってたんだけど、お前、そういうの嫌なのかどうなのかわからなか
ったから」
これからはそれを使っていつでも好きに出入りしていいよと言ったら塔矢はじっと鍵を見詰め、
それから今度はおれを見た。
「いいのか?」
「いいよ!」
「他に誰に渡してる?」
「親にもダチにも渡して無いよ」
「…後で返せって言われても、たぶん返せないと思うけど」
「返せって言うつもりなら最初からやらない」
だからおまえももう二度と、こんな冷たい雨の夜に外に突っ立って氷みたいに凍えておれを待
っているなと言ったら、塔矢は一瞬おれを睨み、それから目を伏せて静かに言った。
「――わかった」
そうしてからありがとうと呟いて、初めてその口元に微笑みに近いものを浮かべた。
解けるように顔全体から消えて行く緊張。
張りつめていたものが塔矢から抜けて、代わりに安堵と喜びが塔矢を包んで行くのをおれは
感動と切なさの入り交じった複雑な気持ちで見詰めていた。
普段人が言わないようなキツいことも平気で言う。
でもその口は、逆に人が平気で言えるようなことをどうしてもおれに言えない。
それはおれ達が普通の恋人同士では無いからで、男同士だというただそれだけが、しなや
かで強いこいつをこんなにも弱く儚くさせてしまう。
「…欲しいなら欲しいって素直に言えよ」
「欲しがって貰えるものとは思っていないから」
「それでもなるべく『欲しい』って言って欲しい」
だっておれはおまえの全てが欲しいから。
おれ以外の誰にもこんな儚い、綺麗な笑みを死んでも見せたりしないで欲しいから。
「全部やるよ」
「え?」
「おまえにおれを全部やる」
だから一つ残らず持って行っていいよと言ったら塔矢は「馬鹿だな」とくすっと笑って、それか
ら頬に雨粒では無い雫をこぼした。
「本当に馬鹿だな…キミは」
凍えるような雨の降る晩秋の夜。
傘をもぎ取って放り投げると、おれは塔矢を力の限りで抱きしめた。驚いたような顔でおれを
見詰めて、でも塔矢は抵抗しなくて、ただ目を閉じたのが切なかった。
おれ達は無力で、あまりにも無力で、でも何よりも大切なものを持っている。
それは雨に濡れても風に晒されても怯むことが無く、例え夜の闇に紛れてしか示すことが出
来なかったとしても色褪せない、紛れもない真実の愛情だった。
※真夜中の道の端、傘の影でひっそりとケータイメールを打っている人にも何かドラマがあるのやもしれず
無いのやもしれず。寒い冬の夜に行く場所が無いのは本当に辛いことだと思うわけです。
2008.11.25 しょうこ