箱
佐為に小さな箱を貰った。
掌に乗るようなその箱は、白くて淡い色が散っていて、まるで桜貝みたいだなと思った。
「なにこれ、おれにくれるの?」
「はい。これから行く道筋でヒカルが寂しく無いように、旅の供にと思いまして」
「ふうん?」
何が入っているのだろうとそっと蓋を開けて見るといきなりわっと声が溢れた。
『しんどう』
『進藤』
『進藤』
『…進藤』
一瞬耳を塞がれた程、たくさんのそれは塔矢のおれを呼ぶ声だった。
『進藤っ』
『進藤ヒカル』
『進藤―』
怒っている声、寂しそうな声、泣いているような声、とろけそうに甘い呼び声もある。
「佐為、これ―」
「これは今までの時間に塔矢があなたを呼んだ声ですよ」
静かに言われて改めて見上げる。
「なんか、真夏の蝉みてぇ」
「そうですね。でもそれよりもずっと、何百倍も美しい」
どこまでも続くような青い空に塔矢の声は鈴を振ったように広がって行く。
『進藤』
『しん―』
『進藤?』
『進藤!』
広がって重なって、それが更に美しい響きになっておれの体を包んだ。
「何? あいつこんなにおれのこと呼んでんの?」
日常あまりに何気無く繰り返されて来たごく普通の行為。けれどそれがこんなにも胸の奥
底を揺さぶるようなものだったなんて。
ぽたりと熱いものが手の甲に落ちる。
「―?」
そんな自覚は無かったのに、頬を涙が滑って行く。
「どうしますか? これだけで足りなければもう一つお渡し出来るのですが」
そう言って佐為はおれにもう一つ、そっくりな白い箱を見せてくれた。
「それは?」
「これからの時間、塔矢があなたを呼ぶだろう声ですよ」
残り一生分の声がこの中に詰まっていると言われて、思わず手が伸びそうになったけれ
ど、おれはゆっくり後ずさった。
「止めとく」
「そうですか」
「箱ん中に詰まった声じゃなくて、おれ、直にあいつに呼んで欲しいから」
佐為はおれを見てにっこりと笑った。
「そうですね。私もその方が良いと思います」
「―ごめん、おれもう行かなくちゃだから」
ごめんな、本当にごめんなと佐為の前から身を翻しておれは走った。
遠く、遠く、おれを呼ぶ声が響く中をひたすらにずっと走り続けたのだった。
「進藤っ」
ぱちりと目を開いた時、見えるのが美しい青空では無く薄汚れた灰色の天井だったので
おれはなんとなくほっとした。
「進藤っ、おい大丈夫か?」
ゆっくりと視線を動かすと思いがけない程近くに和谷と伊角さんの顔があった。
「あれー…おれ…」
「ダッサいことしてんなよな、おまえ。バク転で転けるなんてマジ信じられねえ」
ほっとした顔で、でも口汚く罵られようやく何があったのか思い出す。
(そうだ)
確か打ち掛けの時まだ結構時間があって、皆で馬鹿話をしている内にバク転が出来るか
否かという話題になったのだった。
『おれ、中学ん時はよくやったぜ』
『おれも。でも最近はやってないな』
で、じゃあやってみっかで試しにエレベーター前の開けた場所で飛んで見て、一応バク転
は出来たのだけれど、着地の時に失敗して無様にも床に倒れたのだった。
「あー、あの時なんかゴツって言う音したなあ」
「頭を打ったんだよ。それで進藤が気絶してしまったから救急車を呼んで」
近くの救急病院に搬送されたのだと伊角さんが言う。
「それで? おれののーみそどうだった?」
「瘤だけで大丈夫だってよ。でも万一があるから、もし気分悪くなったらすぐ連絡しろって」
突っかかるように和谷が言って来るのは、そもそもバク転の話題を出したのが自分だった
からなんだろう。
和谷なりに非道く心配していたことが解って申し訳無くなった。
「おれ、今日は入院?」
「いや、落ち着いたら帰っていいみたいだけど…」
言いながら不自然に伊角さんが後ろを振り返った。
「何?」
「あー…何って言われてもなんて言っていいのかわからねーんだけどさ」
伊角さんと和谷の背後には壁があり、病院特有の無機質なドアがあるのが見えた。
「あの向こうに塔矢がいるから、おまえ責任持って連れて帰れ」
「は?」
言われた意味がわからなくて思わず頭を上げたらくらりとした。
「ほら、急に動かすから」
「って言われてもさあ、伊角さん」
伊角さんと和谷は困ったように目配せをして、それから大きく溜息をついて言った。
「おまえが気絶したじゃん?」
その時、塔矢は正にエレベーターで上って来た所だったのだという。
そしてドアが開いて出た瞬間に、おれがバク転して転けて頭を打つ所を見た。
「モロに間近で見ちゃったせいで、あいつらしくなくすごく動揺して」
おれが気絶して意識が戻らなかったこともあって、半狂乱になってしまったのだという。
「手合いも途中なのに一緒に来るって聞かなくて、篠田先生に宥められてそれは収まった
んだけど」
驚くかな、塔矢は午後の手合い開始から10分も経たずに相手を中押しで無理矢理負か
して、そのまま片付けもせずに病院に来てしまったのだと。
「もー、相手は怒るは、篠田先生も怒るわ、おれらも大混乱で大変だったんだって」
「でも、それよりもその後の塔矢が大変で」
あんなに大騒ぎをしておれの元に来たのに、いざ病院に付いたら塔矢はおれの寝ている
壁一枚隔てた廊下の椅子に座って身動き一つしなくなってしまったのだという。
両手を膝に置き、俯いた姿のまま、誰が何を言っても全く反応しなくなってしまった。
「あいつのがよっぽど病人みたいだって」
完全にイッちゃってるよと和谷が言うのを伊角さんが視線で窘めた。
「たぶん、進藤の声には反応するんじゃないかな。だからおれ達は先に帰るから塔矢を
連れて帰ってやってくれないか」
仮にも事故で検査までやった進藤に頼むことでは無いのだけれどと申し訳無さそうに言
われておれは頷いた。
「わかった…うん。大丈夫」
「じゃあマジおれら帰るかんな」
「もし、進藤でも手に余るようなら連絡くれればまた来るから」
「ありがとう、伊角さん。悪かったな、和谷」
そして二人が出て行って、しばし。
おれはふらつかないか用心しながらゆっくりベッドから起きあがった。
いきなり動かさなければ大丈夫のようだったので、そのまま立ち上がってドアに向かう。
この向こうに塔矢がいるんだと思ったらなんだか少し怖いような気がしたが、思い切って
ドアを開けたら数メートル離れた長いすに、塔矢が一人でぽつんと座っているのが見え
た。
「塔矢」
呼びかけても反応しない。
そっと歩いて移動して、座っているその前に立って見る。
「ごめんな、びっくりさせて。おれ、大丈夫だったみたいだから」
話しかけると今度は微かに体が震え、それから塔矢が顔を上げた。
「進藤…」
「ごめん、無様な真似晒して本当カッコワルイよな、おれ」
言った途端、何かがぷつと切れたように塔矢はいきなり立ち上がるとおれの服の襟元を
思いきり掴んだ。
「キミは馬鹿か!」
怒鳴られて、その後奔流のように言葉が連なる。
「子どもじゃあるまいし、バク転だ? あんな所でやるなんて信じられない」
「あー…うん」
「成功していればまだしも、あんなことのせいでキミは今日の手合いを黒星にしたんだぞ」
勝って当然の碁を自分の不注意で棄権にしてみすみす負けを一つ増やした。信じられな
い、有り得ないとものすごい形相で塔矢は怒鳴る。
「中学ん時は出来たんだって」
「それから何年経ってるか考えても見ろ、それから背も伸びて手足の長さも変わっている」
それなのにその当時のままのつもりで飛んだら失敗して当たり前だと、正論を言われてぐ
うの音も出ない。
「悪かったよ、本当におれが調子乗りで馬鹿だった」
「本気で反省しろ、目の前でキミが倒れるのを見て、ぼくが一体どんな気持ちだったか」
ちょっとでもいい、考えて見ろと言いながら塔矢はおれを睨んだ。
その両目からぼろぼろと涙が溢れて落ちる。
ぽたと手にかかったその熱さに、おれは、はっとして塔矢を見詰めた。
「頭を打つ嫌な音がしたんだ。キミは目を覚まさないし、呼んでも、呼んでも何の反応も無
くて」
もうこのまま目覚めないのではないかと思ったと塔矢は言って泣いた。
「すごく怖かっ―」
『進藤』
『進藤』
『進藤』と、繰り返される声は夢の中で聞いたあの声とよく似ていた。
「ごめん、もう二度とこんなことしないから」
「当たり前だ!」
こんな馬鹿なことでぼくを一人にするなんて許さないと言いながら塔矢はおれにしがみつ
いた。
まるでそうしないとおれを失ってしまうとでも言うかのように、震える手でおれの体をぎゅっ
と抱いた。
「進藤―」
響き渡る声はあまりにも悲しくて、あまりにも美しくて、おれは塔矢を抱きしめながら、この
世ならざる所で見た白い箱と懐かしい人の姿を思い出していた。
※中学の頃、よく男子が教室の前とか後ろとかでバク転やっていたなあと。
2012.8.15 しょうこ