ちょっとだけ泣いた
ぼくと進藤の二人ともが尊敬している棋士が居た。
タイトルこそは持っていなかったけれど、地道にねばり強い碁を打つ人で、真摯なその碁への
姿勢と人柄に惹かれて、よく研究会にも顔を出した。
『君達はまだ若いんだからあまり守りに入らないで色々冒険してみなさいよ』
気さくな口調で言いながら、でも甘い打ち筋には手厳しかった。
『冒険と無謀は違うんじゃないかな進藤くん』
『塔矢くんの碁は確実だけれど面白みに欠けるね』
穏和ながら歯に衣着せぬ物言いには正直腹が立つこともあったし、進藤などは、それでしばら
く通わなくなってしまったこともあったくらいだ。
でも―それでもまた再び通い出したのは、やはりその人のことが好きだったし、とても尊敬して
いたからだと思う。
棋士としてこんなふうに在れたらいい。
こんなふうに盤に向かうことが出来たならいいとそう思えるような人だったから。
その人が、棋士を引退すると言う。
まだまだ引退するような年では無いのに現役を退くのは、目に病を患ったせいで、プロとして打
ち続けることに無理があるとのことからだった。
『まあ潮時です。家内にも随分苦労をかけましたしね。これからは隠居して、ただのジジイとして
のんびり孫と打つことにしますよ』
最後の研究会の日、集まった人々の前でその人はあっさりと未練も執着も無いような口調で言
ったけれど、ぼくも進藤も喉の奥に何か詰まったようなそんな顔になってしまった。
本当はまだ引退などしたくは無いのではないか。
まだまだプロとして切磋琢磨する世界に身を置いて居たいのではないか。
心の中にほんの少しでも未練が残っているということは無いのか。
けれどまだ、その人の人生の半分も生きていないようなひよっこにどうしてそんなことを口に出
すことが出来るだろう。
ぼく達は集まった他の人々と共に、黙ってその人と順繰りに最後の一局を打った。
打って、検討して、また打った。
いつもならその後は軽く飲み食いをし、雑談をして終わるのだけれど、この日は時間ギリギリま
で惜しむように打ってそれでそのままお開きになった。
ぼくは―ぼくと進藤は別れの挨拶をしてその人の家を後にして、でもしかめっ面のようになった
顔のまま食事もせずにぼくの家に行った。
そしてどちらから言うでも無く碁盤を持ち出して来ると、二人だけでゆっくりとその日の研究会で
の一局一局を検討し始めたのだった。
「…こん時、右に打ったら即座に攻めに来たんだよな」
「乱戦狙いかな? ぼくだったらもう少しゆっくりと打つ所だけれど」
じゃらと手に触れる石が冷たい。
その冷たさにふと怖じ気づくような気持ちになって前を見ると、進藤もまた奇妙な顔をしてじっと
自分の手を見詰めている。
ああ、彼もぼくと同じように石の冷たさに戸惑っているんだとそう思ったら、再びまた喉の奥に物
が詰まったような気持ちになった。
「もう一度……もう一度並べてみようか?」
さっきはキミのを検討したから、今度はぼくとあの人の一局をと言って石を置く。
「あれ、おまえ勝ったんだよな」
「うん、勝たせてもらった」
「そういうんじゃないだろ、あれはちゃんとおまえが最初から有利だったじゃん」
「そんなことは無いよ、あの人結構クセ者でぼくがどう打つかちゃんと読み切っているんだから」
あんなに簡単に勝てるわけが無かったのだと言いながら、ぼくはじゃらと碁笥に指を入れた。
「なあ…」
唐突に進藤が口を開く。
「ん?」
「あ、いや、なんでも無い」
そして彼も碁笥に指を入れると石を掴んで盤上に置いた。
ぱちり、ぱちりと響く音。
あの人は別に碁をやめるわけでは無いけれど、きっともう二度とぼく達と打つことは無いだろ
う。
ぱちり。
一際大きい音で進藤が石を置き、それから息を吐いた。
「なあ…」
そしてさっきと同じようにぼくに言う。
「おれ達って、いつまで打ってられんのかな?」
「ずっとだろう」
ぶっきらぼうに言ってぼくは石を置いた。それは次の一手で黒に踏み入られ、読み違えを指摘
された所だった。
「ずっとだよ、ぼくとキミは―」
ずっと打つんだと言ったら彼は一瞬天を仰ぎ、それから怒ったようにぼそっと言った。
「わかってる」
わかってる。当たり前だ―と。
そして彼は石を置いた。
その人が打ったのとは全く違う、敗着とすら思える場所で、思わず顔を見てしまったけれど、進
藤はゆるぎなく、あれよと言う間ににその後の筋書きを変えてしまった。
まったく「らしい」、進藤らしい打ち筋だった。
ぱちり、ぱちり響く音。
静かな家に音は重く、石は指に凍える程に冷たく感じられたけれど、でもぼくは…ぼくと進藤は
互いの指先だけを見詰めながら、ずっと時間の経つのも忘れ、言葉少なに石を交互に置き続
けたのだった。
2008.12 しょうこ
わたしがこんなにも長くこの世界に居るのは、そこにあるのがひたすらに愛情だからなんだろうと思う。愛情があれば何をしてもいいと言うわけでは無いことを熟知した上で、それでもこの世界に強く惹かれるのは、皆が描かずには、そして書かずにはいられないのが紛れも無いその作品に対する愛情で、それを読むたびにいつも感動せずにはいられないからだと思う。こんなにも溢れた愛情を他のどこで得られるんだろうか?満たされる思いや、幸せな気持ちを忘れることが出来ないからこんな年になってまでこの場に居続けてしまうのだと思う。それでもいつか去る時は来るのだろうけれど、今この瞬間ここに在るのは長い年月の間、与えられて来たたくさんの愛情と感動に深く感謝しているからだと思う。ありがとうございます。本当に心から、ありがとうございますと全てに対して言わずにはいられない。