不幸中の幸い



日を跨いだ対局の後、どうにか塔矢から勝ちをもぎ取ったものの、宛がわれた部屋に戻ってからは身動きが出来なくなってしまった。

兆候は対局前からあって、風邪をひきかけているのは解っていた。けれど薬を使って思考がぼやけるのが嫌だったので民間療法に頼り、後はひたすら体を温めていた。

対局中は気が張っているので症状も出ず、少々の不調にも気づかれることなく終わらせることが出来た。

でも勝ったことで気が緩んだんだろう、どっと熱が上がったのが自分で解った。

幸いこの後は数日休みになっている。予定がある日もずらすことが可能なので全てメールで済ませて、宿には延泊の旨を伝えた。

そこで力尽きてしまった。

体がバラバラになりそうな全身の痛みと気分の悪さに布団の中で一人悶えることとなった。


「進藤」


声をかけられたのは何時間経った頃だろうか。

なんとか目を開くと間近に塔矢の顔があって、心配そうにおれを見ている。


「体調が悪いのには気がついていたけれど、こんなに非道い有様だったなんて。キミ…救急車を呼んで貰おうか? それとも医者に往診に来てもらおうか?」

「いらない。放っとけ」


考えるより先に口が開いた。


「寝てれば治る。おまえはとっとと帰れよ」


仮にも心配してくれている相手にそれは無いだろうと自分でも思ったが、兎に角苦しくて構われることが苦痛だったのだ。


「解った。でももし呼んだ方がいいと思ったら勝手に呼ばせてもらうから」


そして汗にまみれたおれの額に手を置くと静かな口調でこう言った。


「幸いぼくもこの後数日予定が無い。だからキミが治るまでここに居るよ」


キミが帰れと言っても帰るつもりは無いからとだめ押しのように言われて眉が寄った。


「勝手に……しろ」


とっくに帰ったものだと思っていた塔矢がまだ居たことにも驚いたし、けれど何より一番見られたく無い相手に弱っている所を見られたことが悔しくてたまらなかった。

塔矢は恋人ではあるけれど、碁に於いてはほんの僅かの隙も見せたく無い生涯の敵であったからだ。

なのでその後は相当非道い対応になってしまったと思う。

何しろこっちは苦しいし、元気な時には抑えられるものが抑えられない。

構われるのが不快で、何度も罵声を浴びせてしまったような気がする。

けれど塔矢はびくともせずに、ずっとおれの側に付いていた。


「少し熱が下がったね。水分だけでもとった方がいい」

「汗で浴衣がびっしょりだ。苦しいだろうけれど着替えさせて貰うよ」


冷たいタオルでおれの体を隅々まで拭き、新しい下着に取り替えてくれる。


「悪いけどキミの荷物を開けさせて貰ったから」

「……勝手なことすんな。お節介なんだよ、おまえ」

「うん、ごめん」

「いつも飲んでいる薬とかは無いのか? あるなら―」

「五月蠅い、話しかけるな!」


本当に非道いヤツだったと思う。我ながら恩知らずで、礼儀知らずだったと思う。

それでも塔矢はおれがどんなに非道い態度をとっても怒らなかった。

トイレにも連れて行ってくれたし、途中二度ほど吐いた時には優しく背中をさすってくれた。

全て朦朧とした中での記憶だけれど、それでも塔矢がずっと付き添っていてくれたのだけはちゃんと覚えている。

そして。


どれくらいの時間が経過したのかは解らないが、回復の時は唐突に来た。

ふっと目を開いた時、おれは自分がもうどこも痛く無く、気分も悪く無いことに気がついた。


「あ、目を覚ましたんだね。気分はどうだ?」


すぐに塔矢が声をかける。


「別に……悪く無い」


ひたりと額に手が置かれ、それから「うん」と塔矢が頷く。


「熱が下がったみたいだね。良かった。何か欲しいものとかあるか?」

「水……いや、ポカリ飲みたい」

「解った」


そしてすぐに吸い飲みに入れたのを飲ませてくれた。


「あー、美味い」

「ずっと熱が高かったからね。水分が不足してるんだろう。もう少し飲んで、それで大丈夫なようだったらちょっとでも腹に何か入れた方がいいと思うよ」


甲斐甲斐しく世話をされながら、おれは枕元に置かれている時計を見た。表示されている日時は2日後になっている。


「塔矢、おれ……ごめん。凄い面倒かけたし、それにおまえに非道いこと」

「いや、熱でのことだし気にしてないよ」


吸い飲みをおれから受け取ると、塔矢は大丈夫と見たのだろう。ルームサービスでおかゆを頼んだ。

そしておれの側に戻って来ると、改めておれの額に手を置いて言ったのだった。


「本当に気にしなくていい。キミだって今までぼくが具合が悪い時に何度も面倒をみてくれたじゃないか」

「でもおまえは…」

「愛情はありがたいものだね。キミは全く気にしていないみたいだけれど、ぼくも相当キミに非道い態度を取ったはずだよ。少なくともぼくにはその自覚も記憶もある。同じだよ、ぼくもキミに何を言われても全く気にならなかった」


ということは相当に非道かったんだなとおれは心底落ち込んでしまった。


「大体なんでおまえ、帰らなかったんだよ」


八つ当たりでは無く、恨めしさから言葉が出た。


「最初に言っただろう。キミが体調を崩しているのは打っている時に気がついていた。それで対局が終わったのにいつまでも帰る気配が無いから、宿に頼んで部屋に入れて貰ったんだよ」


たぶんキミが寝込んで居る。放っておくと大変なことになると脅したらすぐに快く入れてくれたと、おれにとっては外聞が良くないことを塔矢はにこやかに自分の手柄のように話した。


「で、予想通りおれがぶっ倒れてて満足した?」

「ああ。嬉しかったね。ちょうど試したいと思っていた所だったから」

「試す?」

「うん。さっきも言ったようにキミは何度もぼくの面倒を見てくれている。でもぼくの方は皆無だったから、もしキミが具合が悪くなった時に自分がどう感じるのか確かめておきたかったんだ」


話が思わぬ方向に向かい始めておれは内心ぎょっとした。

人は非常時にその本性が現れるという。つまり塔矢は余裕も何も無くなった素のおれに愛情を持てるかどうか試したかったと言っているのだ。


「それで、判定は?」


自分が塔矢に吐いた暴言を思い出しながら、おれは憂鬱な気持ちで促した。


「馬鹿だなあ、気にならなかったって言っただろう。どうやらぼくは自分で思っていたよりもずっと深くキミのことを愛しているみたいだ」


何を言われても気にならなかったし、邪険に扱われても不快にすら思わなかったと。


「おまえが気にしなくても、おれが気にするっての」


呻くようなおれの頬を塔矢は優しく手で撫でた。それは熱に浮かされている中、何度も覚えた感触だった。


「あのね、どんな元気な人だっていつか必ず病気になるだろう? 年を取れば体はどんどん衰えてくるし、事故に遭う場合だってあるかもしれない」


そうなった時にそれでも寄り添えるかどうか、それを確かめたかったのだと塔矢は言った。


「こう見えてぼくはかなり自己中心的な性格だし、自己愛も強い。キミの方は大丈夫みたいだけれど、ぼくがそうで無かったら一緒に居てもお互いに不幸になってしまうから」


なのでちょうど良いチャンスが来たと嬉しかったと塔矢は笑った。


「キミはいい具合にぐったりしていたし、理性を保て無いぐらいに苦しんでいた。存分に看病出来て嬉しかったよ」


どうにもこうにも納得が行かない。というか納得したくない。


「せんせーは」

「ん?」

「塔矢せんせーは、こんなみっともないこと無いんだろう」


おれが尋ねると塔矢は一瞬黙って、それからゆっくりと言った。


「お父さんは辛抱強い人だからね。それでもお母さんと二人の時は結構我が儘だったみたいだよ」


夫婦ってそういうものだとお母さんが言っていたと語る塔矢の顔は、正にその母親である明子さんによく似ていた。


「だからね、キミのプロポーズ、受けることにしたから」

「は? えっ?」


話の飛躍に思考が全く追いついて行かない。


「キミはずっとぼくに結婚しようって言い続けてきたけれど、ぼくは自信が無かったから断って来た。自分に自信が無かったんだ。でも今回のことで大丈夫だと解ったから結婚しても構わないよ」


取りあえず今やっているタイトル戦が終わってからでいいかなと言われて、おれはしばし絶句した。

話の流れがそこに帰着するとは予想だにしなかったからだ。


「嫌なのか?」

「まさか」

「だったらそういうことで」


え? いや、ちょっと、その。


「あ、おかゆが出来たみたいだね。今取って来るから」


狼狽えるおれを尻目に塔矢は機嫌良く立ち上がるとドアの方に向かった。

静まり帰った室内に、はっきりと二つノックする音が響いたからだ。


「ああ、美味しそうだ。キミが残したらぼくがご相伴に与ろうかな」


戻って来た塔矢は傍らに座ると、当たり前のようにスプーンでおかゆを掬ってふーふーと息を吹きかけて、冷ましてからおれの口元に
運んだ。


そうしてからはいとにっこりと微笑む。


「ほら、食欲が無くても一口ぐらいは食べろ」


為す術もなくおれは口を開いた。


(なんだっけこういうの)


寝耳に水、瓢箪から駒、棚からぼた餅、濡れ手に粟。


二日ぶりの米粒を舌の上で味わいながらおれの頭の中には様々なことわざが沸き上がっては消えた。


猫に小判、豚に真珠、鳩に豆鉄砲。


今のこのおれの状況は一体なんなんだろうかと、おかゆを飲み下した時カチリとピースがはまった。


「どうだ? 美味しいか?」

「……うん」


『不幸中の幸い』


色々と複雑ではあるものの、塔矢がおれを嫌いにならないでくれたことは間違いなく幸運だとそう思ったのだった。



※ヒカルがアキラを看病する話はよく書くけれど、アキラがヒカルを看病する話ってあんまり書いていないよな?と思って書きました。
もちろんただの気のせいでたくさん書いているやもしれませんがそれでも合計ではヒカルが看病する話の方が多いはずなので勘弁。
作中の結婚は、もちろん普通の形の結婚では無く、養子縁組して一緒に暮らすの意です。2015.10.25 しょうこ