春の病
「気分が明るくならない。・・・こういう時はどうすればいいと思う?」
「それはやっぱ、打てばいいんじゃん?」
進藤の言葉は明確で、確かにその通りなのかもしれないけれど、何故か今は彼と向き合っ
て打つ気持ちにはなれなかった。
「じゃあスル?」
彼の率直な物言いは嫌いでは無いけれど、そんな気持ちでももちろん無かった。
「…いや、悪いけど」
「じゃあ散歩でも行くか?」
今桜が綺麗だし、のんびり近所を歩いてもいいし、少し足を伸ばして桜並木の綺麗な所をビ
ール片手に歩いてもいいと、それは普段ならば心惹かれる誘いだったが、今日はそれにも
食指が動かなかった。
「ごめん、あんまり気が乗らない」
「本当におまえ滅入ってんだなあ」
いつもなら最初の「打つ」で充分機嫌が良くなるのにそれでもダメなんだから、本当の本当
に元気無いんだなと、進藤は言ってぼくの側まで来るとそのままひょいと抱き上げた。
「わっ、何をす―」
「要は何もしたく無いんだろう? えっちすんのも出かけるのも打つのすらもヤ」
だったらもう後はこれしか無いじゃんと言って進藤は寝室のドアを足で開けると、そのまま
ぼくをベッドの上に放り出した。
「だからそういう気分じゃないって!」
言ったはずだぞと睨みつけるのに頭からそっと肌がけをかけられる。
暑くなって来たからと引っ張り出したばかりの綿の肌がけは柔らかくて心地よかった。
「進藤ぼくはまだ眠くも――」
「うん、別に寝ろとも言って無い」
ただ本当に何もする気が起きなくて、気分もいつもまでも晴れることが無い。そういうんだっ
たら無理して何かをすることは無いんだと言いながら、進藤もまたぼくの横に沿うようにして
横たわった。
ぎしっとスプリングが軋む音と共にぼくの体が少しだけ彼の方に傾いて滑る。
行き止まったのは温かい胸の中で、覆い被さるようにして伸ばされた手が、やがて静かにぼ
くの頭を撫で始めた。
「進藤っ!」
「いいじゃん、これで。こういう日はさ、なんもしないでこうやってだらだらしてるのが一番いい
んだよ」
大好きなオトコに思い切り甘やかされて、死ぬほど優しく大事にされて、そして元気が出たら
起きあがればいいんだと言いながら、何度も優しい指が髪を梳くようにして頭を撫でる。
「ぼくは…子どもじゃない」
「うん。でも熱帯魚相手に心和む程の大人でも無いんだろう」
それとか酒とか女とか、人は気分が晴れない時、色々なものに慰めを求めるものだけど、お
まえはおれがいるんだから思い切りおれに慰めて貰えばいいじゃないかと言われて、悔しく
て言い返したかったけれど言い返せなかった。
「…何がそんなに気が晴れなかったん?」
「別に理由は無いけど、なんとなく」
そう、ただなんとなく気分がどうしても晴れなかった。
いつまでもかかる薄雲のようにぼくの体と心をぼんやりと憂鬱が包み、何をする気も起こさせ
ない。
「風邪でもひいたのかなと思ったけれど熱も無いし」
「バカだなあそれはさ」
ぼくの頭を撫でつつ進藤は言った。
「疲れてるってことじゃん」
「疲れてる? 別にぼくは―」
言いかけて何故か涙が溢れ出しそうになった。
「自分でわかって無いんだったらかなり重症」
だからもう好きなだけおれに甘えちゃえと言われてさすがに睨みつけたけれど、涙の浮かん
だ目では少々迫力に欠けたかもしれない。
「おまえがんばり過ぎだから、何もかも自分で完璧にやろうとしなくたっていいんだから」
「そんなこと思って無い」
「思って無くても、意地っ張りだし見栄っ張りだし」
きっとたくさん疲れてると思うぜと、優しい指はその間も何回も行き来する。
「…キミは?」
「ん?」
「キミは疲れないのか?」
「疲れるよ」
もちろんと進藤は言った。
「だからそういう時はおまえにちゃんと甘えさせてもらっているし」
「そんなことさせていたっけ」
「おれが勝手にセルフで甘えてんだよ。それにおまえが気づいていても気づいてなくても関
係ねーの」
とにかくそれでおれはいつも癒されてるからさ、今日はそのお返しと言って肌がけごとぼくを
ぎゅっと抱きしめた。
「どう? ちっとは癒された?」
「さあ…わからないな」
わからないけれど体と心を包む重い霧が少し軽くなったのは確かだった。
こんな、子どものように頭を撫でられて癒されるなんて自分のプライドが許さないけれど、心
地よいのだから仕方無い。
「…元気になったら買い物に行くよ」
「ふうん? 何買うん?」
「いちご、キミ食べたいって言ってただろう」
練乳でもミルクでもなんでも好きなだけかけて食べればいいよと言うぼくの言葉に進藤は笑
った。
「おれだけじゃないよ、おまえも食べるんだよ」
一緒にいちゃいちゃ食おうぜと、その言葉に今は少し笑える。
本当に後もう少しこうして甘やかして貰えたら、買い物にぐらい行けそうだった。
買い物に行って少し手の込んだ料理を作って、それから―。
「やっぱりさっきのは撤回する」
「ん? 何?」
「キミと打ちたい。食事が終わったらゆっくり打とう」
「いいぜ。なんだ本当に元気出て来たんだな」
「甘やかしてもらっているからね」
「じゃあ後一つのは?」
「後一つ?」
「スルのはまだダメ?」
優しく優しくぼくの頭を撫でながら、でもその言葉だけは耳元に寄せるようにして彼は言った。
「そこまではまだ元気になっていない?」
「そうだね、でももう少ししたら」
そこまで元気が出てくるかもしれないと言ったら進藤はにやっと笑った。
「そうか、じゃあそれを励みにもっともっと甘やかしてやるとするかな」
耳掃除でもマッサージでもなんでもしてやると言われて少し心が動いたけれど、ぼくは笑っ
てこう言った。
「何もしなくていい。ただこうして、今しているのと同じようにして甘やかしてくれれば」
それだけでぼくは充分に元気になれると思うからと、言いながら自分で本気でそう感じている
のがわかる。
ほんの少し前まで気鬱で何をするのも嫌だと思ったのが嘘のように。
「欲が無いなあ。まあでもこれがお気に召したんならいつまでもやってやるよ女王サマ」
「ぼくは女じゃ――」
「うん、まあいいじゃんなんでも」
おれの一番大事な恋人ってことでさと柔らかく首筋にキスされて頬が熱くなった。
「口だけは上手い」
「そんなこと無い、全部上手いよ」
おまえに関してはと言われて頬が余計に熱くなる。
下品で下世話で好き者で、時に少し意地悪で、でもぼくにだけは常に寛大で優しい。
限りなさ過ぎる程ぼくに優しいこの男はぼくをダメにするかもしれないけれど、無くては生き
ていけないものだとそう思う。
「そうだね、全部上手い―かもしれない」
後で精々試させてもらうよとぼくが言った言葉に進藤は一瞬黙った後爆笑して、それから
ぼくが起きあがり、彼にキスをする元気が出てくるまで、気の遠くなる程長い時間をただひ
たすらに優しくぼくの頭を撫で続けたのだった。
※とにかくもう何もしたくない。何も出来ない。そしてただひたすらに優しくだけされたいこともあるわけで。
すみません桜もう散っちゃいましたね。
2009.4.13 しょうこ