I got you under my skin
風呂上がりに脱衣所に立ち、体を拭いていたアキラは、鏡に映る自分の姿を見て気持ちが陰るのを感じた。
年を取ったと思ったからだ。
母親似の女顔と、若い頃散々からかいの種にされ続けて来たその顔は、五十を幾つか過ぎた今でも年よ
りはかなり若く見えたけれど、よくよく見ればやはり肌は衰え、年齢という物を感じさせられる。
(少しだけ、お父さんに似てきただろうか)
今まであまり言われたことは無かったが、最近は目の下を走る皺や痩せた頬のラインにアキラは父の面影
を感じることがあった。
当たり前と言えば当たり前だが、父親の血も確かに引き継いでいるのだから、それが今頃になって表に出
て来たのかもしれなかった。
髪にもちらほら白い物が混ざるようになり、年相応であると言えば相応なのだが、それでも自分が老いて行く
ことにはどうしても気持ちが鬱ぎがちになる。
元々、アキラはあまり自分の顔の美醜に拘りがある方では無かった。
人としての価値は中身にあると幼い頃より教え込まれて来たためと、棋士という職業に顔は関係無かったか
らだ。
むしろ棋力以外の所で評価をされることをアキラは不本意だと思っていたし、だからこそ母親似の顔を褒め
られることはアキラにとって長い間、コンプレックスでしか無かったのだ。
それが今、鏡を見詰めて自分の衰えを嘆いているのは、一重に進藤ヒカルのせいだった。
子どもの頃に知り合って、それからずっと好きだったヒカルと、アキラは20代の頃に結ばれて、以来三十年
間共に暮らしている。
同性婚は日本では認められていないが、事実上は夫婦のようなものだと自分達では思っていたし、ヒカルの
養子という形で籍に入った今では法律上でもしっかりと結ばれていた。
ヒカルは恋人としても人生のパートナーとしても文句のつけようも無く満点で、アキラに対して愛情の出し惜し
みというものを全くしなかった。
いつでも全力で愛情を示してくれるので、アキラはこの三十年間、ひたすら幸せに過ごして来た。
しかもヒカルは言葉の出し惜しみもしない。愛してる、好き、可愛い、綺麗の連発で、言われているアキラの方
が恥ずかしくなってしまう位だった。
しかし、最近はそんな生活の中にちらりと苦いものが混ざる時がある。
それは今のように自分の老いを自覚した時だ。
ヒカルは今でも変わらずにアキラを見るたびに綺麗だと言い、抱きしめながら可愛いと耳に囁いて来る。
しかし現実のアキラは確実に年を重ねていて、それは容姿にも現れて来ているのだ。
愛があればと人は言うが、果たして本当に年老いて衰えた姿形を見ても人は綺麗だと思えるものなのだろう
か。
(…今頃はたくさんの若い綺麗な女性に囲まれているくせに)
ヒカルは今日は主催している研究会の集まりに行っていて帰りが遅い。
年は取ったものの相変わらず男前で、しかも人好きのする性格のヒカルは多くの若手に慕われていて、今年
は研究会に女性も多く入って来た。
アキラも時折顔を出すので見たことがあるが、美人で快活な、可愛らしい人が多かったように思う。
まるで開いた花のような、そんな女性達を見た後で、それでもヒカルは自分を綺麗だと言うのだろうか?
もし言葉にすることが習い性のようになってしまっているのなら悲しいとアキラは思い、湯気で曇った鏡の中の
自分の顔を指でなぞると大きなため息を一つついて、かき消してから脱衣所を出たのだった。
「ただいま」
眠るつもりは無かったのに、ヒカルを待ちながらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。アキラが目を開くと
ヒカルがソファにもたれる自分に毛布をかけている所だった。
「…おかえり」
「ごめん、起こしちゃったな」
ヒカルは申し訳無そうな顔で言うと、そっとアキラの頬に触れた。
「でも、こんな所で眠ったら風邪を引いちゃうと思ってさ」
年下の者達にはそれなりの言葉で話すヒカルも、二人きりだと十代の頃と変わらない非道く砕けた口調になる。
「こっちこそごめん。いつ帰って来たんだ?」
「さっき。本当はもう一軒って誘われたんだけど、もうそんなには飲めないし」
「夕食は?」
「食って無いけど、酒の肴をつまんでたらそれで腹一杯になったから」
若い頃は飲みに行って明け方まで帰って来ないこともあったけれど、最近はそんなことは滅多に無い。酒量を
覚えたというよりはヒカルも年を取ったのだろう。
「塔矢」
まだ酔いが残っているのか、にこにこと機嫌良く笑いながらヒカルがアキラに迫って来る。
「なあ、キスしてもいい?」
「今更聞くようなことでも無いだろう」
キスなんてそれこそ何百回もしているというのに、未だにヒカルはまるで初めてするかのように改めてアキラに
聞いてからすることがある。
「いいじゃん、おまえの口から聞きたいんだよ。キスしてもいいか、ダメかって」
「ダメって言ってもするくせに」
アキラの言葉通り、ヒカルは言い終えるのも待たずにアキラの顔を両の手で挟むとそっと唇を寄せてキスをし
た。
そうして味わうように重ねた後も、なかなかその手を離そうとしない。
「なんだ?」
「んー、いや、相変わらず綺麗だなあと思ってさ」
じっとアキラの顔を見詰めながら幸せそうにヒカルが言うのに、アキラの眉がさっと寄る。
「…五十過ぎの男が綺麗なわけが無いだろう。いつまでもバカなことを言って無いでさっさとシャワーを浴びて
着替えて来い」
「なんだよぅ、おれの奥さんにケチつけんなよぅ」
まったく若手が聞いたらどれだけびっくりすることだろう。ヒカルは子どものように拗ねた声でアキラに言った。
「綺麗なもんを綺麗って言って何が悪いんだよ」
「キミこそまだ酔いが抜けて無いのか? そもそも男に綺麗って言葉が当てはまるわけも無いのに、いつまで
そんなくだらないことを言っているんだ。それに忘れているのかもしれないけれど、ぼくはキミの奥さんじゃ無
いよ」
男同士の結婚に、妻も夫も無いというのがアキラの持論だ。
「いーや、奥さんだよ、おれの大事な可愛い奥さん♪」
苛立ちのままかなり突っ慳貪に言ったのに、ヒカルは怯んだ様子も無く、まだしっかりとアキラの頬を挟んでい
る。
「こんなに綺麗なのにどうして綺麗じゃ無いなんて言うんだ。おまえ自分の顔のこと、よくわかって無いだろう」
「わかってるよ、充分!」
思わず大声で怒鳴ってしまった。
その剣幕にはさすがのヒカルも驚いた顔をしたけれど、すぐに素の顔になってアキラに言った。
「それでも、やっぱりおれにはおまえが世界一の美人に見えるんだけど」
「皺があって、白髪があって、この顔のどこが綺麗だ。キミは今日、若くて綺麗な女性をたくさん見て来たんだ
ろう? それでどうしてぼくにそんなことが言える」
言いながらアキラは自己嫌悪で死にそうになった。ヒカルの視線が苦しくて顔を逸らしたいけれど、押さえら
れてしまっているのでそれも出来ない。
「皺が、なんだって?」
間近から瞳を真っ直ぐに見つめてヒカルが言った。
「こんなの、ただおまえがセクシーに見えるだけじゃん」
すっと小指で皺をなぞるようにして言う。
「それから白髪? 真っ白になっても、きっとすげえ綺麗だと思うぜ?」
こういう時のヒカルは直球だ。逃げる間も無く叩き込んで来るから、聞かされるアキラはもう赤面するしか無い。
「おまえの『綺麗』の基準がどうなのか知らないけど、おれにとってはおまえが全部、綺麗で可愛い。皺が寄ろ
うと、白髪になろうと、シミが出て歯が全部無くなったとしてもおれにはやっぱり綺麗に見えるだろうと思う。さっ
き若い子がどうのって言ってたけど、男だって女だって年を取るのは一緒だし、今若いヤツだって何れみんな
同じように年を取って行くんだぜ?」
なのにおまえは何を気にしているんだよとヒカルが問う。
「だって、キミは…ちっとも変わらないから」
「そんなこと無いよ、おれだってきっちり老けてるよ」
「それでもキミの年の取り方は素敵だ。ぼくとは違って格好良く年を取っている」
実際はヒカルも言う通り、年相応になっている。ただ、皺は笑いじわがそのまま刻み付いた感じで愛嬌があっ
たし、髪に散る白い物も元来悪戯小僧的なヒカルの雰囲気をいい感じに渋く落ち着かせている。
同い年で側に居て、どうしてこうも年の取り方が違うのだろうとアキラは少し恨めしくなるのだ。
「…でもおれ、たぶんもっと年取ると、アタマ薄くなって来ると思うけど」
アキラの言葉を聞いた後でヒカルがぽつりと呟いた。
「父方の祖父ちゃんがそうだったし、叔父さん達もみんなそうだから遺伝的にはいつか確実にそうなると思う。
それに今は鍛えているから平気だけど、運動しなくなったら途端に太るタイプだと思うけど」
いきなり何を言い出すのかと、アキラは驚いてヒカルを見詰める。
「そんなこと…解らないだろう」
「いや、なるよ。で、おまえはそうなった時、ハゲでデブなおれなんかみっとも無いって嫌いになっちゃう?」
「まさか!」
アキラはびっくりして即座に否定した。
「そのくらいで嫌いになんかなるわけが無いだろう。そもそもぼくはキミの中身が好きなのだし、外見だって少
しくらい変わっても好ましいとしか思わないと思う」
「倉田さんみたいに丸くなったり、桑原先生みたいに迫力のある顔になっても?」
「可愛いし、格好良いじゃないか!」
思わず力を込めてアキラが言うと、ヒカルは目をくるりと回して見せて、それから弾けるように笑い出した。
「どうして笑うんだ」
けれどアキラは何故笑われたのか解らない。ムッとしてヒカルを睨みつけた。
「いや、だってさ、それのどこがおれと違うんだよ、同じじゃん。なのにどうしておれの言うことは信じられない
かなあ」
そしてただでさえ距離の近い顔を更にぐっとアキラの方に近づけて、じっとアキラの目の中を見詰めた。
「信じろよ。愛してる」
鼻が触れあう程の位置で言われると迫力がある。
「…進藤」
「おれはさ、おまえの全部丸ごとを、今までもこれからも含めて全部愛しちゃってんの。だから年なんか関係
無いし、見た目がどれほど変わったってこの気持ちは絶対に変わらない。いつだっておれにはおまえが一
番綺麗だし、どんな時だっておれにはおまえが宇宙一可愛いよ」
だから怖がらないで、一緒に仲良く年取って行こうと言われてアキラはぐっとこみ上げてくるものを堪えなけ
ればならなかった。
「…ぼくだっていつか禿げるかもしれない」
「可愛いって」
「皺だらけでシミだらけで腰も曲がるかもしれない」
「曲がらないだろ。おまえいつも姿勢がいいし。でももし曲がったとしても、おれがおまえの杖になってやるよ」
自分だってその頃には腰が曲がっているかもしれないのにと、ふっとアキラは優しく笑った。それは久しぶり
に純粋に感じる幸福感だった。
「―物好き」
アキラはそう言うと、ヒカルがやっているのと同じように両の手でそっと目の前のヒカルの頬を挟んだ。
ヒカルの頬は温かくて、間近に見える目が自分を見て笑っているのがとても嬉しかった。
「ぼくも…キミの顔が好きだ」
「うん」
「年を取っても変わらずにキミのことだけを愛し続ける」
「おれも」
そして再び唇を重ねるとキスをした。
ヒカルとのキスは優しくて、たまらないほど甘かった。
何千、何万回とこれからも繰り返されるだろう幸せな口づけ。
アキラは唇を重ねながら途中で薄く目を開き、やはり進藤は男前で格好いいと己の幸福を今一度しみじみ
噛みしめたのだった。
※なんとなくものすごく50過ぎの二人を書きたくなって書きました。プロキシの二人かなあとも思いつつ、よく解りません。
そしてこんな年になってもまだ「進藤」「塔矢」呼びの二人です。何歳になってもラブラブ。 2013.6.14 しょうこ