左手に金環食



「ねえ、アキラは見た?」

棋院の一階、駆けつけて来るなり、おはようも言わないで兄弟子の芦原が言った。

「何がですか?」

エレベーター前、アキラは一向に上昇ボタンを押す気の無さそうな芦原に、仕方無く自分でボタンを押
した。


「何って金環食に決まってるじゃない。ぼくずーっと楽しみにしていてね、専用グラスを買って夜明け前
から待機していたんだよ」


途中曇ってドキドキしたけれど、欠けて行く所とかちゃんと見られて感動したと、うっとりとした口調で言
われて、アキラは思わず笑ってしまった。


「芦原さん、そんなに天文好きでしたっけ?」
「別に天文ファンってわけじゃないけど、世紀の天文ショーだよ? 興奮するに決まってるじゃないか」


アキラだって見たんでしょうと尋ねられ、躊躇いがちに首を横に振る。

「いえ、それがすみません。その時間…起きられなくてまだ寝ていたもので」
「アキラが? ええっ? あれって七時半ぐらいだったよ?」


どうしちゃったのと言われてアキラは申し訳無さそうに笑うことしか出来なかった。



『いいじゃん別に』

一応、アキラだって専用グラスを買って用意していたのだ。それをいつもなら一番そういうことに乗り気
になるはずのヒカルがあっさり一蹴してしまった。


『ひっさしぶりに会うのに、お日様見るためにお預けだなんて、そんなの絶対ヤだからな!』

それがヒカルの言い分で、実際二人きりで会うのはほぼ一ヶ月ぶりだった。

アキラだって、久方ぶりの逢瀬に何も無しというのは考えられないと思ってはいたが、何分こういう時の
ヒカルはブレーキが利かない。たぶん翌日は金環食が見られる時間には起きられないだろうと思った。


『キミはいいのか?』
『おれ? だから言ったじゃん。何百年ぶりだろうが、何十年ぶりだろうが、おれはお日様なんかより、
おまえを見てる方がずっといいの!』


だからいつまでもぐだぐだごねて無いで、その綺麗な体をおれに見せてくれよと急くように言われ、アキ
ラは苦笑しつつ折れてしまった。


そしてその結果は、ほぼアキラの予想した通りになった。

予定していた雑誌の取材にはなんとか間に合いそうだったけれど、それでも軋む体でベッドから起きあ
がったのは、10時を少し過ぎた頃だったのだ。




「昨日はつい夜更かしをしてしまって…」
「ダメじゃない。世の中には金環食を見ながらプロポーズした人だって居るんだよ?」


呆れられたように笑われて、アキラは薄く笑い返した。

「そうみたいですね。でも、どのみちぼくにはそんな甲斐性はありませんし」

実際、もし見ていたとしても金環食と同時にプロポーズなどという恥ずかしい行為はアキラには出来な
い。


「進藤くんは見たのかなあ」
「は? 進藤ですか?」


いきなりの名前に内心ドキリとしながら尋ね返す。

「そう。いや彼、こういうのすごく好きそうじゃない」

派手な専用グラスを買って見ていたのではないかと言われてアキラは笑った。

「見ては…いないみたいですよ」
「えーっ! そうなの? 彼絶対好きだと思ったんだけどなあ」


ああ、でもその時間だと起きられないのかと芦原は一人で勝手に納得している。

「進藤くん、朝弱そうだもんねえ」
「そうですね、いつもは朝は弱い方ですね」


けれど実際はアキラが起きるよりもずっと早く、それこそ金環食が起こり始めるずっと前から起きて
いたのだ。


そして眠っているアキラの体をずっと愛しそうにさすっていた。

『今…時間は?』

辛うじて目を開けて尋ねたアキラにヒカルは笑った。

『教えない。教えたらおまえ起きてきちゃうもん』

そのままゆっくり眠っていてよと、これ以上無い程優しい声でヒカルは言った。

『どうしても起きなきゃの時間になったら起こしてやるから、それまではゆっくり休んでて。おれ無理
させちゃったし、おれが居るのにほったらかしでお日様なんか見て欲しく無いし』


後でずっといいもん、おまえに見せてあげるからと、半ば言い聞かせるように言ってアキラの目を閉
じさせた。


(進藤は我が侭だ)

まさか太陽にまで焼き餅を焼くとは思わなかった。

(でも本当に『いいもの』を見せて貰ったし)

目を覚ましてから後のことは、強引で我が侭で自分勝手な進藤ヒカルにしては中々上出来だったの
ではないかとアキラは思う。


「そうだ、冴木くん! 冴木くんは見てるかなあ」

唐突に意識を破るように言われてアキラは我に返って兄弟子を見た。

「…そうですね、冴木さんなら見ていたかもしれませんね」

アキラは実際には冴木をほとんど知らなかったけれど、反射的に言葉が口から漏れた。

「次に会った時にでも聞いたみたらどうですか?」

「うんうん。そうするよ。この感動は誰かと分かち合わなくちゃ。あ、そういえば案外緒方さんも見て
いたかもしれないなあ」


「緒方さんが?」

それこそ天文好きとは知らなかったが。

「あの人、ああ見えてロマンティストだからね、きっと一人でマンションのベランダから見ていたと思う
よ」


可笑しそうに笑われて、アキラもつられて笑ってしまった。

確かに緒方にはそういう所があるような気がする。

「でもプロポーズの話じゃないけど、本当はこういうのは好きな人と一緒に見なくちゃね」
「そう…ですね」
「ほんと、ぼくらはそういう所は寂しいよねえ」
「いえ、ぼくは―」


言いかけてアキラはそっと口を噤んだ。

ゆっくりと握る左手の薬指には昨日までは無かった金属の感触がある。


『お日様のリングなんかよりこっちの方がずっといいだろ?』

いつの間に用意したのか、ヒカルはちゃっかり指輪を用意していた。

それこそ金環食のような細い―けれど銀色の美しいリング。

そしてまだ半分眠っているようなアキラの指にはめると、優しく頬にキスをしたのだ。

『結婚して、そしてずっとおれのことを好きでいて』

(柄にでも無い)

「ん? 何か言った?」
「いえ、何も」


らしくないヒカルの行動にアキラはとても驚いて、でも心から嬉しいと感じた。

(あの瞬間、たぶん日本中の人が空を見上げていたんだろうけれど)

でも、間違い無くその誰よりも自分達は最高の時間を過ごしていたとそう思う。

「…ロマンティストめ」

アキラはこっそり呟くと、密やかに笑いながら、芦原には解らないように指輪をそっと撫でたのだっ
た。



※一番見ていそうで実は見ていなかった二人の話。天の邪鬼というか、人がやることをやりたがることもあれば、それを全く
無視することもある。大事なことはそういうことではないからとマイペースな二人です。2012.5,21 しょうこ