挨拶をして校舎を出ると辺りはもうすっかり暗くなっていた。

「日が暮れるのが早くなったな」

先に出た進藤が空を見上げながら言う。

「そうだね。まだ五時を過ぎた所なのに」

まるで八時か九時のような暗さは、夜の風を一層冷たく感じさせた。


「五時って言うと生徒はまだ部活で残っていたりする時間なのかな」
「そうなんじゃん? 体育館が明るいし」


校庭を校舎に沿ってぐるりと回るようにして校門に向かう。その途中にある大きな建物の窓は
確かに明るく輝いていて、床をこする上履きの音やかけ声のようなものが漏れ聞こえて来た。



「バレーボール…?」
「バスケかも」


見えないからよくわからないけれど、たまにどんと壁に当たる重いボールの音がするので球技
なのは間違いない。


「あんなふうに遅くまで部活動をしていると、学生って感じがするものだよね」
「んー、どうだろう。そうかな?」


夜の闇を漂って来るたくさんの気配。

つい先程まで囲碁を教えていた、地域に住む大人達とは伝わって来る活気がまるで違う。

息づかいと、汗と、熱気と、津波のような走る足音と。

「…いいものだよね、ああいうのも」

校庭を照らす光を見詰めながらぼんやりと言うと進藤は黙り、それからふいにこう言った。

「おまえ、もしかして運動部とか入ってみたかった?」
「え?……いや、ぼくはあまり体を動かすことは得意では無かったし。それだったらキミだって何
かああいうスポーツをやりたかったんじゃないのか?」
「おれ? そりゃ休み時間は色々みんなでやったけどさ」


ああいう熱血みたいなのは好きじゃない。それにおれスゲエ我が儘だからみんなと一緒に何か
やるのは面倒くさくてたぶん無理と言うのになんとなく笑ってしまった。


「あ、なんで笑うんだよ、そこは笑う所じゃないだろう」
「ごめん、でもなんだかすごく納得してしまって」


確かに進藤は団体競技には向いていないかもしれない。戦だったら間違いなく表に立って戦う
タイプで、自分を殺して全体を生かす、そういうことには向いていないかもしれないと思ったのだ。


「本当にごめん、でもぼくもそうだし、それを言ったら囲碁をやっている人なんてみんなそうなん
じゃないのか?」


囲碁に限ったことでは無いかもしれないけれど、ぼくは自分が囲碁をやっているので余計にそ
う思ってしまう。


盤を挟んで相手と差し向かい、一手一手を考えて身を削ぎ落とすようにして打って行く。それは
相手との戦いであるのと同時に自分自身との戦いでもあって、非道く孤独な作業なのだ。


「研究会とか、皆で集まってすることも多いけれど、でも結局それはみんな己を高めるためだか
ら」
「すげえな、我が儘集団」
「一括りにするのもどうかと思うけれどね」


闇の中、わっと空気を響かせて歓声のようなものが上がった。

「なんだろう、練習試合でもやっていたのかな?」
「そうかも。それできっとどちらかが勝ったんじゃないか」
「結局バレーだったのかな? バスケだったのかな?」
「わかんねーなあ」



そんなことを話していると体育館のドアがいきなり開いて、数人の男子生徒が走り出て来た。

「今のシュート最高だったよな」
「ん、さすが下村先輩!」


聞こえて来た声に進藤と顔を見合わせて「バスケットだ」と笑った。

トイレにでも行くのかじゃれるように笑いながら走って行くその生徒達は、ぼく達のすぐ側をまる
でぼく達が居ないものであるかのように視界にも入れずに通り過ぎて行った。


「幾つ…年下なんだっけ」
「そんなでも無いだろ、五つか、六つかそれくらい」
「でもすごく遠く感じる」


遠く、遠く、まるで違う世界に居るかのように果てしなく遠い。

でももしかしたら最初からぼくは―ぼく達は彼等とはずっと離れた所に居たのかもしれない。

「…おれさあ」
「何?」


去って行くその後ろ姿を見詰めながら、ふいにぽつりと進藤が言った。

「もし囲碁をやっていなくて、小学校とか中学校とかの時におまえと会ってたら話して無いかも
しれない」
「え?」
「おまえ頭良くて取っつき難そうだから、苦手だったかも」
「ぼくも…そうかな」


元々一人で居るのが好きで騒々しいのは嫌いだった。見るからにガキ大将タイプの彼と気が
合うとはとても思えない。


「ぼくもキミと同じクラスだったりしたら、キミのことがあまり好きでは無かったかもしれないよ」

ぼくの答えに進藤は苦笑したような笑いを浮かべて、それから改めて体育館の窓を見上げる
と小さく続けた。


「でも…」
「でも?」
「でもきっと好きになったと思う」


最初は好きじゃないと思っても絶対におまえのことを好きになったと思うと言われて頬が熱く
なった。


「ぼくは―」

言いかけた時バタバタと足音が近づいて来て、さっき出て行った男子生徒達がまた走りなが
ら戻って来た。


「早く帰らないと先生に怒られる」
「ダッシュ百回やらされるかも」
「えー? マジ地獄」


口々に言いながら走るその姿の中に一瞬ぼくは進藤とぼくを見たような気がした。

実際には存在しなかった同じ環境を生きる小学生くらいのぼくと進藤と、中学校時代の同じ
ジャージを着て走る彼とぼく。


彼は他の友達と、ぼくは一人でゆっくりと、でも走りながら同じ体育館に向かって行く。

騒々しく、静かに、笑いながら、無口に。

それは闇の中、切り取られたように輝く灯りが見せた、ただの幻だとはわかっていたけれど、
ぼくはなんだか本当に進藤と一緒に学生生活を送ったような錯覚を覚えた。



「ぼくも―キミのことを好きになったと思う」

体育館の中に消えて行くその姿を見詰めながらぼくは呟いた。

「絶対にキミのことを好きになっていたと思うよ」

例えどんなに騒々しくても、性格も何もかも合う所は無いと思ったとしても、何故か絶対に好
きになっていたはずだという気持ちが確信のようにわき起こる。


「うん。…もしもキミと同じ学校に通っていたら、きっとキミのことを好きになっていたよ。今と
同じように」
「おれも、おれは今よりもずっと」


ずっと絶対におまえのことが好きになったと思うと言って、進藤はもう一度体育館の窓を見
上げた。


ぼくもつられるように見上げ、それからしばし灯りを見詰め続けた。

休憩なのかなんなのか静まりかえった窓からはもう熱気も息づかいも何も伝わっては来なか
ったけれど、まぼろしの自分達がまだ中に居るようなそんな気がした。




「帰るか」

しばらくして進藤が向き直り、ぼくの袖を引いて言う。

「寒くなって来たし」
「そうだねお腹も空いたし」


帰ろうかと、顔を見合わせて小さく笑ってからぼく達は歩き出した。

ピーッと甲高く笛の音が鳴り響き、体育館の中ではまた何か始まったらしかったがぼく達は
もう振り返らなかった。



過去は過去、幻は幻。


感傷に流されることなく「現在」を生きるぼく達は、他愛ない、でも幸せな会話を交わしながら、
二人で学校を後にしたのだった。




※ここの所似たような傾向の話が続いていてすみません。でもなんとなく秋になるとこういう話を書きたくなるんですよ(汗)
ヒカアキの二人は後ろを振り向かない、ひたすら前を向いて生きている人達だと思います。
2008.11.27 しょうこ