懐かしい人
持っていた覚えも無かったのに、引き出しの奥に思いがけない写真が一枚紛れ込んでいた。
(あ…)
十年以上前のその写真には懐かしい人が写っていて、今の今まで思い出しもしなかったのに、
見た途端猛烈に会いたくなった。
「進藤、ごめん。ちょっと出て来るから」
「って、おまえ今日は家で過ごすって言ってたじゃん」
「気が変わった。夕食までには戻って来るから」
驚き顔の進藤を残し、一人家を出る。
(久しぶりだな。変わっただろうか)
出て来た写真は海王中に居た頃の物で、部室で打っている所を撮ったものだった。
ほんの一時期しか囲碁部に居なかったぼくにとってはレアなもので、たぶん卒業式の時にでも
顧問の先生が渡してくれたものなんだろうと思う。
ぼくと打っているのは当時の部長。岸本さんだった。
「すみません、いきなり呼び出して」
待ち合わせ場所に指定したカフェに、岸本さんはぼくよりも先に来ていて、窓際の席でコーヒー
を飲みながら文庫本を読んでいた。
かけている眼鏡も髪型も記憶の中と大きく変わった所は無く、元々大人びた雰囲気の人だった
ので、やっと年齢が本人に追いついたという感じがした。
「久しぶりだな」
近づくと、顔を上げて文庫を閉じる。そしてぼくを見て懐かしそうに目を眇めた。
「随分活躍しているみたいじゃないか。新聞やネットでよく名前を見かけるよ」
「お陰様で何とかプロの末席を汚させて頂いています」
「謙遜を言うなと言いたい所だけれど、碁界のことは全く知らないわけじゃないからな」
上下の別無く、さぞや嫌われているんだろうと言う言葉に苦笑した。
飲み物を買って来て向かい側の席に座り、それから改めていきなりの呼び出しの非礼を詫び
た。
「お休みの所をすみませんでした」
「いや、いいよ。別に今日は何も用事が無かったし」
懐かしいから会いたいと衝動的に思ったぼくは、古い手帳から岸本さんの実家に電話し、そこ
から今の連絡先を教えて貰った。
思いがけず近所だった岸本さんは、突然の電話に少し面食らったようではあったけれど、二つ
返事で会おうと言ってくれた。
「そういえば岸本さんは今は何をされているんですか?」
「普通の会社員だよ。企画開発部という所で、文字通り商品の企画や開発なんかをやっている」
「どんな商品を作っているんですか?」
「キャラクター物とか色々だな。この間は女子高生向けの下着ブランドの立ち上げに関わって結
構大変な目に遭った」
「そうなんですか? 同性としては羨ましい限りのような気がしますが」
「現役の女子高生にリサーチしなくちゃいけないんだぞ? 一歩間違うと変質者扱いだからな。
普段の仕事の三倍は神経を使った」
ぼくの全く知らない世界のことを穏やかながら生き生きと話す岸本さんは、記憶の中の海王囲碁
部の部長とは別人のようだった。
あの頃のこの人は、もっと尖った印象があった。いつも眼鏡の奥から厳しい瞳でぼくのことを見詰
めていたのに、今は随分柔らかく笑う。
「そういうそっちはどうなんだ」
「どうと言いましても、岸本さんがご存知の頃とあまり生活自体は変わっていないですね」
打っては勉強の切磋琢磨の毎日ですと言ったら笑われた。
「おれにとっては色々な意味でそっちの方が羨ましい限りだが」
「そうでしょうか?」
岸本さんは院生だったこともある。一度はプロを目指し、けれどそこから自らの意志で道を下りた
人だった。
「まあ…無い物ねだりになるのかな。こういうことは」
「岸本さんはもう囲碁は―」
「打ってるよ。今でも好きだからね。同好の士を集めて会社の会議室を借りて週一で打っている」
「部活動みたいですね」
「そうかもしれない。おかげで得意先のお偉いさんにも二、三、『友達』が出来たよ」
あの頃、海王の囲碁部に居た人達は今はどうしているのだろうかとふと思う。
プロの中に見覚えのある顔は無いけれど、岸本さんのように皆打ち続けているのならいいなと思
った。
「そうそう、彼はどうしてる?」
「え?」
岸本さんがその名を出して来たのは会って話をして一時間ばかり経った頃だった。
「彼…進藤ヒカル。彼もプロで活躍しているんだろう」
「はあ…ええ、まあ」
「『竜虎対決』、この間の本因坊戦リーグではそう呼ばれていたね」
彼もようやく追いついたんだと言うしみじみとした言葉に違和感を覚えて顔を上げた。
「あの…部長は進藤とは一度しか会っていませんよね?」
囲碁部の大会で一度しか顔を合わせていない。それともぼくが知らないだけで、その後も葉瀬中
囲碁部と海王中囲碁部は接触があったのだろうか?
「三将戦の後、ちょっとね」
偶然会う機会があって少しだけ話したと、それは初耳だったのでかなり驚いた。
「そうだったんですか、その時進藤とは何を?」
「別に。ただ、そうだな。君がどれほど真剣に彼を追いかけていたのかを話したかな」
かあっと頬が熱くなる。
「あの…それは…」
「いけなかったか?」
「いえ、そういうわけでは…」
でもあの頃の自分の形振り構わずぶりが伝わってしまったのだとしたらかなり恥ずかしい。
「大丈夫。心配しているようなことは話していないよ。なんだったら―」
ふっと唐突に言葉を切ると、岸本さんは窓の外に目をやった。
「彼に直接聞いて貰っても構わないし」
ちょいちょいと窓の外を指さされて、素直にそちらに顔を向けたぼくは思わず飲んでいたコーヒ
ーを吹きそうになった。
道路側一面に大きく設えたガラスの向こうに進藤がこちらを睨んで立っている。
「塔矢が来たのと同じくらいからかな。ずっとあそこに居るんだが」
もちろん張り付いているわけでは無いが、隠れる気もさらさら無いようで、反対側の電柱に寄り
かかるようにして、じっとぼくと岸本さんを見詰めていた。
「彼、いつもあんな風なの?」
「いえ、普段はもっとまともな格好をしています」
というのは、進藤はたぶんぼくが振り切るようにして出て来たそのままを追いかけて来たようで、
上着を羽織っている上はともかく下はパジャマのズボンのままで、それにつっかけ履きというス
タイルなのだ。
髪はぼさぼさだし、たぶんきっと顔も洗っていないんだろう。完全に休日のごろ寝仕様だった。
「仲が良いんだな」
「は……はあっ?」
「面白いからこのままでもいいけれど、放っておくと不審者として通報されそうだな」
「すみません」
思わず謝ると何故か大声で笑われた。
「変わったな、塔矢」
「え?」
「昔の君は人に対して無関心で、何を考えているのかさっぱり解らなかったけれど」
今は違う、随分喜怒哀楽が顔に出るようになったんだなと言われて、褒められているのか貶され
ているのか解らなくて返事出来なかった。
「そんなに顔に表情が出ては碁打ちとしてはどうかと思うけれど、でも、どうせ彼に対してだけなん
だろう?」
「…知りません。いえ、…ぼくには解りません」
「いや、いいよ、悪かった。苛めるつもりじゃなかったんだが、ついね」
君達は面白い。昔からずっと面白いと思っていたと言われて更に返事が出来なくなった。
「君も必死だったけど、彼もかなり必死だな」
「そうでしょうか?」
「少なくとも俺なら、どんな理由があったとしてもあんな格好では外には出ない」
きっぱりと言われて苦笑した。
「あまり焦らせても可哀想だしそろそろ出ようか?」
「え? あ…はいっ」
そして岸本さんは、ぼくがあたふたとしている間にスマートに伝票を持って会計を済ませてしまっ
た。
「あのっ、すみません、ぼくがお呼びしたのに」
「いや、いいよ。一応年上だし。今日は話せて楽しかった」
「ぼくもです」
久しぶりに『部長』と呼ばれて懐かしい気持ちにもさせて貰ったよと言われて顔が赤くなった。
「すみません、それで…あの…」
「ん? まだ何か?」
怪訝そうな顔をする岸本さんを出口の前で引き止める。
「あの…中学の時は色々と我が侭を言いまして申し訳ありませんでした」
ずっと長い間、言いたいと思っていたことを一気に言って頭を下げる。
「――はっ」
はははと岸本さんは再び、店中の人が振り返るくらい大きな声で笑った。
「もしかして今日呼び出したのはそれを言うため?」
「はい」
写真を見て思い出したのだ。当時の自分がどれ程幼く傲慢だったか。
自分の気持ちに精一杯で、一つのことしか見えていなかった自分はどれだけ皆にとって迷惑な
存在だったことだろうかと。
「…本当に変わったよ君は」
噛みしめるようにしみじみと言われた。
「すみません」
「そういう所が、やはり変わった」
良かったなとそう言って笑う岸本さんは、印象は変わったけれど、やはり『部長』の顔をしてい
た。
「ありがとうございました」
「気が向いたらまた声をかけてくれ。今度はぜひお手合わせ願いたいし、そうだな、向こうさえ良
ければ進藤ともぜひ打ってみたい」
「はい。伝えておきます」
「それじゃ」
そして岸本さんが去るや否や、待ちかねていたように進藤がずかずかと近づいて来た。
「あれ、海王の大将だった人だろう」
いきなりの詰問口調で言う。
「そうだよ、キミ、岸本さんと知り合いだったんだってね」
「知り合いなんかじゃねーけどって、それより、おまえよくも――」
浮気! よくも堂々と浮気しやがってと凄い剣幕で迫られたけれど、ぼくは悪いと思いつつ笑って
しまった。
「何が可笑しいんだよって言うか、あいつと何楽しそうに話してたんだよ」
「ごめん、でも別に何も特別なことは話して無いんだ。ただ写真を見て懐かしくなって昔のことをち
ょっと…」
「昔のことって何だよ」
「だから大した話はしていない。それよりも、折角だから寄り道して帰らないか?」
「はあ? 誤魔化すなよ。そりゃあおれはあの人みたいに頭良く無いけど」
騙されないんだからなと口を尖らせるのが可愛くて更に笑ってしまった。
「頭が良いことまで知っているのか。キミ、もしかしたらぼくよりもあの人のことをよく知っているん
じゃないか?」
「だから知らないって!」
「うん。ごめん…そして本当に浮気もしてなければ誤魔化しもしていないから」
岸本さんに会いたくなった理由を進藤に説明するのは難しい。
どこからどこまでを話せばいいのか解らなくて、取りあえずはその珍妙な格好をどうにかしようか
と言って、ぼくは進藤の手を取り歩き出した。
普段はぼくよりずっと身なりに気を遣って、服にもそれなりに拘りがあって、なのに今はこんなちぐ
はぐな格好で外に居る。
「…愛されているなあ」
ぽつんと呟いたらぎょっとしたような顔をされた。
「何が?」
「ぼくがキミに」
取る物も取りあえず、一生懸命追いかけて来た姿を思うと愛しさに胸が潰れる。
その昔彼を追いかけたぼくも、端から見たらこれくらい必死でみっともない格好をしていたのかも
しれない。
(なるほど)
だから岸本さんはああ言ったのか。
『良かったな』と。
「で、結局の所、今日って一体何だったんだよ」
拗ねまくりの進藤をなんとか服屋に連れ込んで、見繕った服と一緒に試着室に押し込んだらふて
腐れたように口を開いた。
「おまえ、尋常じゃない勢いで出て行ったんだからな」
「そうだったか?」
「そうだったよ!」
「うーん…そうだな」
少し考えて彼を見る。
「キミが昔からいかにぼくのことを好きだったか、岸本さんに教えて貰っていた…かな?」
「はあ?」
頓狂な声をあげられた。
「嘘だよ―」
本当は今日は午前中一杯はだらだらと過ごして、それから買い物がてら外に出て、レンタルで映
画でも借りて来ようかと話していた。
普段あまり休みがかち合わず、合っても折角だからとどこかに遊びに出たりしてしまう。
そんなぼく達が得た、久しぶりのごく普通の休日。
少々日差しが暑いけれど天気も良く、先に起きた進藤はソファに寝転がってテレビを見ていた。
平和で、あまりにも平和で、幸せに胸が満たされた。
だからこそ何気無く開けた引き出しの奥に写真を見つけた時、衝動のように悔いてしまったのだ。
過去の自分の振る舞いのあまりの幼さと傲慢さを。
「ごめん、単に懐かしくなっただけなんだ。キミが昨日、葉瀬中の囲碁部の人達と電話で話してい
るのを聞いたからかな」
「ふうん…」
納得はしていない風だったけれど、それでも進藤は追求を止めた。
「あまり着ないとは思うけど、夏物のジャケットも買って行く?」
「いや、上着とかきゅーくつだからいらない。それよりさ」
「ん?」
「海王の大将とは仲良かったの? おまえ」
「まさか―」
嫌われていたよと言ったら進藤は複雑な顔をして、でもすぐに、「そうか」とほっとしたように笑った
のだった。
※海王中囲碁部の部長は大人だったなあと思います。そしてヒカルとアキラの有る意味理解者でも
あったんじゃないかなと思います。
なのであのままで終わらずぜひ成人した後にも何かで関わりがあればいいなと思います。
ということで今日はこの話を置いて行きますね。スパコミの代わりにはとてもなりませんがちょっとでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
2013.5.3 しょうこ←…のはずでしたが今日になりました。2013.5.4 しょうこ