寝ても醒めても



朝起きて、隣で寝ている進藤の額に軽くキスをする。

「おはよう」

囁いてもまだ寝ぼけているような顔が愛しくて、その瞼にもキスをした。


「今日は何時に帰って来んの?」

朝食の後、二人で皿を洗っていたら進藤がふと聞いて来た。

「…わからないな。取材の後、食事に誘われるかもしれないし、そうなったら少し遅くなるかもしれないし」
「そっか。おれは今日は夜は何も無いからちょっと早めに帰って来る。一応食事の仕度はしておくから、
食って来る時は連絡して」


「わかった」
「あ、そーそー」


くれぐれもその雑誌の記者に隙は見せないようにと、少しだけ声を落として、それから彼はぼくの頬にキ
スをした。


「わかってる。大丈夫だよ」

明るく笑って、ぼくからも彼にキスを返した。



「新しいシャンプー、いい匂いなのな」

エレベーターの中で進藤がぼくの頭に顔を近づけてくんくんと犬のように嗅いでから髪にキスをした。

「共用部分でそういうことをしない。またいつかみたいにマンションで何かあると監視カメラの映像をチェッ
クされるかもしれないんだからね」
「へーきへーき、そんなにそうそう、事件なんて無いって」


そして一階に下りるまでにどこの階にも止められないのをいいことに、進藤はぼくを引き寄せ口づけた。

「まったく…キミは懲りないな」
「粘り強い所が長所だってよく言われる」
「それは碁のことだろう」


ドアが開く瞬間にするりと離れて睨み付ける。

一階にはコンビニ帰りらしい中年の男性が居て、入れ違いにエレベーターに乗り込んで行った。ああ見ら
れなくて良かったと思った。




駅に着くまでの間、他愛無いことを話し、改札で別れてそれぞれの仕事場所に向かう。

仕事は一般誌の取材で、こういうのにはよく進藤と二人して取り上げられることが多いけれど今日はぼく
一人だ。


「そういえば塔矢七段は進藤六段と部屋をシェアしてらっしゃるとのことですが、しょっちゅう対局で顔を合
わせる同士での同居に問題は無いんですか?」


ぼくとはそう年の変わらない女性記者に質問される。

「そうですね、直接対局の前後は同じ部屋に居ても話しもしないことが多いですが、でもそれ以外の時は
そんなに気にならないですね」


色々と考えた末にぼく達は一緒に住んでいることを隠さないことにしていた。下手に隠して見つかった時
の方が変な憶測を呼ぶと思ったからだ。


「男性二人の同居ですが、家事とかどうなさっているんですか?」

一般誌なので聞いて来ることが囲碁雑誌とは少し違う。

「分担してやっていますね。時間のある方が食事の仕度をしたり、掃除や洗濯は休みの時に二人でまと
めてやったりとか」


「じゃあ、本因坊戦を戦った後にエプロンをしめて料理をなさっていたりするってことですね」
「さすがにタイトル戦の時にはそんな余裕はありません」


笑いながら答えて、でも今日辺り、進藤はエプロンをつけてシチューでも作っていそうな気がした。

カフェスタイルのエプロンは背の高い進藤に実によく似合う。あれをつけていてくれるといいなとぼくは思
った。


「それでは最後に一つ、塔矢七段のこれからの目標をお聞きしても良いですか?」
「精進すること。それに尽きますが、取りあえず間近に迫っている目標としては、リーグ戦で進藤を倒す
ことでしょうか」


「それは棋聖戦ですか?」
「はい、彼とは前回、挑戦者の座を争って負けていますから」


今回はぼくが勝ちますよと言ったら、うわあというような顔をされた。

「それじゃ、しばらくは生活空間が刺々しくなるということで」
「そうですね。洗濯物が溜まりそうです」


笑って、写真を数枚撮ってそして別れた。

誘われるかなと思ったけれど、締めきりが近いらしく、また今度ということで食事には誘われなかった。

帰ることを進藤に伝えて、そのまま寄り道をせずに地下鉄に乗る。

駅前で果物を買って、マンションに戻ると鍵穴に鍵を挿す前にぱっとドアが開いた。

「おかえりっ」

攫うように腕に抱かれてそのまま玄関でキスをされ、危うく果物を落とす所だった。

「ドアを閉めるまで待てないのか」

人に見られたらどうすると突き放すと、「ちゃんと確認してからした」と悪びれ無く言われた。

「夕飯は?」
「シチュー。日曜に買った牛肉そろそろ食わないとだから」


ああやっぱりシチューだった。そう思いながら改めて進藤の姿を見る。

「なに?」
「いや、そのエプロンはやっぱりキミによく似合っているなと思って」
「別にこんなの、誰でも似合うよ」


こんなに長く一緒に居るのに、ぼくが面と向かって褒めると未だに進藤は照れた顔をする。

その、照れ臭そうな顔がぼくは大好きだった。

「で、どうする? すぐ食う? 休んでからにする?」
「汗をかいたからシャワーを浴びて来る。着替えたら食事にしよう」
「了解」



翌日は手合いがあるのでワインでは無く、葡萄ジュースにした。

いつだったか、仕事で山梨に行った時に進藤がワイナリーで買って来たそのジュースは、葡萄の渋み
が生きていて、甘ったるく無くて美味しかった。



食べ終わって、片付けをして、その後二人で検討する。

こういう時、パートナーが棋士だというのは良いなと思う。いつでも好きな時に好きなだけ打つことが出
来るというのは有り難い。しかも力が拮抗している相手ならば尚更だ。



「おまえって、結構顔に出るよなあ」

打ちながら進藤が苦笑したように言った。

「今、相手が棋士で良かったって思っていただろう」
「うん。キミは違うのか?」


尋ねると、一瞬間を開けて進藤はぼくの方に身を乗り出した。

「同じ。恋人が棋士って最高って思う」

そして掠めるようにキスをした。


打ってはキスをし、少しだけ争ってまたキスをする。

気がつくと結構な時間になってしまっていたので碁盤を部屋の隅に寄せて布団を敷いた。


「あ、風呂はどうする?」
「ぼくはさっきシャワーを浴びたけれど、キミはまだだったんだっけ」
「うん」
「いいんじゃないか? ぼくは気にしないよ」


ぼくの答えに彼は笑い、幸せそうな笑みで抱きしめて来ると、消した明りの下、今日の中で一番濃くて
深いキスをぼくに与えたのだった。



※5月23日はキスの日ということで、1日遅れですが。2012.5.24 しょうこ