主に泣いています
進藤はいつもにこにこと機嫌が良く、友人達に囲まれている。
人懐こいから親しくなるのに年齢は関係無いらしく、売店のおばちゃんと仲が良いのも知っている。
休憩時間には皆でよく笑っていて、取っ組み合いに近いようなじゃれあいをして怒られている姿も
時折目にする。
(犬みたいだな)
元気の良い、はしゃいだ犬みたいだとよく思う。
「進藤くんももう少し落ち着いてくれるといいんだけどね」
事務室に書類を出しに行ったら篠田先生が溜息をつきながらこぼしていた。
「彼、また何かやったんですか?」
「控え室の置物を和谷くん達とふざけていて割ってしまってね」
高価な物では無いけれど、善意で寄贈された物だったので進藤はかなりこってり絞られたらしい。
「悪気が無いのは解るけれど、もう小、中学生じゃないんだから」
いい加減子どもじみたことからは卒業して欲しいと、しみじみと言う言葉に苦笑した。
「大きなガキ大将って感じですからね」
「仮にもタイトルに手が届くかという棋士がああでは院生の子達にも示しがつかないよ」
悪影響を及ぼしかねないので困っていると言われて、ちらりと彼が可愛がっている岡くんと庄司く
んの顔が浮かんだ。
「その点、塔矢くんは申し分ない。これからも皆の良いお手本となるよう、よろしく頼みますよ」
「…はい」
真面目、勤勉、品行方正。
ぼくに振り当てられる言葉は彼とは真逆で、褒め言葉なのかもしれないが欠片の面白みも無い。
彼が皆と笑っている時、ぼくはいつも大抵一人で、彼のように人柄を慕って付いて来る後輩もいな
ければ、人となりを好いて集まって来る友人もいない。
元々それを望まずに人を寄せ付けないで生きて来たのだから当前で、それを苦に思っているわけ
でも無いのに、時折ふと気持ちが沈む。
(控え室の置物…なんだったっけ)
幽玄の間にあったのは本因坊道策の像だったと思う。でも控え室に何があったかと言われるとぱ
っとすぐには思い出せない。
(鶴と松だったっけ?)
それとももっと当たり障りの無いものだっただろうか。
考え、それでも思い出せなくてぼくは控え室に行ってみた。
もう遅い時間だったので部屋の中には誰も居ず、ぼくは置物が飾ってあっただろう床の間の前に
立った。
目を懲らすようにすると、ぼんやりとそこに何かがあったのは思い出せる。けれどそれが何だった
のかはやはりどうしても思い出せなかった。
「…どうでもいいじゃないか、そんな置物の一つや二つ」
あっても無くても自分には関係無いのに、どうしてわざわざ確かめに来てしまったのだろうと小さく
笑ったら、何故か同時に涙がこぼれた。
「ぼくだって―」
同じようなものじゃないかと、唐突に激しい衝動が襲ったのだ。
そこに在ったことは皆覚えている。けれどもし居なくなっても、ぼくがどんな人間だったのか覚えて
いる者は居ないだろう。
いてもいなくても同じようなもの。そう思ったらたまらなくなったのだ。
(進藤なら)
進藤だったらきっと違う。いなくなったらきっと皆それを惜しみ、彼を失ったことを悲しむだろう。
彼がどんな存在だったのか、どんな生き方だったのか、そして彼のどんな所を愛したのか忘れる
こと無く鮮烈に覚えているだろう。
それがぼくと彼の差。
行儀良く四角四面にしか生きられない、ぼくと彼との埋められない人としての器の差なのだ。
「………っ」
押さえようと口を指で塞ぎ、それでも合間から嗚咽が漏れた。
空しくて悲しくてたまらない。
どうしてぼくは、こんなにも中身の無い空虚な人間なんだろうか―。
ぼたぼたとこぼれる涙をそのままに立ち尽くしていたぼくは、ふいに背後から声をかけられてびく
りと肩を震わせた。
「あれー、塔矢じゃん。こんな時間に何してん……の」
いつもの如く明るい口調でぼくに声をかけた進藤は、振り返ったぼくの顔を見て、開いていたその
口をそのまま閉じた。
「ちょっ…おまえどうしたんだよ」
そして次の瞬間にはぼくに駈け寄って来て心配そうに肩を掴む。
「どうかしたのか? なんかあった?」
驚く程少ない語彙で、でも真剣に心配しているのが肌を通して伝わって来る。
「なんでも無い。放っておいてくれ」
泣いた顔を見られたことはぼくにとって最大の失態だった。例え進藤でも、いや進藤だからこそこ
んなみっともない顔を見られたくは無かった。
「放っておけって、だっておまえ泣いてんじゃん」
「キミには関係無い! 余計なお節介はしなくていいから、さっさとここから出て行ってくれ」
「塔―」
「今すぐ出て行けっ」
突き飛ばし、睨むようにして怒鳴ったら進藤はむっと表情を強ばらせた。
「そうかよ、悪かったよ」
ここには忘れ物を取りに来ただけで、下には和谷達が待っている。だから言われなくても速攻で
出て行くさと言う、進藤の声は氷のようだった。
「悪かったな邪魔して」
そして部屋の隅にあった漫画雑誌を手に持つと、捨て台詞のように言って出て行った。
「おまえって本当に可愛く無い」
進藤がいなくなって静かになると、張り詰めていた気持ちが揺るんで再び涙がどっと溢れた。
見られたく無い相手に見られ、心にも無いことを言ってしまった。
そのことが更に空しさを強め、もう泣き声を押さえる気もなくなってしまった。
へたりと座り込んで、そのまま畳に手を付いてわっと泣く。
(非道いことを言った)
進藤は何も悪く無かったのに、恥ずかしさのあまり非道い言葉を投げつけてしまった。
(ごめんなさい)
この世に数える程しかいない、ぼくを本当に案じてくれる人をぼくはつまらないプライドで傷付け
てしまった。
(本当にごめん、進藤)
こんなにも涙が出てくるものかと思うほど泣き、声が枯れるのではないかと思うくらい大声で泣い
た。
一生分泣いたのではないかと思うくらい泣いて、しゃくりあげる声がようやく収まった頃、ぼくは
ごしごしと目をこすった。
すうっと息が肺に送られる。やっと呼吸が少し楽になっていた。
「帰らなくちゃ…」
何時だろうとぼんやりと思い、ゆっくりと立ち上がって足を引きずるようにして歩く。
明りを消して、一歩部屋から出た所でぼくはぎょっとした。
壁に寄りかかるようにして進藤が居る。
「キミ…」
行ったんじゃなかったのかという言葉を声に乗せる前に進藤がちらりとぼくを見て言う。
「なんかメシ食いに行こう」
「え?」
「もうこんな時間だし、おれ腹減ったし、だからとにかくどこでもいいから何か食いに行こうぜ」
今だったら何でも美味く感じそうだからおまえの好きな和食系でもいいと言って、先に行こうとす
るから呆気に取られた。
「なんでキミと食事に行かなくちゃいけないんだ」
他に言いようもあるだろうにぼくはそんな言い方しか出来ない。
「なんでって…うーん、そうだな。腹減るじゃん?」
泣くと、と言われてカッと顔が染まる。
「泣いてなん―」
「事務の人に鍵預かってるから、閉めたらおまえ預かっていて。なんでかな、おれだと信用無い
んだよなあ」
進藤はぼくが突っかかりそうになっても気にしない。のらりくらりとかわしてしまって、普段と変わ
らぬ調子で話しかけて来る。
「それは…キミが粗相ばかりしているから」
「そう、それっ! なんでみんなそう言うかな」
大変失礼だと思うと口先を尖らせて言うのをぼくは非道く混乱した気持ちで見詰めた。
「キミ…怒っていないのか?」
「何が?」
「さっきぼくは非道いことを…」
「なんか言われたかもだけど知んない。おれ記憶力悪いし。だからおまえもおれが覚えていない
ことなんか気にしなくていいんじゃねえ?」
あっけらかんとした口調は非道く軽薄にも思えたが、進藤の声には温もりがある。思いやってく
れているのだと、いくらひねくれたぼくにもそれくらいは解る。
「…和谷くん達は?」
手早く靴に履き替えてエレベーターの前に立つ。
「詫び入れてパスした。まあ別におれがいなくても面子多いし」
「飲み会か何か?」
「合コンみたいなもんだったけど、元々そんなに気ぃ進んでなかったから」
進藤の口調は淡々としていて、申し訳無いと思う隙をぼくに与えない。
「よく…行くのか? そういうの」
「え? いや…うーん。頭数足りない時にはたまに声かかるかな」
「そうなのか」
「おまえは?」
「え?」
「おまえこそ、そーゆーのよく声かかるんじゃねーの?」
「まさか、ぼくを合コンに誘う奇特な人はいないよ」
「そうか」
良かったと、ぽつりと進藤が言ったのでぼくは少し驚いた。
「進藤?」
「あのさ、おれ、ずっと前にここで泣いたことがある」
「え?」
「あ、控え室じゃねーぞ。でも、こんなふうな夜に、棋院で一人ですげえ泣いたことがあるんだ」
「そう…なんだ」
「うん」
きっぱりと言って進藤はぼくを見た。
「だから恥ずかしがることなんて無い。少なくともおれには」
そして手を差し伸べられて、おずおずとその上に自分の手を重ねた。
途端にぎゅっと握られる。
「世の中なんて、辛いことばっかりじゃん」
その顔は非道く大人びていて、ああ、そうかと何かがふっとぼくの中で腑に落ちた。
進藤はただ、にこにこと脳天気に機嫌良い顔をしているわけじゃない。辛さも苦しさも全部自分
の内にくるみこんで、その上で敢えて笑っているのだ。
「蕎麦…でもいいのか?」
「ん?」
「食べに行くの。ぼくは蕎麦が食べたい」
熱いそば湯が飲みたかった。
「いいよ、それで」
「…ありがとう」
「蕎麦くらいで?」
「人払いしてくれたんだろう? だから…ありがとう」
邪魔されずぼくが泣けるように、誰も近寄らないようにしてくれた。そして自分はああして壁一枚
隔てた場所で、守るように付いていてくれたのだ。
そのことが素直に嬉しかった。
「そんなにおれ、優しく無いけど」
「そうかもね。でもぼくはキミは優しいと思ってる」
その後は、二人とも無言のままで一階まで下りた。
「先出てて、おれ鍵閉めるから」
「うん」
「…だよ」
「え?」
「おれが優しいのは、おまえにだけだよ」
ぼそっと言って二度は繰り返さない。
促されて出た外は賑やかで、棋院の中の方が静かだったことにぼくは少し驚いた。
「じゃ、行こう」
ぶっきらぼうに言って進藤がぼくに鍵を手渡した。
「あ、――うん」
ほんのりと温もりの残る鍵をポケットに仕舞い、それから改めて進藤を見る。
相変わらず犬のように人懐こく、人好きのする横顔をしていたけれど、それ以上に頼れる何か
がそこにあった。
「…進藤」
好きだなと、そう思った。
※すみません、タイトルの漫画は未読です。でもなんかタイトル見た時、ぱーっとアキラの顔が浮かんでしまって(^^;
未満というか、それ以前の二人の話です。アキラも人の子なので一人落ち込むこともあると。ヒカルの方がちょっと大人。
本当にちょっとだけですが。2012.7.29 しょうこ