お伽噺




進藤との関係が知れてしまった後の周囲の動きの素早さは、驚き呆気にとられる程だった。

個人の問題だからと高をくくっていたぼく達は、あっという間に時代錯誤な身分違いの恋人達のよう
に引き裂かれ、ぼくは実家に、彼もまた実家へと引き戻されて二度と会うことが出来ないようにと、
ぼくは父に中国に連れて行かれることになってしまった。


有り得ない。

ほんの少し前までぼく達は、毎日をただ幸せに過ごしていた。

人目を憚らなければならない恋愛ということは自覚していたし、生涯公には出来ないことであるとも
理解していた。



でも、秘めたままでいい。

誰に祝福されることがなくてもそれでいい。

彼と二人、愛し合うことさえ出来ればいいとそう思っていたのに、そのささやかな願いさえ許されない
ことだったのだと思い知った。




「どうしてですか? ぼくは彼と別れたくない」
「それが異端だと、どうしてお前はわからない?」


人と違う道を歩むということがどれ程の反発と差別を生むのか、どうしてそんな明白なことがわからな
いのだと、にべもなく父は言った。


母はただ泣いているばかりで、でも時折こぼす言葉は進藤への恨みのような呟きで、ぼくは聞いてい
て胸引き裂かれるような気持ちになった。


大切にぼくを慈しみ育ててくれた両親、その両親を愛していないわけは無く、けれどぼくは進藤もまた
それ以上に愛していた。


どちらを取るのかと言われたら、親不孝と言われても迷わず彼と言えてしまうくらいにぼくの心は彼で
占められ、彼と別れて生きるなど考えることも出来ないのに、周囲の誰もがぼくに彼と別れろと言う。




「芦原さん、芦原さんもぼくに進藤と別れろって言うんですか?」
「アキラ・・・」


興奮して捲し立てるぼくの宥め役で来たのだろう、芦原さんもぼくの問いには俯いた。

「ぼくはアキラのことをよく知っているし、アキラと進藤くんが子どもの頃からどれだけ深い繋がりがあ
ったかも知っている。でもそれでも正直、友達以上の関係になっていたと知った時にはショックだった」


同性同士の恋愛というものが存在していると知識で知っていても、やはりそれには生理的な拒絶感が
あるんだよと言うその顔は辛そうだった。


「先生が別れろって言うのは世間的な体面を気にしているからじゃないよ。先生だってアキラがどれだ
け進藤くんのことを好きか、嫌という程ご存知だから」


でも、それでも止めるのは親としての情なのだと、言う言葉はぼくの耳には苦く響いた。

「どこの世界に自分の子どもがみすみす不幸になるのを見逃せる親がいる? 今はまだ内々にしか知
られていないからいいけれど、もしこれが公に知られるようになったらアキラはどうなる?」


アキラだけじゃ無く、進藤くんだって同じだと芦原さんは言った。

「二人とも好奇の目に晒される。全ての人が嫌悪するわけじゃないだろうけれど、アキラ達と打つことを
拒む人達だってきっとたくさん出てくると思うよ」


そうなったら二人とも棋士としての未来を断たれるだけでは無く、日常の生活にも支障をきたすようにな
るだろうと。


「でも…それでもぼくは構わない。進藤だって構わないって…」

「アキラ、アキラ達だけの問題じゃないんだよ? アキラ達がそういう関係だってわかれば先生にだって、
どれだけ影響があるか」


それは進藤くんのご両親も同じだよと言われてドキリとする。

「進藤くんのお父さんは普通のお勤めをしているんだろう?」

そんな人が息子が同性愛者だと知れたらどういうことになるだろうかと言われてぼくは耳を塞いだ。

「でも、でも…ぼく達は―」
「可哀想だけれど、アキラ…進藤くんとのことは諦めた方がいい」
「芦原さん!」
「今だってもう日本で打ち続けるのはかなり難しいかもしれない状況なんだ」


中国に行くということは二人の未来を慮った、かなり恩情のある処遇だと思うよと言われてぼくは泣い
た。


(どうして)

好きな人を好きでいる、それだけのことが許されないのだろう?

人に迷惑をかけるわけでも無いのに、同性だというだけでこんな目に遭わなければいけないのだろう
か?



進藤の気持ちを知りたくても始終見張りが張り付いていて、電話もメールも何も出来ない。自分の無
力さを噛みしめながらじりじりとした日々を過ごしていたぼくに、ある夜そっと彼が忍んで会いに来た。


もちろん会いにと言っても直接家を訪ねて来たわけでは無い。

部屋の外、閉じられた窓のその向こうに進藤が来られたのは、芦原さんが別れる前にと短い逢瀬を用
意してくれたのだと後に知った。



「塔矢」

深夜にこつと窓を叩かれた時、ぼくはうとうとと眠りかけていて、でもその声にはっと飛び起きた。

「進藤!」

飛びつくように窓にかけより、でも開けようとしたら止められた。

「ダメ、開けないで」
「どうして? キミの顔が見たい。ずっと…ずっとキミに会いたくてたまらなかったのに」
「おれだっておまえに会いたかった。でも…ダメだ」


顔見たら決心が揺らぐからと言われてはっとした。

「進藤?」
「…別れよう、おれ達」


耳を疑った。

「どうして! 周りがどうでも構わないってキミは言っていたじゃないか」

大切なのはお互いの気持ち。それさえ変わらないのなら誰を泣かしても世界中を裏切っても構わない
と。


「ごめん、でもやっぱり別れた方がいいと思う」

おまえもおれも碁バカじゃんと言う彼の声は苦い。

囲碁をしない人生なんて考えることが出来ない程、それは切っても切り離せないものになっている。

「親を泣かせても、誰を泣かせても構わないって思ってた。誰を裏切ってもおまえさえいればって」
「ぼくは…今でもそう思っているよ」
「でも、ダメだよ、それじゃダメなんだ」


棋士として生きられない。それではおれ達はダメなんだよと言われて喉の奥が詰まるような気がした。

「そんな…そんなこと」

他の誰が言ったとしても彼の口から聞きたくは無かった。

「嫌だ! ぼくはキミと一緒に居たい」
「聞き分け無いよ、おまえ」


ガラスの向こう、ぼんやりとした後ろ姿の彼の影は微動だにせずぼくに言う。

「おまえ今年はリーグ入りしたし、きっともう何年もしないでタイトルを獲れる。なのにそれを全部ほっ
ぽり出しておれだけと打つなんて、そんな勿体無いことしちゃダメなんだ」
「進藤!」
「とにかく、おまえが嫌でも、おれは…おれはもう決めたから」


おまえと別れる。別れてもう二度と会わないと、その声にぼくはそっと尋ねた。

「それは、ぼくよりも棋士としての人生を選んだ。そういうことなのか」
「うん……」


わっと、感情が溢れてぼくは泣いた。

裏切られたその悲しさと悔しさで彼に掴みかかり怒鳴りつけてやりたい気持ちで一杯なのに、蹲る以
外に何も出来ない。


「ぼくは…ぼくは、キミが居てくれたらそれで良かったのに」

キミさえ居てくれたらそれで良かったんだと叫ぶ声を聞いているのか居ないのか、彼は答えずそのま
ま消えた。


泣きじゃくるぼくを置いて、言い訳の一つもせず、ただの一度も顔を見ようともせずに姿を消した。


そうかと思った。

そんなにもキミは囲碁が大切かと絞り出すような声でぼくは泣いた。

ぼくよりも、愛し合ったぼくよりも囲碁を続けることをキミは選ぶのかと、それはぼくには信じがたく、奥
底まで深くぼくの胸を貫いた。


そうか、そうなのか。

キミはぼくよりも囲碁を愛しているのか――と。



そして抜け殻のようになったぼくはもう抵抗することも無く、周りの言うままに中国に行く仕度を進めた。

相変わらずぼくの側には誰かが必ず見張りとしてついていたけれど、それもどうでも良くなっていた。

進藤から連絡が来るはずも無く、ぼくもまた彼に連絡を取ろうとは思わなくなっていたからだ。

あの夜、僅かの逢瀬で彼の気持ちはよくわかった。そっちがそうならもうぼくもどうでもいいと、そういう
気持ちで一杯だった。



半分夢を見ているように実感が無いまま、あっという間に時は過ぎて、気がつけば中国行き当日になっ
ていた。


両親は本気で進藤とぼくを引き離す心づもりらしく、実家を売り払い、中国に新たに家を買っていて、そ
こでぼくも暮すのだと宣言していた。


「親の目を離れると、ろくなことをしないということがよくわかったからな」

そう言う父の言葉には有無を言わさない響きがあった。

「わかっています。もうぼくの我が儘でお父さん達を苦しめるようなことはしませんから」

けれど母はまだどこか心配そうで、物言いたげにぼくを見て、それでも決してぼくの目は見ないのだっ
た。


芦原さんが言っていたように同性愛者に対する生理的な嫌悪というものがあるのかもしれないと思い、
それを寂しくは思ったけれど悲しくは無かった。



悲しいという気持ちはもうぼくの中にはどこにも無かった。

悲しいも嬉しいも何も。

ぼくの中の感情は死んでしまったのだ。




初めて母が口を開いたのは、空港で睦まじい新婚カップルを見た時だった。

たくさんの友人や親族に見守られ、これから旅立とうとしている幸せそうな二人を見た時、ずっと口を
噤んでいた母が思い詰めたような口調で言ったのだ。


「…あんなふうに、アキラさんには可愛いお嫁さんを貰って幸せに結婚して欲しかったのよ」

笑い声と笑顔。

冷やかすような声と幸せそうな空気。

それらを見詰めながらぼくもまた呟くように言った。

「ぼくか、彼が女性だったら良かったのかな」

ぎょっとしたように母がぼくを見た。

「どちらかの性が違っていたらこんな風に別れることにもならず」

皆に祝福されて共に生きることが出来たのだろうかと、それは何か考えて言ったことでは無かった。

ただ幸せそうな光景を見ていたら自然に体の中からこぼれて来た言葉だった。

「アキラさん、あなたまだ…」
「ありませんよ。進藤はぼくよりも囲碁をえらんだし、ぼくもこれからは余計な感情に流されないで一
生を送るつもりですから」


責めたわけでは無かったのに、母は痛い所を触られた人のような顔になった。

「一生…あなたは結婚しないの?」
「しません、もう」


もう二度とこんな思いはしたくないからとつぶやいた時に「アキラ」と叱責するように父が言った。

「人間は変わる。一時の感情だけで物を言うな」
「すみません」


それでもぼくはやはり結婚したくないと密かに胸の内で呟いた。

一生に一度の恋とそう思っていたから、ぼくは彼以外の誰とも恋も結婚も何もしたくは無いと思った
のだ。





芦原さんがぼくを呼んだのは搭乗手続きのアナウンスがあった直後だった。

「アキラ…ちょっと」

両親が見送りの人達と挨拶を交わし始めると、、芦原さんは目立たないようにひっそりとぼくを呼び、
少し離れた所に連れて行くと、内緒話のような小さな声で言ったのだった。


「これだけは言わなくちゃいけないと思って」
「芦原さん?」
「…進藤くんね、昨日づけで棋士を引退したんだ」
「引退? 何故?」


年配の方が引退というのはよく耳にすることだけれど、彼はまだそんな年には遥か遠い。

「進藤くんが自分で決めたんだよ。先生達と話し合った後に」
「進藤が? お父さん達と?」


初めて聞かされることにただ驚くばかりで、まともに返事をすることも出来ない。

「黙っているようにって言われていたんだけど、このままアキラを中国にやってしまったら、ぼくはずっ
と寝覚めが悪いからね」


そう言って芦原さんはぼくに、事が露見してからのことを話してくれた。

ぼくが隔離され、彼と引き離されている間、彼だけは彼のご両親も含め、ぼくの両親や棋院の関係
者皆とずっと話し合っていたのだという。



「先生は別れるだけでいいと、そう言ったんだけど…」

『でもおれが居るから、あいつは国内で打て無いんですよね?』

二人の恋愛でどちらがより問題になるかと言うと、知名度や塔矢行洋の名前を背中に背負っている
ぼくの方が問題だったと芦原さんは言った。


小さい頃から囲碁しか知らず、囲碁という水の中で育って来たぼくは、それ以外の世界では生きて行
けないだろうというのも問題だったと言う。だからこそ父はぼくを日本から離し、中国に連れて行こうと
決めたのだった。


それには皆納得したが、ただ一人、進藤だけが反対したのだと言う。

『中国でもどこでもあいつは大丈夫だと思う。でもやっぱり日本の棋士で居たいってあいつは思ってい
るはずだから』


だから自分が止めますと周囲が驚く程きっぱりと彼は言ったのだと言う。

『何も止めなくても。だったらキミが中国でも韓国でも行く形にしても』
『おれも日本の棋士としてしか打ちたく無いんです。だから―』


だからおれが止めて碁界から離れるのが一番いいだろうと進藤が自分で決めたのだと。

「なんで…そんな…」
「アキラのために決まってるじゃない。進藤くんは―」


辛そうに一度言葉を切ってから芦原さんはぼくに言った。

「進藤くんは自分よりもずっとアキラの方を大切に思っているみたいだから」

だからあの時あんなことを言ったのかと、ぼくはあの夜の進藤の言葉を思い出していた。

『お前はさ、先生と中国に行って、ほとぼりが冷めた頃帰って来たらいい』

あの時、ぼくはその言葉を自分はその間、日本で打っているからと言うふうに取った。

今までと変わりなく棋士としての生活を送る。だから人の記憶が薄れた頃におまえも戻ってくればい
いじゃないかと。


(でも違った)

そうではなかった。

彼は誰かが噂をしたくても出来ないように、ぼくが打ち続けられる環境を整えるために自分の存在
を囲碁界から消すことにしたのだ。


もし別れたとしても、会わなかったとしても、それでもどちらもが棋士として居続けるならば、過去を
持ち出す輩が必ず居る。それは再びぼくを脅かすことになるから、だから彼は自分が海外に行くと
いう手段を選ばなかったのだと思った。


自分も日本の棋士で居たいからと嘘をついてまで。



「それで…進藤は?」

尋ねるぼくの声は震えていたとそう思う。

「本当は…これも言っちゃいけないことになってるんだけどね」

今日引っ越しなんだよと芦原さんは言った。

「行き先は知らない。でも彼、どこか遠くに行くって言っていたよ」

うっかり会ってしまわないように、遠縁の親戚の方を頼って地方に行くと。

「まだ…それとも、もう行ってしまったんですか?」
「行っていないと思う。アキラの飛行機が飛び立つまではこっちに居るって言っていたから」
「飛行機が…飛び立つまで?」
「見えるわけじゃないのにね。見送りたいんだって、そう言ってたよ」


進藤! と、心の奥底からぼくは叫びそうになってしまった。

彼はぼくを裏切ってなんか居なかった。自分だってぼくよりもずっと囲碁バカなくせに、碁を捨てて
生きられるはずなんか無いのに、それなのにぼくのためにあっさりとその大切な碁を捨てた。



「ごめん…な…さい」

それは進藤に言ったつもりだった。でも気がつけばぼくの目は遠くに居る、父と母の姿を見ていた。

「ごめ……なさ………い。ぼくは――」
「うん、いいよ。アキラがしたいようにすればいい」


そう言って芦原さんはぼくの肩をそっと抱いた。

「…最初からそう言ってあげれば良かった。ぼくだけでもアキラの味方になってあげれば良かった」

アキラと進藤くんのこと、子どもの頃からずっと見て来たのにねと、どれだけ離れがたいか、互いを
必要としているのかよくわかっていたのに祝福してあげられなかったと言う声は悔いている。


「緒方さんはね、ずっとアキラ達の好きなようにさせてやりたいって言ってたんだ。進藤くんのことも
すごく心配して、打ち続けるように説得していたんだよ。でも、ぼくは何もしなかった」


むしろ別れることを促してしまった、ごめんねと溜息のように息を吐いて、それから静かな声で付け
足した。


「だから最後にアキラに本当のことを伝えられて良かった…」
「芦原さん…」
「行っておいでよ、アキラ。まだ急げばまだ間に合うと思うから」



アキラと父と母がぼくを呼んだ。

見送りの棋士の人達もこちらを見ていてぼくを呼ぶ。

「今、行かないと進藤くんに追いつけないよ」
「すみません――芦原さん」
「進藤くんによろしくね」


後はぼくがなんとかするからと言って体を離し、それからとんと胸を突いた。

「あっ、ありがとうございます」

深くお辞儀をした姿にざわりと皆がざわめいた。

「アキラさん?」

鋭い母の呼び声を聞きながら、ぼくは黙って身を翻した。

後に起こるであろう騒ぎには決して足を止めないようにと心を決めてロビーを走る。

「アキラさん、どこに行くの? アキラさんっ!」

母の声は悲鳴のようだった。

視界の隅、追いかけて来ようとする人々を止めようと、手を広げる芦原さんの姿がちらりと見えた。


(ごめんなさい)

ごめんなさいお父さん。

ごめんなさいお母さん。

ごめんなさい。ぼくを大切に思ってくれるたくさんの人達。

そして何よりもぼくを思い、ぼくのために自ら一番苦しい責めを負った彼の思いやりを無にしようと
していることに謝りながらぼくは走った。



早く、少しでも早く。

見失わず、決してもう離れることが無いように、追いついたらかき抱き、愛していると心から叫ぼうと
そう思った。


(どんなに怒られても、なじられて突き放されても、もう二度と離さない)


「進藤――」

ぼくに必要なのはただひたすらにキミだけなのだと伝える言葉を繰り返しながら、ぼくは今しもぼくを
見送るため空を見上げているだろう彼の元へ、ひた走りに走ったのだった。





※若先生愛の大暴走。実はタッチの差でアキラは間に合いません。でもアキラがアキラたる所以で根性で居場所を探り当て
て追いつきます。捕まえてもう二度と離しません。若先生の根性勝ちです。


引退しちゃったヒカルがその後どうするかですが、二人で地方で碁を教えて暮すという道もありますが、たぶんプロ試験を受け
直してもう一度一からスタートするんじゃないかと思います。
受けさせて貰えるかとか、色々問題山積みですが今度はちゃんと二人で話し合って乗り越えると思います。緒方さんや桑原本
因坊は味方になってくれるんじゃないかな。


それにしても、しかし、奈瀬ちゃんでは無いですが「こんな話を書けるから、書くことをやめられない」と思います。
どんな幸福よりもこれに勝る幸福は無いと思うので。


2009.6.23 しょうこ