白梅
梅祭りに行こうと約束をした。 市ヶ谷の駅の構内に綺麗に咲いた梅の花のポスターがあって、どこだろうと思って いたらそれは案外近くだったのだ。 「進藤、何を見ているんだ?」 「ん? ああこれ。湯島ってもうちょっと乗って行った先だよな?」 積もる雪のように咲く白い花と、合間合間に見える濃いピンク。 そして長い階段がポスターの中央には伸びていた。 「湯島天神だね。ずっと昔にお父さんと行ったことがあるよ」 そう言って塔矢は懐かしそうな顔をした。 「みそおでんと甘酒を売っていてね、その甘酒がさっぱりしていて美味しかったんだ」 「ふうん、甘酒。いいな」 「だったら一緒に行く?」 ふいに言われてどきりとした。 「ここからすぐだし、手合いの後に行ってもいいし…ああ、でも折角梅の花を見るんだ から昼間の方がいいかな」 だったら手合いの入っていない、お互いの都合のいい日に行こうと言われて、嬉しか ったけれどすぐに返事が出来なかった。 「花にはあまり興味が無い?」 「いや、見るのは別に嫌いじゃないし。でもおまえ、前に塔矢先生と見に行ったことあ るんだろう」 「あの時は花はまだ咲いていなかったから」 遠縁の子が受験でこちらに来ている時に皆で一緒にお参りに行ったんだよと言われ て、でもぴんと来ないでいると、おかしそうに笑われてしまった。 「湯島天神はね、菅原道真公を祀っていて、学問の神様で有名なんだよ」 だから今頃は最後のお願いをしに来た学生がたくさん居るんじゃないかなと言われて ようやく合点が言った。 「へーそうなんだ。おれ受験なんてしたこと無いから知らなかった」 「ぼくも学問のことでお願いをしに行ったことは無いな」 「おまえそれ嫌味。頭いいからって自慢すんなよ」 「違うよ。ただぼくは神様に頼んで合格するくらいだったら世の中そんな簡単なことは 無いってそう思っているだけだ」 危うく空気が悪くなりかけ、でもふっと笑って塔矢の方からその空気を壊した。 「…じゃあ、一緒に梅祭りに行くってことでいいのかな」 「ああ、空いてる日、後で調べてメールするから」 「楽しみだな」 もう何年も行っていないからと、嬉しそうに笑う塔矢の顔を見て、おれも無性に嬉しく なった。 そして、梅祭りのやっている一月ほどの間におれ達は何度か予定をやりくりして一緒 に行く計画をたてた。 けれど結局一度も行くことは出来無かった。 というのは最初に約束をした日には塔矢が熱を出してしまって行かれなくなり、その 次に約束した日にはおれがインフルエンザに罹っていたからだ。 そしてその次には急に仕事が入ってやむなく予定をずらさざるを得ず、ずらしたその 日には今度は別の予定が急に入るという始末だった。 「…なかなか行けないね」 手合い日に一緒に昼を食べながら塔矢がふと苦笑したように言う。 「もう少し近かったら打ち掛けん時にでも行っちゃうんだけどなあ」 「無理だよ、御茶ノ水で下りてまた乗換えて行くんだから」 歩いて行けばもっとかかるし、とても時間内には戻って来られないと、溜息をつく姿に こっちも思わず溜息がこぼれた。 「ごめん、おれが何度も約束破っているから」 「最初に熱を出して約束を反故にしたのはぼくだろう」 決してそんなに遠くでは無い。 けれど何故かなかなか行くことが出来ない。 どうしてこんな簡単なことが実行出来ないのだろうと、そんな焦れったさがずっとおれ の中にはあって、それはどうやら塔矢も同じようなのだった。 「縁が無いのかな…」 とうとう期間が過ぎて祭りが終わってしまった日、幾分すり切れかけたポスターの前で 塔矢は寂しそうに言った。 「何が?」 「ん? 梅祭りには縁がないのかなって」 そう笑った顔にほっとしつつ、けれどおれは内心、心臓が止まりそうな気分だった。 一瞬それが「おれ」とは「縁がない」と言われたかのように聞こえたからだ。 「大丈夫だって。これ毎年やってんだろ? だったら来年行けばいいじゃん」 「そうだね、消えてなくなるものでも無いし」 来年こそは絶対に行こうと笑い合って約束をした。 けれど結局その翌年も同じような経緯で行く時期を逃し、それは何年も繰り返されるこ とになったのだった。 「…大体時期が悪いんだよな。こんなインフルエンザの流行真っ盛りみたいな頃だから」 そうでなくても今は一年で一番寒い時期では無いだろうか? 何かと体調を崩しやすく 同時に慌ただしい時期でもある。 そのせいだろうか、おれ達は十代の頃に約束したその約束を20代になってもまだ果た せないままで居た。 「結局行かないままだったなあ…」 今年の新しい「梅祭り」のポスターが貼られている駅の壁を見詰めながらぽつりと呟く。 「…ほんと縁がないって言うかタイミング悪いって言うか」 「どうして過去形で言うんだ、これから行く所じゃないか」 おれの言葉を聞きとがめて塔矢が言う。 「この日のために何ヶ月も前から予定も体調も調整して、それでやっと行けるって言う のに、もしかしてキミは行きたくないのか?」 「違うよ、行きたいってば! ただあんまり長くかかったから」 こんな近く、その気になれば二十分くらいで行ける場所に「二人で行く」ことが出来ず、 おれ達はこんなにも長い時間をかけてしまった。 それがなんだかたまらなく悔しいような気持ちになるのだ。 「いいじゃないか、それでも今日無事に行けるんだから」 「うん、やっと甘酒が飲める」 おれの言葉に塔矢は苦笑したように笑った。 「変わらないなキミは。今も昔も食い意地ばかり張っている」 「そんなこと無いって、今も昔も―」 食い物じゃなくておまえのことばっかり考えてると言うおれの言葉に、塔矢はほんのりと 頬を染めた。 「まったく…口ばかり上手い」 「他もちゃんと上手いけど?」 いらんこと言いのおれの足を塔矢がこっそりと蹴る。 「梅は七分咲きくらいになっているんだっけ?」 「ん。ネットで見たらそのくらいだった。もう少し待てば満開になるんだけどな」 「それで待ってまた時期を逃すくらいだったら花なんか満開じゃなくていい」 きっぱりとした言葉に今度はおれが苦笑してしまった。 「なんだよ、それじゃ何が目的なのかわからないじゃん」 「わからない? 本当に?」 「いや、嘘。わかってる」 市ヶ谷の駅のホームで二人並んで電車を待つ。 それはごく普通のいつもと変わらない光景だったけれど、一つだけ違う所があった。 おれ達の指に真新しい、細い銀の指輪が輝いていること―。 「天気が良くて良かった」 「なあ、湯島天神ってさ、学問の神様だって前におまえは言ってたけど、なんだか―」 言いかけた時に電車がホームに入って来た。 「何?」 「いや、なんでも無い」 行こうぜと言っておれは塔矢の手を握り、二人揃って電車に乗った。 ほんの数駅。 すぐに下りて乗換えて更にほんの一駅で下りる。 たったそれだけの距離を今やっとおれ達は二人で行くことが出来るのだ。 焦れながら待った長い長い年月。 それはなんだかおれと塔矢が重ねて来た年月にも似ているような気がした。 離れて近づいて、近づいて離れて。 何度もすれ違い、急な流れに押し流されそうになりながら、けれどこうして踏み止まっ た。 「…やっぱ縁結びの神様だよな」 「え?」 「なんでも無い。うん、マジなんでも無いから気にすんな」 「そんなことを言われても気になるものは気になる」 正直に答えろと言うのにおれはにっこり笑って、ぎゅっとただ強く塔矢の手を握った。 「じゃあ、湯島に着いたらそこで言う」 白く、淡く。 桃色に濃く。 ポスターで見慣れたあの階段の両脇を今日も梅の木はたくさんの花を咲かせて佇ん でいるのだろうか? 来たくて、来たくて、来たくて、来たくて。 でもつまらない些細な出来事に邪魔されてずっと来ることが出来なかった。 (でもやっとこうして来ることが出来たんだから) やっぱりあそこは学問のカミサマなんかじゃない。縁結びのカミサマだと、白く咲く梅の 花の下でこいつの耳に囁いてやろうと、おれは目の前の窓に映る恋人の顔を見詰めな がら、ほろ苦く、けれどひたすらに甘い気持ちでそう決めたのだった。 |