深奥幽玄



連れて行かれたのは予想していたよりもずっと立派な大きな建物で、広さもかなりなものだった。

「いやあ、ちゃんと見ようと思ったら本当は丸一日かかるんですけれどね」

先生方にはそんなお時間は無いでしょうから見所だけをご案内しますと、普段の日はボランティアで解説をしているというその人は、
慣れた調子でぼく達を展示物の前に連れて行くと蕩々とした口調で由来を語ってくれた。


展示はかなり面白く、それに纏わる話も面白いものだったので、ぼくは夢中になって聞き入ったが、興味の無い進藤は退屈だった
らしく、途中からは好き勝手にふらふら一人で辺りをうろつき始めた。



「すみません」

熱心に解説して下さるのに申し訳無くてその人に謝ると「いやあこちらこそこんな地味な所しか無くて申し訳ありません」と逆に謝られ
てしまった。


「そんなこと無いですよ。こんな規模でこんな充実した資料が揃っている所をぼくは他に知りませんし、展示物も素晴らしいです」

「そうですか、それならば良かった」

そしてその後は進藤のことはドッグランに放した犬の如く放っておいて、ぼくとその人とでじっくりと展示を見て回って行ったのだけれど、
しばらくしてその犬が興奮した様子で走って来たのだった。



「塔矢、来て来て!」

「は? いきなりなんだ」

その時ぼくは平安京のジオラマを前に都の説明を聞いていたのだけれど、そんなことはお構いなしに彼はぼくをぐいぐい引っ張って
どこかへ連れて行こうとする。


「いいから来いってば、おまえに見せたいものがあるんだって」

「何かご興味を惹くものがありましたかな」

解説を途中で切られたにも関わらず、その人は笑顔でぼくに行くように勧めてくれた。

「すみません…すぐに戻って来ますから」 

そして引っ張られるまま付いて行くと、進藤は大きな漢文のパネルの前で立ち止まった。

「これこれ」

「これって、これが何か…」

「ここ、見ろってば。『山の中で二人で一局碁を打った』って書いてある」

ちぎれんばかりにしっぽを振った犬。そんな面持ちで進藤はぼくを見詰めている。

仕方無く見てみたぼくは驚いた。びっしりと連なる漢文のその一行には確かにそう書かれていたからだ。

「…本当だ」

「な? な? すごいよな。こんな昔にもおれ達みたいに碁が好きなヤツがいたんだぜ」

興奮収まらぬように進藤は文字を撫でている。

「でもキミ、漢文なんか読めたんだ?」

「え? 知らねーよ? でも通りがかりに『一局』って文字が見えてよく見たらそう書いてあったから」

「…にしても」

よく気がついたなと思った。

ぼくもそのパネルの前を通り過ぎたはずなのに、大量の文字の中に埋没した文に気がつくことは無かった。

それなのに返り点の意味もろくに理解していない進藤がそれを易々と見つけ出したことに驚嘆する。

「なんかいいよなあ、こういうのって」

しみじみとした口調で進藤は言った。

「おれ達もいつかこんなふうにずっと後のヤツらに思って貰えたらいいよなあ」


これを書いたのは一体どんな人物だったのだろう。

そしてどんな相手と打ったのだろうか?

何百年も前の誰かが今のぼく達のように大切なただ一人と誘い合い、静かな山の中で碁盤を挟んで向かい合った。そう思ったら
ぼくも胸の奥が熱くなった。


木々の間には白いもやが出ていただろうか? それとも鳥たちのさえずりが響いていただろうか。

想像するそれは幽玄だ。

「そうだね」

目を閉じれば、ぱちりと石を置く音さえも聞こえるような気がする。

ぼくは進藤に倣って漢文のその一行を撫でながら言った。

「本当に、ぼく達も未来の人達にそう思って貰えたらいいよね」

碁バカが居ると。こんな過去にも碁バカが居たとそう思って貰えたなら本望だ。

「うんうん。おれ達のことを想像してそれでいいなって思って貰えたらすっげえ嬉しい」

満面の笑み。

その瞬間ぼくの頭の中には、奥深い山の中で向かい合い、碁を打つぼく達二人の姿が鮮やかに浮かんだ。


「なんですか? 何か面白いものでもありましたか?」

唐突な声に我に返る。

振り返ると、追いついて来た囲碁クラブの方が汗を拭きつつぼく達とパネルを見比べている。

「ええ…実は」

説明しようとした時、進藤が素早くぼくの脇腹を軽く小突いた。

「二人だけの秘密にしようぜ」

こそっと小さな声で囁く声にぼくは思わず微笑んだ。

「このパネルに何か?」

「いえ、彼がこの呪文みたいなものは何だと聞くので読み方を説明していただけなんですよ」

「はあ? なんだよそれ。それじゃおれがすげえ阿呆みたいじゃん」

「でもキミ、これ読めないよね」

あの一行以外は全く読めなかったはずなのだ。

「…うっ」

「それよりも先ほどの平安京の展示についてなんですが」

ぼくはその人を促すとパネルの前から離れ、先ほどの展示に向かって歩き始めた。

「塔矢先生はあの時代が余程お好きなんですね」

「ええ、以前からとても興味があって―」

去り際にちらりと後ろを見ると、進藤はまだパネルの前に居て、感じ入ったようにそっと文字を撫でていた。

愛しそうなその様子に彼もまたあの文に自分とぼくを見ているのだと思って嬉しくなった。

(いつか本当に山の中で打ってみようか)

山小屋でも借りて、いや人里離れた鄙びた宿でもいい。せわしない日常を忘れ、飽きるまで二人で打ってみたい。

(いや、飽きることなんか無いんだ、きっと)

いつまでも、いつまでも、永遠にぼく達は打ち続けることが出来るだろう。

そう思った瞬間心が通じたかのように進藤がぱっと顔を上げてぼくを見た。

そして、それこそしっぽを振った犬のように笑顔でぼくに向かって駆けて来たので、ぼくもまた微笑んで彼を迎えたのだった。


※2012年5月3日のペーパーラリーで配布したペーパーのSSです。少しだけ書き直してあります。2015.6.21 しょうこ