イン・シアトル



非道くあっけらかんとしたものだった。

シアトルの囲碁センターに親善目的で招かれて2日目、向こうで指導に当たっている講師の一人に
家に夕食を食べに来ないかと誘われた。



『アキラは強いね、こちらでもよく話題になるよ』

『そうですか? ありがとうございます。でも日本にはぼくより強い棋士が他にたくさんいますよ』

『謙遜は良く無い。日本の若者の中で一番と聞いている』


会った最初から手放しで褒められて、そういうことに慣れていないぼくとしては大変居心地が悪かっ
たのだけれど、結局は碁打ち同士なわけで少し話す内に随分打ち解けた。


彼の名前はバリーと言い、年は二十八歳だという。




『普段はホームセンターで働いている』


小さい頃祖父に教わって囲碁を始め、以来ずっと打ち続けているのだという。


『時々、囲碁だけで食べていけたらどんなにいいだろうかと思うけれど、こちらではそんなことは夢
物語だから』



好きなことを生業とすることが出来る君が羨ましいと嫌味では無く、心からの羨望として言われた。


『すみません』

『どうしてアキラが謝る? 日本人の悪い癖だ、自分が悪いわけでは無いのに謝るのは良く無い
ね』



そして話を変えるようにして言われたのだ。


『そうだ、良かったら今日家に夕食を食べに来ないか?』

『え?』

『明日には日本に帰ってしまうんだろう? 折角日本の棋士に会えたのだから日本の棋戦のことを
もっと聞きたい』



帰りはちゃんと車でホテルまで送るからと言われて少し迷ったけれど承諾した。


『解りました、お言葉に甘えます』


その瞬間怒られた。


『アキラ、それはいけない。どうしてちゃんと私の身元を確認しないんだ。ここは日本じゃない。そん
な風に簡単に人を信用して付いて行っては命が幾らあっても足りないよ』


『はあ…』


もちろん用心しなかったわけでは無い。来る前にこちらの事情をよく知っている人に彼の噂を聞き、
大変な親日家で信頼出来ると言われていたので承諾したのだ。



『今すぐあそこにいる、センターの責任者に確認して来なさい。そうしてからで無ければ君を連れて
なんかいけないよ』


『解りました』


なんとなく腑に落ちないものを感じながらも自分を思いやって言ってくれていることは確かだったので、
ぼくは素直に従った。


そしてそこでも『心配無い』『シアトルで一番信用出来る男だ』とのお墨付きを貰って、ぼくは改めて招
待を受けることを伝えたのである。



『オーケー、それじゃ最高のディナーをご馳走するよ』


そして車で15分程の彼のアパートメントに連れて行かれた。




『ハイ、ぼくだよ』


インターホンに向かってそう言う彼を見て、ぼくは少し驚いた。


『ご家族がいらっしゃるんですか?』


あまりにも気楽に呼ぶものだから、てっきり一人暮らしなのかと思っていた。


『家族…うん、そうだな。パートナーと二人で住んでいるんだ』


なるほど結婚しているのか、でもワイフとは呼ばないんだなと生きた英語の勉強のつもりで彼の後ろ
について行ったら、階段を上がった先の白い扉が勢いよく開いた。



『おかえり』

『ただいま、ハニー』


愛情の篭もった声でハグをしてキスをする、その有様を見ていたぼくは仰天した。

バリーのパートナーは彼よりも背の高い金髪の男性だったからだ。


『アキラ、紹介するよ。これが私のパートナーでシリルだ』

『よろしく』

『…よろしくお願いします』


圧倒されながら握手をして、そのまま中に通される。

二人が暮らす部屋は日本の感覚で言えば充分過ぎるくらい広く、シックな内装でまとめてあった。


『いい趣味だろう』

『はい、落ち着きますね』

『シリルの好みなんだ、彼はインテリア関係の仕事をしていてね』


勧められるままソファに座り、温かいコーヒーと手作りのケーキを出される。

『今日はぼくが夕食を作るよ』


バリーが言うとシリルが微笑んだ。


『そう? じゃあぼくはアキラと話をしていようかな』

『…仲がいいんですね』


ちゃんと豆から挽いて入れてあるコーヒーを口に含みながら、ぼくは目の前のバリーのパートナー
に向かって言った。



『愛し合っているからね。でも喧嘩はよくするよ』


けろっとした口調で言われて思わず笑ってしまった。

なんとなく、進藤を思い出したからだ。


『いつからこんな風に?』

『四年目かな…うん。前の彼と別れてからバリーと出会ってちょうど今年で四年目になる』


それが短いのか長いのかぼくには判断出来なかった。


『驚いただろう』

『え?』

『彼、君に何も言わずに連れて来たんじゃない? 日本は同性同士のカップルは希だって聞いてい
るから、ぼくを見て驚いたんじゃないかなって』


『はあ…驚いたことは驚きましたが』


驚きの内容が少し違う。

パートナーが同性であるにも関わらず、彼があまりに普通にぼくを招待したのでそれに驚いたのだ。


『そうそう、心配しなくてもいいよ。よく誤解されるけれど、ぼくらは別に見境無くセックスしているわ
けじゃないから』



君を襲ったりしないから安心してと言われて苦笑した。


『そんな心配はしていません。仮にもしそんなことがあったとしても、出来うる限りの手段を使って逃
げ出しますから』


『へー、君、おもしろいね。ちょっと気に入っちゃったかもしれないな』


そう言って、ぐいとシリルがぼくに向かって顔を突き出して来た途端、後ろからバリーが鍋の蓋でシリ
ルの頭を殴った。



『ハニー、冗談ならいいが、もし本気でやっているなら即刻君を撃ち殺すぞ』

『痛いな、冗談に決まっているだろう』


そしてぼくが見ている目の前でちゅっと軽いキスを交わす。


『アキラ、もう少しで出来上がるからあっちのテーブルに移動しないか?』

『早いね、お客さんにシリアルを出すつもりじゃないだろうな』

『今日はちゃんと下準備をして来たんだ。もし上手く誘えたらぜひトウヤアキラに我が家に来てもら
おうって』


『それ、ぼくが君を撃ち殺してもいいような内容だけど?』

『バカだな、愛しているのはおまえだけだよ』


日本では有り得ない会話である。

あっけらかんと、あまりにあっけらかんとおおっぴらにしているのでぼくはひたすら圧倒されて、で
も不思議と違和感も不快感も全くなかった。



『さあ、たくさん食べて行ってくれ、じゃがいものキャセロールはママからの直伝でね自信作なんだ』


言いながら次々とテーブルに皿が置かれて行く。

『飲み物はどうする?』

『ビールでいいだろう』

『あ、すみません。ぼくは水で』


笑われるかと思ったが二人ともくすりとも笑わず、至極当たり前のようにミネラルウオーターの瓶
を持って来てくれた。



『それじゃ、素晴らしい出会いを記念して乾杯』

『乾杯』


きれいなカットグラスと二本の缶ビールで乾杯をする。



料理は直伝というだけあって本当に美味しく、付け合わせのサラダやデザートも皆とても美味し
かった。



『昼間、バリーはぼくのことを羨ましいと言ったけれど、ぼくはあなたの方が羨ましいかもしれな
い』



それは食事も進み、様々な話題と共に二人のなれそめなどを聞いていた時のことだった。

飲んでもいないのに、ぼくはふいに酔ったような気持ちになって口を滑らせた。


『何が? 君に羨ましいと言って貰えるようなこものはぼくにはシリルしかいないけれど』

『それが…羨ましいです』


二人は近所にも勤め先にも家族にも公表して暮らしているのだという。


『好きな人と何を隠すこと無く堂々と生きていける、それがぼくには羨ましい』


棋士として生きるには日本はここよりもいいだろう。けれど同性をパートナーとして生きるには
日本はここよりずっと厳しい。



『あのね、アキラ』


言いかけたバリーをシリルが制する。


『そんな良いものじゃないよ。こっちだってゲイを嫌う人達は多い。ぼく達だって道を歩いていて
いきなり何の理由も無く、殴られることだってあるんだ』



『―え?』

『ここの前に住んでいたアパートではドアに落書きされたりガラスを割られたり散々だったね』

『そうそう、職場でも人を毛虫みたいに扱うヤツもいるしね』

『それでも付き合っていることを隠さないんですか』

『どうして隠す必要がある? ぼく達は愛し合っているのに』


飲んでいるミネラルウォーターを頭からぶちまけられたような気がした。


『それで何を言われても…そうだね、例え殺されることがあったとしてもぼく達はぼく達のことを
誰にも隠そうとは思わないよ。だって―』



ぼくのパートナーはシリルだけだからと、少し照れたようにバリーが言うのにシリルもまたはに
かんで返した。



『それはこっちのセリフだ』


身長が百九十は軽く越える大男二人が、でもこの瞬間とても美しく可愛らしく見えてしまった。


『…すみません』


何も知らずに無神経なことを言ってしまったと申し訳無い気持ちで謝ったのだけれど、すぐさま
バリーに睨まれてしまった。



『アキラ、だからそうやって謝るのは日本人の悪い癖だ』

『そうそう、そんなにすぐに謝っていたら、こっちじゃすぐに加害者にされちゃうよね』


くすくすと笑って、それからシリルがぼくの頭に手を置いた。


『君も好きな人がいるんだね、色々大変だと思うけど、そういう時まで日本人的なのは良く無い
な』


『誰が誰を好きになってもちっとも悪いことじゃない。なのに最初から「申し訳無い」「すみません
でした』なんて謝っているのじゃ』



相手が例え誰であっても成就することは出来ないよと、さり気ない言い方ではあったけれど言わ
れた言葉はずしりと胸に響いた。



(ああ、今すぐ進藤に会いたい)


目の前の恋人達があまりに誠実に愛し合っているので、ぼくもぼくの好きな人に会いたくてたま
らなくなってしまった。


シアトルに来る前、散々お守りだのなんだのぼくに持たせ、口うるさく注意してから渋々と見送っ
てくれた彼。


きっと自分よりはずっと彼らの方に近い考えの進藤は、今の会話を聞いたらなんて言うだろうか。


『アキラの好きな人は彼? 彼女?』


にっこりと笑われて、普通なら躊躇う所をぼくは素直に答えていた。


『彼です』

『そうか、だったらぜひ次に来る時はその「彼」も連れて来て欲しいな』


誘惑したりしないから大丈夫だよと茶化すように付け加えて、それからまたにっこりと笑う。胸の
奥に凝り固まっていた何かが解けるような笑みだった。



『ありがとうございます。絶対にそうします』


そして再び会話が続く。

重ねられる杯と、美味しい料理と、温かい空気。


(ああ、明日帰るなんて残念だ)


もう少しシアトルに滞在して、彼らともっと話がしたい、そう思った。


「でも、進藤が待っているから…」


(帰らなくちゃ)


『ん? 今なんて言った? 日本語だったよね』

『なんでもありません、ちょっと思い出していただけで』

『「彼」のこと?』

『…ええ』


いつかまた必ず来よう。

この次は進藤を連れて、絶対にこの二人に会いに来ようと、ぼくは幸せな気持ちに満たされな
がら心の中で誓ったのだった。




※シリルさんは碁はしません。でも彼が打っているのを見るのは好きという人。
バリーさんはちょっと小太りで、縮れた赤毛の男性ですって、なんでそこまで設定してんだ自分。
ヒカルはもちろん大喜びでやって来て、いきなり最初にそれだけは完璧に覚えて来た英語で『アキラはおれのだから手ぇ出さないでね』
と言い放ちます。そしてアキラに殴られます。
2012.8.31 しょうこ